第8話「そんな大げさな」
もとはといえば……
あたしがハンカチを落とさなければ、こんなことにはならなかったんだ。
この少年に、一言も謝らせたりなんてしないよ!
アッチェレさんは、少年が頭を下げる前に喋りだそうと身構えた。
しかし……
肩を怒らせて駆けて来た父親は、少年の前で立ち止まると、
「ああ、よかったあぁ」
まるで、風船の空気が抜けたように微笑んだ。
「よかったよ、ジークレフ。ここにいてくれて、本当によかった!」
少年の父親は、心底ほっとしたように少年の肩を抱いた。
その揺さぶりが激しかったので、少年の指がジュスティーヌさんの手から離れてしまった。
あっ!
大変だ、このままじゃ……!
アッチェレさんと少年は、先ほどの大騒動を思い出して息を呑んだが……
ジュスティーヌさんは、もう泣きわめいたりしなかった。
あれ……
この子、もう気がすんだのかねぇ……?
アッチェレさんは不思議に思いつつ、父子のほうへと視線を戻した。
少年の父親は、まだ「よかったよかった」と繰り返している。
そんな父親を前に、少年は首を傾げていた。
よかったって、何がだい?
少年の後ろでアッチェレさんも一緒に首を傾げていると、父親は小さく深呼吸をしてから口を開いた。
「実は、お前と待ち合わせていた場所で、大きな火事があったんだ」
「……えっ」
「待ち合わせ時間の少し前のことだ。火事の知らせを受けて教会から駆け付けたんだが、どこを探してもお前の姿がなくて……建物の一角は黒焦げで、どうやら重傷を負った人もいると聞いたから気が気じゃなかった。そこから、人づてに馬車の待合所に男の子がいると聞いてね」
「……」
「いつもの真面目なお前なら、待ち合わせに遅れることはないから、絶対に火事に巻き込まれたと思っていたが……今日に限っては、遅れてくれて安心したよ」
「……」
胸をなでおろす父親の前で、アッチェレさんと少年は、しばらく顔を見合わせていた。
そして、どちらからともなく一緒に視線を動かした。
その先には、もちろんジュスティーヌさんがいる。
ふたりに見つめられたジュスティーヌさんは、嬉しそうに両手と両足をせわしなくブラブラとさせていた。
そして、アッチェレさんと目が合うと、これ以上ないほどのご機嫌な顔で笑ったのだった。
★彡☆彡★彡
それから、数時間が経ち……
アッチェレさんとジュスティーヌさんは、港町カイサーへと向かう乗合馬車に揺られていた。
もちろん、馬車の順番が回ってきたわけではない。
あの父子が、自分たちの切符を譲ってくれたのである。
『なるほど、そうでしたか。ということは、その赤ちゃんは息子の命の恩人というわけですね』
アッチェレさんとともにベンチに腰かけた少年の父親は、アッチェレさんの話す今までのことを、頷きながら聞いてくれた。
そして、息子が待ち合わせ場所に現れなかった理由を知った父親は、いたく感動したようにジュスティーヌさんの顔を覗き込むと、
『息子を救っていただき、心から感謝いたします』
と、相手が赤ちゃんであるにも関わらず、胸に手を当てて深々と頭を下げたのだった。
『ほら、ジークレフ。お前もこの子にしっかりお礼を言っておきなさい』
父親は、隣に座っていた息子に向き直った。
ジークレフと呼ばれた少年は、そんなこと言われなくてもわかっているとばかりに大きく頷くと、アッチェレさんの胸に抱かれたジュスティーヌさんの顔を覗き込んだ。
ジュスティーヌさんは、自分がしたことなんて関係ないとばかりに、ぐっすりと眠っていた。
少年はジュスティーヌさんの寝顔を見て微笑み、声を潜めて、
『……ありがとう。君に助けてもらったこと、忘れないよ。絶対に』
そう口にした。
忘れない、なんて……
そんな大げさな。
アッチェレさんは、そんな少年を怪訝な顔で見守っていた。
あんたは、何もかも始まったばかりだろう。
こんな辺境の地で出会った親子連れのことなんて、自分の家に帰った途端に忘れてしまうに決まってるよ。
仕立ての良いコートに、ジークレフという名前……
アッチェレさんには、すべてわかってしまった。
この少年は、ムーシカ王国の貴族の子どもだ。
ムーシカの人は、目の色と髪の色が必ず同じになる。
少年の目の色と髪の色が違っていたせいで最初は気がつかなかったが、少年の父親はどちらもこげ茶色だった。
身分の高さが溢れ出ている父子が、こんな辺境にいるということは……
おそらく、少年の母親がプラデラの人間で、ふたりで遠くに住む彼女を訪ねていたのだろう。
まあ、すべては想像の物語だけどね。
だから、どうして母親と離れて暮らしているのかなんて、あたしは知らないよ。
アッチェレさんがそんなことを考えている間も、少年はずっとジュスティーヌさんの寝顔を見つめていた。
そして、
『きっとまた、いつかどこかで会えるといいね』
そう囁いて、にっこり微笑んだ。
『……』
アッチェレさんは、何も言わずに黙っていた。
少年は、まだ知らない。
この世界にある「いつか」も「どこか」も、そう簡単に巡り合えるものではない、ということを。
でも……
叶わない願いかもしれないけれど、信じていてほしい。
そうすれば、きっと……
アッチェレさんは、少年の微笑みを見つめながら、自分も笑っていることに気がついて驚いていた。
あたしってば……
メヌエが亡くなってから、久しぶりに気持ちが楽になったんだね。
『ところで……おふたりは、ここから港町カイサーへ?』
少年の父親が、少年を見つめて微笑むアッチェレさんに尋ねた。
アッチェレさんは、乗合馬車の順番を待っているがなかなか乗せてもらえないこと、港町カイサーから良い船に乗るために馬車にはあまりお金はかけられないことを簡単に説明した。
最後のほうは愚痴のようになってしまったが、少年の父親は嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。
そして、ひと通り聞き終えると、
『よろしければ、こちらを使ってください』
仕立ての良いコートの内ポケットから、小さな長方形の紙を2枚取り出して、アッチェレさんに握らせた。
それは、乗合馬車の切符だった。
もちろん普通の切符ではなく、金の縁取りがされている上質な紙に手書きの美しい字で「即時乗車可能」と書かれた、超が3つぐらいつく高額切符である。
『……』
あまりのことに声もなく固まるアッチェレさんに、少年の父親は微笑んで話し続けている。
『これを使って次の馬車に乗れば、今日中に港町カイサーに着けると思いますよ。私たちは急ぐ旅ではありませんし、もう少しここに滞在します。火事があった場所の片づけなど、息子と一緒にいろいろ手伝おうかと思いまして』
『それ、父さんが言わなかったら代わりに言おうと思ってた!』
少年もまた、満面の笑みを浮かべてアッチェレさんに頷いてくれていた。
……あの笑顔は、こうして乗合馬車に揺られている今でも、アッチェレさんの脳裏に鮮明によみがえってくるのだった。
ムーシカの人間にも、良い人はいるんだね。
まあ、それもそうか。
……あの父子が戦争を引き起こしたわけじゃないんだから。
日が差さない「昇らずの森」を迂回して、馬車は北へと進んでいく。
エスペーシア王国へ入国し、港町カイサーが目と鼻の先まで近づいてきた。
東の空はすっかり薄暗くなり、西の空には光り輝く水平線が見える。
そして、それを照らして沈んでいく夕日……
「……」
澄んだ空気の中に広がる美しい冬と春の空を前に、アッチェレさんは、だんだんと自分も信じてみる気になっていた。
そう簡単に巡り合えるわけではない「いつか」と「どこか」を。
つづく




