第1話「どういうこと??」
船長の「言葉の綾」発言から、数日後……
ついに、モンターニャ号の船尾から見えていた東大陸が、水平線の彼方に飲み込まれて見えなくなった。
ここからまだまだ旅が続くというのに、景色はもう長い間変わらないという。
見渡す限りの海、右も海、左も海。
見上げれば青い空、そして白い雲……
ときどき、ごく稀に違う港から出港したらしい大型客船が、左右の水平線に見えたりする。
そんなとき、わたしはつい甲板掃除の手を止めて客船に見入ってしまう。
あれは北西に見えているから、方角からいってベスティード王国の港町、スボンリーへ向かう船だなぁ……
そして、そんな船を見つけるたびに考えてしまうのだ。
あの中に、ジュスティーヌさんがいたりしないかな、と……
「シーナちゃん、また船を見ているのね」
船首甲板をデッキブラシで磨く手を止めて、水平線を行く客船を眺めていると、いつの間にかレンゲさんが隣に立っていた。
お疲れ様です、と挨拶しようとしたわたしだったけれど、はたと気がついた。
レンゲさんが台所からここへ来ているということは、もう夕食の支度が整ったということで……
つまり……
しまった!
わたしの仕事が遅れている!
「すみません! 今、終わらせますからーっ!」
慌てて甲板磨きに戻ろうとしたわたしを、レンゲさんが穏やかな笑みで引き留めた。
「シーナちゃん……ちょっと聞いてもらいたいことがあるの」
「は、はい……?」
なんだろう……
わたし、何かやらかしたかな。
……やらかしすぎて、心当たりがありすぎるほどなんだけれど。
ドキドキしながら待っていると、
「もう知っていることかもしれないけれど……あたしとダンナは、西大陸に到着しても、この船を降りることはできないのよ」
レンゲさんは、一言ずつ噛みしめるようにそう言った。
「……え?」
どういうこと??
まさか、海に落ちたら泡になってしまうとか、陸に上がると砂になってしまうとか、そういう魔法的なお話……?
なんて、小説の読みすぎみたいな想像をしてしまったものの、レンゲさんはわたしの反応に満足したのか、
「あら、知らなかったのね。これは説明のしがいがあるわ」
と、嬉しそうに語り始めた。
「あたしとダンナの出身国であるコシーナ王国では、他国との関わりはあまり推奨されていないの。他国民と話をすることはもちろん、他国へ行くことも船に乗ることも……だから、コシーナ王国の人間が他国へ入国するためには、とんでもなく複雑な手続きが必要なのよ」
「……」
「あたしとダンナは、いまだに男尊女卑みたいな時代遅れの伝統が残るコシーナ王国に嫌気がさして飛び出してきた人間だから、他国へ入国するための書類を発行してもらえなくて……だから、船を降りることができないの」
レンゲさんの穏やかな声を聞いて、わたしは「そうなんですか」と返事をするのが精一杯だった。
コシーナ王国は、わたしの出身国であるエスペーシア王国の隣国である。
それなのに、わたしはコシーナ王国のことを何ひとつ知らなかった。
まさか、そんなに保守的な国だったなんて……
そして、ふとジュスティーヌさんの物語の中でも、トンスイさんとレンゲさんが登場したのは船の中だけだったことを思い出した。
物語の後でも、ふたりはコシーナ王国の港町ミオウ、どの国にも属さない大平原プラデラにしか足を踏み入れていない。
なるほど、そんな理由があったんですね……
うんうんと頷くわたしに、レンゲさんはにっこりと微笑んで、
「実はね、これから船長さんとエフちゃんだけでソニード王国に行くこと、あたしはすごく心配していたの。船長さんが危険な目にあったり、エフちゃんがまた怪我したりしないかと思って……でも、そこにシーナちゃんが来てくれた」
「……」
「ジュスティーヌちゃんのことを諦めないって言ってくれたこの子なら、この先あたしとダンナがいなくても大丈夫だって、そう思えたの」
「……」
「シーナちゃん、あのふたりのこと、お願いね」
レンゲさんの言葉は、甲板を吹き抜ける潮風となって、わたしの全身を包み込むように流れていった。
船長も「何かを変えてくれる気がする」なんて言っていたし、レンゲさんにも「この子なら大丈夫」なんて言われて……
わたし、ちょっと期待されすぎじゃあないか。
でも……
なぜか、この「期待」が心地よかったりする。
それはきっと、今までの人生で期待されたことなんてなかったからだろう。
判で押したような日々を過ごし、自分がやらなくてもいいような、だれでもできる仕事を淡々とこなしてきたわたしにとって、何かを期待されるということは、人生で初めてのことなのだ。
まさか、こんなにも胸がドキドキして緊張しているのに、自然と笑みがこぼれてくるなんて思わなかった。
「レンゲさん、わたし……」
レンゲさんが見つめる先で、わたしは胸に手を当て、大きく深呼吸をした。
大丈夫、大丈夫……
そう自分に言い聞かせてから、わたしは勢いよく宣言した。
「わたし、頑張ります! この先、何が起こるのかはだれにもわからないけれど、自分なりに精一杯、努力したいと思います!」
こんな自分にできることがあるのか。
いったい何ができるのか。
もし、何もできなかったら……?
……不安は数多あるけれど、一度口に出して宣言してしまうと、なんだか不安が自信に変わって、自分の力になったかのような、不思議な感覚が胸に広がっていった。
レンゲさんはというと、わたしの宣言を聞いて、糸のような目をさらに細めて、
「シーナちゃんのそういうところ、あたしは大好きなのよ。ありがとう」
そう言うと、実は夕食の支度が途中になっているの、とお茶目に笑って、船内へと続く階段を降りていった。
わたしは、その背中に向かって、もう一度「頑張ります」と呟いていた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
★彡☆彡★彡
それから、さらに数週間後。
船首の先に広がる水平線の彼方に、ようやく影が見えてきた。
待ちに待った、西大陸のお出ましである。
いつものように甲板を掃除していたわたしは、デッキブラシを欄干にたてかけ、そこから身を乗り出した。
ゆっくり……
本当に、ゆっくり、ゆっくり……
陸地が近づいてきている。
まさか、本当に見えてくるなんて。
東大陸のエスペーシア王国で、のほほんと暮らしていた頃……
西大陸なんて、想像もできないくらい自分の生活には無縁のものだった。
学校で勉強して、存在自体は知っているけれど、それはただ知識としてだけ。
試験で良い点数を取るためだけに覚える実在の国名は、数学の時間に出てくる実在しない公式と何ら変わらないものだった。
そんな、教科書の中だけの存在だった西大陸という世界が今、目の前に見え始めている。
ぼんやりとした影が、だんだんと陸地になっていくのがわかる。
名前も知らない山がゆっくりと姿を現した。
「本当に、あったんだ……」
気がつけば、そう呟いていた。
頭の中では「ある」とわかっているものでも、やっぱり実物を見てみないと実感できないらしい。
国語の時間に習った「百聞は一見に如かず」という言葉を思い出す。
この言葉の意味さえ「百聞は一見に如かず」なのだと、妙に納得してしまった。
ああ……
なんだろう、なんか……
感動して泣きそう。
自分の語彙力の無さにも泣けてくる。
「シーナちゃん、これから着港する港町、どこかわかる?」
わたしが感動と情けなさに瞳を潤ませていると、いつの間にかレンゲさんが来ていて、わたしと同じように欄干にもたれて西大陸を見つめていた。
つづく




