第1話「必ず書き上げます」
「……シーナサンは、アイツに名前、聞かれたかい?」
アッチェレさんの質問に、メモを取りながら話を聞いていたわたしは、船長との出会いを思い出していた。
あのときは、作家と原稿受け取り係としての関係で、わたしが先に名乗ったんだったなぁ。
まさか、ムーシカ地方の人たちが女性の名前を尋ねることに、大きな自分の気持ちを込めているなんて知らなかった。
でも、知っていたとしても初対面の相手だったし、何よりあの状況じゃ、わたしが先に名乗るのが礼儀だったもんね。
「聞かれる前に、名乗っていました。新しい原稿受け取り係としての自己紹介も兼ねてましたから。でも、すぐに名前を呼んでくれて嬉しかったですよ」
「ああ、それはね……アイツが自分に言い聞かせているのさ。アイツは、けっこう優秀に見えて、女の人を髪型でしか判断できないっていう弱点があるんだよ。面白いだろう?」
アッチェレさんは、そう言って笑うと、グラスに残ったウイスキーを豪快に煽った。
そういえば、ジュスティーヌさんのノートの中にも、船長が髪型の違うジュスティーヌさんやスラー伯爵夫人の前で途惑うシーンが出てきた。
あの船長にも、苦手なことがあるんだなぁ。
わたしの中で完璧だった船長の姿が、良い意味で崩れていった。
うん……
苦手なことがあるほうが、やっぱり人間らしい。
なんというか、親近感が湧いてきて、わたしは小さく口元を綻ばせた。
「シーナサン、ちょっと見てごらん」
船長の苦手なことをメモしたわたしに、アッチェレさんが目の前の酒棚を指さした。
「うちの店、並んでいるお酒が少ないだろう?」
酒棚は天井に届くほど大きなもので、一見するとたくさんのボトルが並んでいるように見える。
お酒は家で呑むことの多いわたしは、こういうお店には来たことがないので、棚がどれだけ埋まっていれば正解なのかはわからない。
しかし、棚をよく見てみると、所々に隙間が空いていて、どうやら並んでいるお酒の酒類も少ないらしい。
ラベルが後ろ向きのものを確認してみると、購入日は古くても2年前。
熟成されたほうが良いお酒も、3年以上寝かされたものは見当たらない。
つまり、3年以上昔のお酒は置いていないのだ。
3年前……
それは……
「ジュスティーヌが海に落ちて行方不明のままだって知らせる手紙が届いたその日に、あたしは何を思ったか……棚に並んでいた酒瓶をぜーんぶ落として割っちまったんだ」
「……」
「そこら中酒の海で、もう匂いだけで泥酔しそうなほどだったのに、あたしは海の真ん中に立って酒瓶を割り続けてた。飛び散った破片で手の甲が切れても、痛みなんて感じなかったよ」
「……」
「今思えば、かなりもったいないことをしたもんさ。どうせ割るんなら、アイツのウイスキーのボトルだけで十分だったのに」
アッチェレさんは、目を伏せて苦く笑っていた。
両手で包まれたグラスの中で、大きな氷がカランと鳴った。
そんなことがあったなんて……
わたしは声も出せず、ただ話を聞くことしかできなかった。
店内は、そんな惨劇があったことなど嘘のように静まり返っている。
アッチェレさんは、強くグラスを握りしめたまま、話を続けた。
「アイツが、心の底から憎かった。自分は、あの子に2度も命を救ってもらったっていうのに、アイツはあの子を守れなかった……それどころか、すぐに助けられなくて行方不明のままだなんて……っ!!」
アッチェレさんの手の中で、グラスがキュッと音を出した。
わたしには、今にも割れてしまいそうなほど強い力でつかまれたグラスの悲鳴のようにも聞こえた。
強い怒りの中で、アッチェレさんの話は続いていく。
「許せなかった……目の前に現れたら、絶対にこの手で始末してやる。あの子と同じように、海に沈めてやるんだ……それだけを思いながら、この3年間を生きながらえてきたんだ」
「……」
「もちろん、アイツを海に沈めたり切り刻んだりしたところで、あの子がひょっこり帰ってくるわけじゃないだろう。そんなことは百も承知さ。でも……アイツへの怒りがないと、あたしは正気を保っていられなくて、自ら命を絶っていたと思う」
「……」
「アイツへの怒りを胸に溜め込んで、長い3年が過ぎていった。そしていよいよ、アイツが目の前に現れた。それなのに……あたしは、海に沈めるどころか、一発殴りつけることしかできなかった」
アッチェレさんはそこで一息つくと、乾いた喉を潤すためか、グラスに中の氷水を一口飲んだ。
わたしがグラスにウイスキーを注ごうとすると、アッチェレさんはそれを手で制して深く息を吸った。
「……」
しばらく沈黙が続く。
どうやら、次に話すことを整理整頓しているらしい。
目の前でグラスを握るアッチェレさんは、そんな表情を浮かべていた。
……どれくらい経った頃だろう。
微動だにせず待ち続けていると、ようやくアッチェレさんが続きを話し始めた。
「これは、ちょっと信じてもらえるかわからないけど……アイツを殴りつけて、こんなんじゃ物足りない、もう一発殴ってやると思って拳を握ったとき、聞こえたんだ……あの子の声が」
『母さまっ!!』
「……短く呼ばれただけだったけど、確かにあの子の声だった。そして、あの子の声が聞こえた後、ちょうどよくシーナサンが出てきたんだ。だから……シーナサンが一瞬……本当に一瞬だけ、あの子に見えてね」
「えっ……」
わたしが、ジュスティーヌさんに……
驚いた。
あの似顔絵とは似ても似つかない、このわたしが……
そうか、それほどアッチェレさんは……
「それで、ようやくわかった。あの子がここへ来たってことは、アイツがあの子のことを……命の恩人のことをどれだけ大切に思っていて、あの子のためにどれだけ手を尽くしたかがわかったんだ。シーナサンに言われるまでもなく、気がついてはいたよ。アイツがあの子を守れなかったんじゃなくて、あの子がアイツを守った結果なんだって」
「……」
「シーナサンの姿を借りて、あの子が出てくるほどだ。だから、アイツを許してやることにした。そして……信じてみようと思ったんだ。アイツと、アイツを信じてついてきた、シーナサンを」
「わたし、ですか……」
船長とジュスティーヌさんと、それからわたし。
「……」
船長とジュスティーヌさんの話の中に、縁もゆかりもないわたしが混ざってくる違和感……
それなのに、アッチェレさんはわたしに向き直ると、
「会ったこともないあの子を探しに、はるばるこんなところまで来てくれて、本当にありがとう……あの子のこと、よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げた。
え、ええっ、そんなこと言われても……
ああ、どうしよう。
こんなわたしに、できることなんて……っ!
なんでこんなにオロオロしてるんだ、わたし!
わたしは、アッチェレさんが見ていないのを確認して、首をブンブンと振った。
なんとかするんだ、わたしが!
だから、もっとシャキッとしなくちゃ!
わたしは深呼吸をして、ゆっくりと頭を上げたアッチェレさんに、自信をもって口を開いていた。
「アッチェレさん……わたし、必ずここにジュスティーヌさんを連れて帰ってきます。そして、必ず書き上げます。ラストシーン……親子の再会のシーンまで、必ず……約束します」
差し出した自分の右手を見て、無意識に握手を求めている自分に驚く。
それでも、これは決意なのだ。
無意識レベルの、大きな決意なのだ。
そんな大きな決意を、アッチェレさんはうんと口角を上げて、両手で受け取ってくれたのだった。
つづく




