第3話「僕なら、平気です」
船長の心ない言葉……
これには、さすがのエフクレフさんも『あんまりだ!』と思わず口に出して、目を見開いていた。
あなたは、そんなことを言うような人ではなかったはずだ。
船長、しっかりしてください……!
そんなエフクレフさんの願いもむなしく、船長は机に置かれた雫型の文鎮を無造作に握りしめると、
『ああああああああっ!!』
魂の絶叫とともに、文鎮をエフクレフさんに向かって投げつけた。
『……』
自分に向かって飛んでくる文鎮は、やけにゆっくり動いているように見えた。
避けようと思えば、すぐに避けられるだろう。
しかし……
動いてはいけない。
もうひとりの自分が、そう訴えていた。
これは報いである。
報いは受けねばならない、と……
文鎮の鋭角の部分が目の前に迫ってきても、エフクレフさんは身動きひとつしなかった。
後に残ったのは、額の鈍い痛みと、床板に滴る鮮血。
そして、文鎮が転がる騒々しい物音だけ……
………
……
「……あのとき、おれはそばで見ていたんだが、そこからでもエフはわざと動かないで文鎮をぶつけられているように見えたな。まさか、本当に避けずにいたとは思わなかったぜ」
長い話の後で冷めてしまったコーヒーを一口すすり、トンスイさんが隣に座るエフクレフさんに視線を向けた。
エフクレフさんがこっくり頷くと、
「何言ってんのよ、この大馬鹿者っ!!」
レンゲさんが鼻息荒くトンスイさんを睨みつけた。
そして、飛び上がらんばかりに驚いているトンスイさんに向かって、火山が噴火しそうな勢いとともに口を開いた。
「あんたねぇ! そばで見てたんなら、大変なことが起こる前に船長さんを止めてくれたらよかったのに! どうして何もしないで見てるだけだったのよ!」
テーブルに拳を叩きつけるレンゲさんからは、なんというか、3年分の怒りが伝わってきた。
そして、わたしにも十分伝わっているということは、もちろんトンスイさんにも伝わっているというわけで……
「す……すんません」
トンスイさんは、申し訳なさそうに項垂れてしまった。
普段は海の男らしく豪快に振る舞うことの多いトンスイさんだけれど、奥様のレンゲさんには頭が上がらないらしい。
うーん、既視感。
我が家も、父は近所でも有名な恐妻家で通っているもんなぁ……
って、うちの話は関係ないから置いといて。
レンゲさんは、項垂れるトンスイさんを一瞥すると、盛大なため息をついた。
それは、心底呆れているように聞こえるけれど、ほんの少し温かみのあるため息だった。
「まったく、あのときあたしが船長さんを力づくで止めてなかったら、その先はどうなっていたことやら……」
「力づくねぇ……まあ、あれはほんとに火事場の馬鹿力ってやつだったなぁ。おれは、あんなに魂のこもったゲンコツは初めて見たぞ」
ゲンコツ……ゲンコツ!?
聞き馴染みすぎて、危うく聞き逃すところだった。
わたしの脳裏によみがえったのは、もちろん……
妹のマーサが、わたしのために船長をぶん殴っているときのことだった。
マーサとレンゲさん、とても話が合いそうだな、なんてね。
そんなわけで、普通はビンタだよなぁと、困ったように笑うトンスイさんに、わたしは曖昧に笑うことしかできなかった。
「もう、アンタってば、そんなの今は関係ないでしょう! 早く続きを話さなくちゃ!」
レンゲさんはトンスイさんの肩をバシバシ叩いた後、エフクレフさんの額に文鎮が命中したあたりから、話を引き継いで聞かせてくれたのだった。
★彡☆彡★彡
台所から船長室に飛び込んできたレンゲさんは、床に広がる鮮血と、ちょうど足元に転がってきた血痕の付いた文鎮を一目見るなり、何が起こったのかを理解した。
そして……
理解したからこそ、船長を叱りつけるようにゲンコツで殴ったのだ。
トンスイさん曰く「昔から男勝りだった」レンゲさんのゲンコツは、遠慮なんて言葉も一緒にぶっ飛ばす勢いで、船長の身体をもぶっ飛ばした。
倒れ込んだ船長の真下で、床板が悲鳴を上げたというのだから、その威力は相当のものだったのだろう。
『いい加減にしなさいっ!!』
レンゲさんの言葉は、人間として終わっている言動をとった船長へ向けてのものだった。
普段は糸のように細い目をカッと見開き、レンゲさんは低い声で話し始めた。
『あの子が行方不明になって悲しくてたまらないのは、あんただけじゃない。いつまでもふさぎ込んだまま、自分の時間を止めて、挙句の果てに人のせいにして逃げるなんて。そんなことして許されるほど、一隻の船長さんってのはエライ人間か?』
『……』
その言葉に、横たわったままの船長は何も言わず、身動きひとつしなかったという。
レンゲさんが立っていたところからでは、船長の顔色まではわからなかった。
それでも、自分の言葉をちゃんと聞いていてくれている、心に届いているという確信はあった。
それはおそらく、説明が難しい「女のカン」というやつだったのかもしれない。
その日の晩……
港町ミオウにてエフクレフさんの怪我を治療してもらった後、船長以外の3人はなんとなく食堂に集まっていた。
そんな手持ち無沙汰の3人の前に、船長は現れた。
左の頬を、真っ赤に腫らして。
『……』
船長は、黙って頭を下げていた。
つい先ほどまで船長室の床に転がって、夕日に照らされても日が沈んで薄暗くなっても身動きひとつしなかった船長が、食堂の入り口で深々と頭を垂れている。
それは、船長の心からの謝罪であると、ここにいるだれもがわかっていた。
だからこそ、
『船長』
もう頭を上げてください。
エフクレフさんはそう言おうとして口を開いた。
しかし、その言葉を遮るように、
『エフクレフ! すまなかった……本当に、申し訳なかった』
あまり声を張り上げることのない船長が、床板に向かって自分の右腕の名前を叫んだかと思うと、そのまま震える声で謝罪の言葉を口にした。
自分の代わりに辛い仕事を引き受けてくれていたのに、礼も言わずにふさぎ込んでいたこと。
自分は悪くない全部お前のせいだと当たり散らし、挙句の果てに大怪我までさせてしまったこと。
ごめんなさい、それから……
いつも、ありがとう。
短い謝罪の言葉の中には、普段は口にしない感謝の思いも含まれているように聞こえた。
『……』
エフクレフさんは、あまりにいつもと違う船長を前に、ただ黙っていることしかできなかった。
だれかに謝られたことなんて、ましてや船長になんて初めてのことで、冷静なエフクレフさんもこのときばかりは混乱していたのである。
それでも……
隣に座るレンゲさんがエフクレフさんの顔を覗き込み、にっこりと微笑んだときにはもう、エフクレフさんの心は落ち着いていた。
『船長、ちょうどコーヒーが入ったところですよ。船長は濃いめがお好きでしたよね。お持ちしますから、座っていてください』
まるでその一言を待っていたかのように、トンスイさんが船長の席の椅子を引いていた。
立ち上がったエフクレフさんを、船長は不安そうな表情で見上げている。
まったく、みっともない。
一隻の船長が、そんな顔しないでくださいよ。
僕なら、平気です。
船長が心に傷を負うことなんてないんですよ。
エフクレフさんの思いは、その表情から船長に伝わっていただろう。
それでも、エフクレフさんは……
『大丈夫ですよ、船長。僕なら、大丈夫ですから』
怯えたような顔の船長に向かって、にっこりと微笑んでみせた。
それは、仏頂面のエフクレフさんが初めて見せた、心からの笑顔だった。
つづく




