第八話 美食家か健啖家か
アーサの手元には、二枚の略式契約書がある。男子寮寮監と女子寮寮監のサインが入った、計五十個のオレンジタルトの受注契約書だ。
「通っちゃった」
いつもなら恐怖の対象である女子寮寮監と相対していた先ほどまでの緊張感が一気に抜け、アーサは歩きながら呆然としている。カルロがアーサと肩を組み、上機嫌でアーサの頬をつつく。
「女子寮寮監にオレンジタルトの味を気に入ってもらえてよかったな。あれで交渉成立は決まったようなもんだった」
「そうだね、アーサの売り込み方がよかったよ」
アーサはカルロを強引に引き剥がし、レヴィルスを盾にして逃げる。どうにもカルロはアーサを女性扱いしていない、レヴィルスもだがよりひどい、とアーサは遅まきながら気付きはじめた。
それはともかく、アーサはちょっと自慢げに解説する。
「女子寮寮監は女子がコーヒーを嗜むことに否定的だから、オレンジなら紅茶が合うから皆紅茶を積極的に飲むようになるはず、って思ったのよ。上手く当たってよかったわ」
「まあ、その紅茶もうちから出せるしな。デ・アルマエリス商会にとっちゃ出遅れだな、はっはっは!」
「そうでもないさ。男子寮寮監は大のカフェ好きだからね。すでにカフェテラスにうちのコーヒーを五種類ほど卸すことが決まってる。男子寮寮監のお墨付きのコーヒー、まずは監督生たちが飲んで、宣伝に一役買ってくれるよ」
「んだと、抜け駆けしやがって!」
「はいはい、喧嘩しないで」
どうどう、とアーサは二人の間に挟まってなだめる。身長差もあって、アーサの両手は二人の胸を一生懸命押しているのだが、本当は顔を押さえたかった。さっきの頬をつついた仕返しは残念ながら成功しなかったし、女子学生が男子学生の力に敵うわけもなく、危うく押し潰されそうになった。
それでも二人を引き離し、アーサは話題を変えようと思いついたことを口にする。
「そういえばさ、私、あんまり二人の家のことは知らないんだけど、どんな家なの?」
すると、カルロはにんまりと、レヴィルスは目をキランと輝かせた。待ってました、とばかりに喋りだす。
「やっと興味が湧いてきたか? いいぞ、どこから聞きたい? うちは爵位じゃなくて植民地藩族国のトワイン王国副王家の称号持ってるぞ」
「へ!?」
「我が家は新大陸総督パリス公爵家の財政顧問と副総督をしていてね、爵位こそないものの序列は公爵家に次ぐところかな」
「ほえ!?」
アーサは口を陸に揚げられた魚のようにぱくぱく開け、二人を交互に指差す。副王家だの副総督だの、とんでもない立場の話がぽんぽん出てきた。驚きどころではない、今までまるで興味がなくて覚えていなかったが、二人はアーサのような末端の貴族にはまったく関わりのないほど超上流階級だ。勝てるのは家の歴史の長さくらいなものだろうか。
「まあ、あんまり言い触らしても家系図を得意げに語る貴族の連中みたいで嫌だから、普段は言わないんだけどな」
「そこは僕もカルロと同意見だ。これからの時代は実力主義だからね。実体のない空虚な位なんて無駄として淘汰されるだけさ」
二人は控えめだった。貴族社会は本国だけの話で、世界を股にかける商家の出身だとこのくらいあっさりしているのだろうか。アーサは取り止めもないことを考える。というよりも、彼らはとても現実主義者で、実利と合理を尊ぶ実践主義の申し子だ。将来の大商会を担う商人として、すでに才能の片鱗を見せているのだろう。
もうすでに、アーサは二人との立場の違いを実感しすぎてしまっていた。何てこった、気軽に付き合える人たちじゃなかった! そう思って後退りする。だが、目敏くカルロに見つかった。
「どうした、アーサ」
「私ごときがお二人のおそばにいることは甚だ不適当と申しますか本当畏れ多いというか帰っていいですか」
「アーサ、大丈夫大丈夫。落ち着いて」
あっさりとアーサはレヴィルスに肩を掴まれ、暴れる。
「何なのよぉ! うちはただの男爵家なの! お空の上のことは関わりたくないの!」
逃げようともがくアーサだが、ひょいと両脇を持たれて近くのベンチに座らさせられた。カルロは準備がいいことに、ポケットから砂糖菓子のドラジェを数粒取り出し、アーサの右手に乗せる。アーサはぱあっと顔を明るくして、食べていいのか上目遣いに確認したあと、すぐに口に放り込んだ。舌の上で甘いバニラの糖衣を噛み砕くと、アーモンドチョコがとろけ出る。すっかりアーサは大人しくなった。
「でもお前、ジェニー皇女と幼馴染だろ」
「何で知ってるの」
「女子寮の相部屋の相手くらい男子にだって情報は入るよ。それに、ジェニー皇女は君のことがお気に入りだろう?」
ジェニーのことでは買収はされない。アーサはこれ以上口に砂糖菓子を放り込まれる前に、ぷいっと二人から顔を背けた。
「ジェニーはいいの。ソフィヤもそうだけど、あくまで友達だから。毒見役だってほとんどもう意味はないし、警備が必要で外に出られないジェニーの代わりに私が首都の美味しいものを食べ歩いて報告する、それくらい友達として当たり前だもん」
ジェニーはベルドランド大帝国の第二皇女、おそらく成人すればどこかの王位を賜って女王となり、婚約者のヴァルカンド王国王子と結婚して国を治めるような立場だ。街中を警備もつけずに出歩くことはできないし、簡単に外で食事をすることも許されない。ただ、アーサは代わりに有名店や話題の店の味を覚えてきて、再現した料理を作ったり、毒が入っていないことを確認して出すこともある。それは毒見役だから、というよりも、ジェニーの幼馴染で、友達だからやっていることだ。ジェニーが寄宿学校を卒業して成人すれば、きっともう会えなくなるだろう。それまでの、友達のためのささやかな厚意だ。もちろん、アーサ自身が美味しいものを食べたい気持ちもあるが、それはそれ、むしろアーサの旺盛な食欲がジェニーという本命の目的を隠すことにも繋がる。
立ったままアーサを取り囲んでいたカルロとレヴィルスは、なるほど、と頷いていた。カルロがアーサの肩を叩く。
「安心しろ。結婚してもお前の友人関係にまで口を挟みやしない、味覚鑑定人として働いてくれれば」
「圧が凄い!」
レヴィルスがすかさずそこへ口を挟む。ついでにアーサの右手にカリソンという砂糖菓子を一つ握らせた。
「そうじゃない、カルロ。むしろアーサは舌以外にも食の経験や知識が豊富だ、ブランディングや広報戦略も彼女の力が役立つ」
「何で働く前提なのよ! 養ってよ!」
「馬鹿言うな、働かざるもの食うべからずだ」
「君は健啖家でもあるようだし、好きなだけ食べるには働いたほうがいいと思うけどね」
つまり、二人は結婚してもアーサをこき使う気満々だ。それが目的で結婚しようというのだから当然だが、アーサは納得がいかない。カリソンを一口で食べ、口の中がアーモンドとフルーツの砂糖漬けの甘さでいっぱいになったところで飲み込む。
そして叫ぶ。
「美食家ならまだしも健啖家なんて女子に使う言葉じゃなーい!」
とは言うものの、右手にドラジェ、左手にカリソンを与えられ、またしてもアーサはもぐもぐ頬張った。