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歌姫たちのイストワール  作者: すけともこ
第5章「食堂の作家志望、物語の続きを知る」
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第3話「あっ」

「……」


 その笑顔は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 それぐらい美しく、それでいて可憐で、実に女の子らしい笑顔だった。

 私がいるから、何も心配ないですよ。

 だからジークさん、安心してくださいね。

 なぜだか、そう言われているような気がして……

 俺は、この状況も忘れて、彼女の笑顔に見惚れていた。

 すると、


「ジークレフ!! 相手は貴様だけで十分だっ!」


 何もしてこない俺たちにしびれを切らしたのか、タイが顔を真っ赤にして走り出していた。

 右手には、腰に差していた大剣……

 俺は、その大剣に見覚えがあった。

 大きさといい、鞘の装飾といい、確かあれはムーシカ王国にいた頃、応接間に飾ってあったものだ。

 ただの模造品だと思っていたが、まさか、本物だったのか!


「……!」


 俺は咄嗟に顔を引きつらせたジュスティーヌを庇おうと、彼女を突き飛ばしていた。

 ジュスティーヌがバランスを崩して甲板に倒れ込んだとき、突き飛ばした左腕に激痛が走った。


「……っ!」


 タイの振り下ろした大剣は、俺の左腕の、かなり深い部分を刺していた。

 甲板に鮮血がしたたり落ちる……

 俺は激痛になすすべもなく、腕を押さえてその場にくず折れていた。


「っ! いやあぁぁっ! ジークさんっ!!」


 強風で揺らぐ甲板に、悲鳴が響き渡った。


「くっ……っ!」


 苦痛で顔が歪む……

 視線の先に、エフクレフに肩を抱かれて座り込むジュスティーヌの姿があった。

 美しい紫色の瞳に涙を一杯に溜めて、柔らかそうな唇は恐怖からか、わなわなと震えている。

 なんてことだ……

 俺は、彼女にそんな顔をさせるために、ソニード王国から連れ出して、この船に乗せたっていうのか。

 冗談じゃない……!

 早く、彼女を安全な場所へ……!

 エフクレフに目線で訴えようとしたのも束の間、飛び退って様子を見ていたタイが、止めとばかりに大剣を振り上げていた。


「死ねえぇーっ! ジークレフーっ!!」


 タイの足音が、まるで地響きのように身体を揺さぶる中、俺にはもう、タイを睨みつけることしかできなかった。

 すべての元凶である俺を亡き者とすれば、タイは満足してこの場を離れる、という保証もなくなってきた。

 エフクレフたちがなんとかしてくれるかもしれないが……

 その場合、ジュスティーヌは、どうなる?

 俺がいなくなった後のジュスティーヌは……?


「……」


 睨みつけた先に、絶叫とともにこちらへ突進してくるタイが見えた。

 もう、駄目だ……

 動けない……


「……」


 終わった……

 何もかも……

 絶望という現実から目を背けようとした、その瞬間……

 タイの身体が、左側へと傾いたのが見えた。

 いったい、何が……?


「……?」


 目を逸らさずにいた先で、信じられないことが起こっていた。


「……!?」


 突然のことに狼狽するタイの視線の先には、輝く金色の長い髪……


「……っ!」


 それは、タイのがら空きになった右脇腹に体当たりを繰り出した、ジュスティーヌだった。

 バランスを崩したタイは、欄干に体重をかけたが、そこは昨晩、もろくなっているからと印をつけておいた欄干だった。


 あっ


 と、思ったときには、何もかも手遅れだった。

 欄干は、タイとジュスティーヌの重さに耐え切れず、断末魔を上げて海へと落下していった。

 いったい何が起きたのか、考え続けてもわからないだろうタイと、確実に何が起こるのかわかっていたであろう、ジュスティーヌとともに。


「……」


 俺は、その光景をただ呆然と、なすすべもなく眺めていることしかできなかった。


「……」


 目の前で起こったことを理解するのに、かなりの時を要した。

 気がつけば、すべてが消えていた。

 美しい金色の長い髪、透き通るような紫色の瞳、漂う薔薇の香り。

 そして、あの見惚れるほどの笑顔。


「……」


 叩きつけるように吹き荒んでいた強風は勢いを増して、耳をつんざくような轟音とともに船体を大きく揺らしている。


「……ジュ、ス……ティーヌ……」


 轟音で我に返り、腕の痛みも忘れて、俺は欄干があった場所へと駆け寄った。


「ジュスティーヌ……」


 甲板から下を覗いてみたが、見えるものは、強風に煽られ白波を立てる大海原のみ。


「ジュスティーヌーっ!!」


 声を限りに彼女の名を叫んだが、返事はなかった。

 船体を打ちつける大波と、吹き荒ぶ烈風……

 きっと、この風のせいで聞こえなかったに違いない。

 もう少し、もう少し下まで……

 さらに船の真下を覗き込もうとした俺は、腕の痛みのせいか甲板でバランスを崩してしまった。

 落ちる……っ!

 そう思った瞬間……

 俺は、この世のものとは思えないほどの強い力で肩をつかまれ、甲板に引きずり戻されていた。


「船長……っ! 船長っ!!」


 気がつけば、甲板にへたり込む俺の肩を揺さぶって、エフクレフが大声を上げていた。


「しっかりしてください! 船長! あなたまで……あなたまで海に落ちるつもりですかっ!」

「……」


 エフクレフの表情は、いつにもましてわかりやすかった。

 物言わぬ瞳から、彼の言葉が伝わってくる。

 僕だって、ジュスティーヌを助けたい。

 けれど、ここでだれかが飛び込んだところで、彼女を救えるとは限らない。

 ましてや、さらにだれかを失うことも考えられる。

 そうは思いたくないですが、もう、どうすることもできないんです。

 わかってください、船長……!


「……」


 その鋭い眼差しの訴えに、俺は項垂れるしかなかった。

 どうしてあそこで、何もかも終わりだと諦めてしまったのだろうか。

 諦めずに行動していたら……

 彼女よりも早く、俺が動いていたら……

 彼女が、タイに向かっていくことはなかったのではないか。

 そうすれば彼女は、体当たりをすることも、欄干とともに海へと落ちることもなかった。

 今さら考えたところで、どうしようもないことはわかっていた。

 それでも、考えずにはいられなかった。

 もしも、もしも、もしも……

 ………

 ……


「うあああああぁぁぁぁ……っ!!」


 そんな俺の思考を妨げるように、喉も張り裂けんばかりの激しい慟哭が、烈風の轟音に混じって聞こえてきた。

 それは、甲板にくず折れ、泣き伏すレンゲさんのものだった。

 彼女の震える肩を、トンスイさんが優しく抱いていた。



★彡☆彡★彡



 こうして、タイ元公爵の脅威は去った。

 消えるべくして消えたタイと、だれも望んでいないのに消えてしまったジュスティーヌ……


「……」


 あれから数日経っても、俺は言葉も発せないままだった。

 そんな俺の手元には、彼女との思い出だけが残された。

 あの晩、彼女が甲板から落ちそうになったとき、櫛が折れてしまった髪飾り。

 実は、あれからすぐに修理していたから、もう彼女に手渡すだけになっていた。


「……」


 きっと、彼女は喜んでくれたはずだった。

 ありがとうございます、ジークさん。

 と、お礼を言って、にっこり微笑んでくれたに違いない。

 しかし、それももう見果てぬ夢……

 身に着ける者のいなくなった髪飾りは、今でも所在無げに、船長室の机の上で輝きを放っている。

 あの日、何事も起こらなければ、東大陸まであと数日の間、楽しい船旅が続くはずだった。


 食堂につながる休憩室で、ジュスティーヌの歌を聴きながら、プラデラ大平原に着いたら何をしようか考えたり、ジュスティーヌの書き上げた物語を一緒に読んだり……

 そんな日々を過ごすはずだった。

 それなのに……

 それなのに、彼女は……


「……」


 俺が守っていたはずの歌姫は……

 俺を守るために、広い海のいずこかへと消えてしまった。


「……」


 どこかへ流されたのか、沈んでしまったのかは、わからない。

 ただひとつ、わかっていることは……

 この腕の中で震えていた彼女が、もうここにはいないということ。

 それだけだ。



つづく

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