第6話「さて、この少年……」
それから、数日後。
アッチェレさんは、ジュスティーヌさんのためにまとめた荷物を背負い、ジュスティーヌさんをお腹に抱え、港町カイサーへ向かう乗合馬車を待っていた。
プラデラ大平原にある馬車の停留所は、時計台を兼ねた大きな建物になっており、ここから各国の主要な町へ向かう馬車に乗ることができた。
利用者は西大陸へ向かう旅人が多いため、各港町へ向かう馬車は常に満席状態だった。
アッチェレさんも、かれこれ数時間は待たされている。
「……子連れを優先してくれりゃいいのに」
ようやく一席分空いたベンチに腰掛け、アッチェレさんはぽつりと呟いた。
……金持ちじゃなくてさ。
そんな言葉が喉元まで出かかったけれど、口には出さずにぐっと飲み込む。
アッチェレさんの目の前を、高価そうなコートに身を包んだご婦人と、細かな装飾のステッキをついた旦那様が歩いていき、到着したばかりの大型馬車に乗り込んでいった。
おそらく、規定料金の倍額を支払っている、どこかの国の貴族様だろう。
あぁあ、世の中、金なんだねぇ。
アッチェレさんは、走り去っていく馬車を見つめていることしかできない自分に嫌気がさして、はあぁと大きくため息をついた。
ジュスティーヌさんの1歳の誕生日を、父や妹みんなでお祝いしたかったアッチェレさんは、すぐにでもソニード王国へ帰ろうと思っていた。
それなのに、これでは風向きが完全に変わってしまう前に船に乗れるかどうかもわからない。
お金なら、メヌエさんが生前、自分の貴族時代の高価なものを売ってくれたので、あるにはある。
しかし、ここで大金を支払ってしまうと、港町へは早く着けるかもしれないが、良い船には乗れなくなってしまうだろう。
客船もまた馬車と同じく、金銭の量で良い船に乗れたり、割り込み乗船ができたりするのである。
長い船の旅だ、何が起こるかわからない。
だから、できるだけ治安のいい船に乗りたい。
港町カイサーのあるエスペーシア王国は「平和を絵に描いた国」として有名だけど、船に乗る人はエスペーシア王国の人たちだけじゃない。
……念には念を入れたいんだ。
「……」
先ほどから、お腹がもぞもぞとくすぐったい。
アッチェレさんが見下ろした先では、ジュスティーヌさんが落ち着きなく手足をバタバタさせながら、もぞもぞと動いている。
それはまるで、目にしている景色が変わらなくてつまらないから、立って動いてくれと言っているように見えた。
あらら、あたしが座ってるってのがわかっちゃったんだね。
メヌエが抱っこしていたときから、この子は立って動いていてあげないと機嫌が悪くなってきて、しまいにはぐずって泣き出しちまうんだよねぇ。
アッチェレさんは、お腹にぐずりそうなジュスティーヌさんを抱え、大荷物を背負って重い腰を上げた。
そのまま、てくてくと待合所の中を歩き出す。
ぐずって泣き出してしまうと、なかなか泣き止んでくれなくて、周りの目もあるし、とても困るんだよ。
背中の荷物は重たいけれど、この子が完全に寝付くまでは、座れそうにないねぇ。
「……」
いちばん良いのは、もう馬車の順番が回ってくることだ。
そうすれば、ほどよい揺れがあるから寝付いてくれるだろう。
……いや、待てよ?
「……あの~」
もしも寝付いてくれなかったら、馬車の中で大泣きして、とんでもない大迷惑になるんじゃないか……?
ああ、大変だ。
それだけは、どうにかし
「あのーっ!」
……ん?
先ほどから耳には届いていた声が近づいてきて、アッチェレさんは足を止めた。
振り向くと、そこにはひとりの少年が立っていた。
アッチェレさんと目が合うと、少年は気がついてもらえて安心したというように小さく微笑んだ。
なんだ、あたしを呼んでいたのか。
もう少し大きな声で呼んでくれていたら、すぐに気づいてやれたのに。
アッチェレさんは、さりげなく少年を観察した。
年の頃は、12、3歳……
さっきの声は少しかすれ気味だったから、声変わりの時期で大きな声を出すのが恥ずかしかったのかもしれないね。
アッチェレさんの脳裏に浮かんだのは、声変わりしたばかりの義兄の姿……
妹のアッラルさんに「兄さん変な声~」なんて言われて、びっくりするほど無口になってしまった義兄の姿と、目の前に立つ少年の姿が重なって見えた。
さて、この少年……
あたしに、いったい何の用だろう。
アッチェレさんが黙ったまま待っていると、少年は手にしたものをアッチェレさんに差し出した。
「これ……さっき立ち上がったときに、落としたのが見えたから」
少年の手の中には、1枚のハンカチ……
それは、生前メヌエさんが愛用していたハンカチで、アッチェレさんがコートのポケットに入れていたものだ。
白いレースの編み込みは繊細で美しく、だれが見ても高級品だとわかる。
落とした場所が悪ければ、もう二度と手元には戻って来なかったに違いない。
……危うく、親友の形見を無くしてしまうところだった。
「ありがとう……助かったよ」
アッチェレさんは、心優しい少年からハンカチを受け取った。
少年は、心からほっとしたように、
「よかった、大事なものだったんですね」
少しかすれた声で、嬉しそうに微笑んだ。
12、3歳ぐらいの少年は、身長がアッチェレさんの肩あたりで、わりと小柄だったが、聡明な顔立ちが彼を大人びて見せていた。
クルクルと跳ねているくせっ毛は茶色がかっていて、にこにことしている瞳は深い緑色……
アッチェレさんは、色の種類にそれほど詳しいわけではないので、少年の髪の色と瞳の色を、的確に何色と言い表せばいいのかわからなかった。
それでも、太陽光を浴びてキラキラとする少年の髪の毛は、絵描きだった義母のアトリエに並んだ色とりどりの絵の具を思い出させた。
「……」
少年はというと、さりげなく観察を続けるアッチェレさんに構うことなく、お腹に抱っこされているジュスティーヌさんを、穴が開くくらいじーっと見つめていた。
ジュスティーヌさんは、アッチェレさんが立っているだけで満足らしい。
楽しそうにキョロキョロして、自分を見つめている少年に気がつくたび、目を丸くして驚いているようだった。
少年の高すぎない身長がちょうど良いのか、ふたりともお互いの視線がぴったり合っている。
あら、面白いねぇ。
このふたり、お互いにお互いが珍しいって顔してる。
もしかしてこの少年、赤ちゃんなんて見るのも初めてかもしれないね。
ああ、そうだ。
ハンカチ拾ってもらったし、お礼に面白いこと教えてあげよう。
アッチェレさんは、ジュスティーヌさんを見つめる少年に、人差し指を立ててみせた。
「あたしのマネ、してごらん」
「……?」
少年は、アッチェレさんの言動に首を傾げつつも、同じように人差し指を立てた。
「それを、この子の前に出してごらん。面白いよ」
アッチェレさんに言われるまま、少年がジュスティーヌさんの前に指を出すと、ジュスティーヌさんは目の前に現れた少年の指を、ぎゅっとつかんだ。
「わあ……っ」
少年の口から、思わずといったような感嘆の声が漏れた。
そして、瞳の奥までキラキラとさせながら、少年は人差し指を小さく上下に揺らした。
ジュスティーヌさんは、不思議そうな顔をしながらも、一緒に揺れている。
赤ちゃんは、目の前に現れたものに手を伸ばして、ぎゅっとつかむ習性みたいなものがある……
それは、アッチェレさんがプラデラ大平原に来たばかりの頃、メヌエさんが教えてくれたことだった。
今度はそれを、アッチェレさんが少年に教えたのである。
つづく




