第3話「あっ」
「……」
その笑顔は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
それぐらい美しく、それでいて可憐で、実に女の子らしい笑顔だった。
私がいるから、何も心配ないですよ。
だからジークさん、安心してくださいね。
なぜだか、そう言われているような気がして……
俺は、この状況も忘れて、彼女の笑顔に見惚れていた。
すると、
「ジークレフ!! 相手は貴様だけで十分だっ!」
何もしてこない俺たちにしびれを切らしたのか、タイが顔を真っ赤にして走り出していた。
右手には、腰に差していた大剣……
俺は、その大剣に見覚えがあった。
大きさといい、鞘の装飾といい、確かあれはムーシカ王国にいた頃、応接間に飾ってあったものだ。
ただの模造品だと思っていたが、まさか、本物だったのか!
「……!」
俺は咄嗟に顔を引きつらせたジュスティーヌを庇おうと、彼女を突き飛ばしていた。
ジュスティーヌがバランスを崩して甲板に倒れ込んだとき、突き飛ばした左腕に激痛が走った。
「……っ!」
タイの振り下ろした大剣は、俺の左腕の、かなり深い部分を刺していた。
甲板に鮮血がしたたり落ちる……
俺は激痛になすすべもなく、腕を押さえてその場にくず折れていた。
「っ! いやあぁぁっ! ジークさんっ!!」
強風で揺らぐ甲板に、悲鳴が響き渡った。
「くっ……っ!」
苦痛で顔が歪む……
視線の先に、エフクレフに肩を抱かれて座り込むジュスティーヌの姿があった。
美しい紫色の瞳に涙を一杯に溜めて、柔らかそうな唇は恐怖からか、わなわなと震えている。
なんてことだ……
俺は、彼女にそんな顔をさせるために、ソニード王国から連れ出して、この船に乗せたっていうのか。
冗談じゃない……!
早く、彼女を安全な場所へ……!
エフクレフに目線で訴えようとしたのも束の間、飛び退って様子を見ていたタイが、止めとばかりに大剣を振り上げていた。
「死ねえぇーっ! ジークレフーっ!!」
タイの足音が、まるで地響きのように身体を揺さぶる中、俺にはもう、タイを睨みつけることしかできなかった。
すべての元凶である俺を亡き者とすれば、タイは満足してこの場を離れる、という保証もなくなってきた。
エフクレフたちがなんとかしてくれるかもしれないが……
その場合、ジュスティーヌは、どうなる?
俺がいなくなった後のジュスティーヌは……?
「……」
睨みつけた先に、絶叫とともにこちらへ突進してくるタイが見えた。
もう、駄目だ……
動けない……
「……」
終わった……
何もかも……
絶望という現実から目を背けようとした、その瞬間……
タイの身体が、左側へと傾いたのが見えた。
いったい、何が……?
「……?」
目を逸らさずにいた先で、信じられないことが起こっていた。
「……!?」
突然のことに狼狽するタイの視線の先には、輝く金色の長い髪……
「……っ!」
それは、タイのがら空きになった右脇腹に体当たりを繰り出した、ジュスティーヌだった。
バランスを崩したタイは、欄干に体重をかけたが、そこは昨晩、もろくなっているからと印をつけておいた欄干だった。
あっ
と、思ったときには、何もかも手遅れだった。
欄干は、タイとジュスティーヌの重さに耐え切れず、断末魔を上げて海へと落下していった。
いったい何が起きたのか、考え続けてもわからないだろうタイと、確実に何が起こるのかわかっていたであろう、ジュスティーヌとともに。
「……」
俺は、その光景をただ呆然と、なすすべもなく眺めていることしかできなかった。
「……」
目の前で起こったことを理解するのに、かなりの時を要した。
気がつけば、すべてが消えていた。
美しい金色の長い髪、透き通るような紫色の瞳、漂う薔薇の香り。
そして、あの見惚れるほどの笑顔。
「……」
叩きつけるように吹き荒んでいた強風は勢いを増して、耳をつんざくような轟音とともに船体を大きく揺らしている。
「……ジュ、ス……ティーヌ……」
轟音で我に返り、腕の痛みも忘れて、俺は欄干があった場所へと駆け寄った。
「ジュスティーヌ……」
甲板から下を覗いてみたが、見えるものは、強風に煽られ白波を立てる大海原のみ。
「ジュスティーヌーっ!!」
声を限りに彼女の名を叫んだが、返事はなかった。
船体を打ちつける大波と、吹き荒ぶ烈風……
きっと、この風のせいで聞こえなかったに違いない。
もう少し、もう少し下まで……
さらに船の真下を覗き込もうとした俺は、腕の痛みのせいか甲板でバランスを崩してしまった。
落ちる……っ!
そう思った瞬間……
俺は、この世のものとは思えないほどの強い力で肩をつかまれ、甲板に引きずり戻されていた。
「船長……っ! 船長っ!!」
気がつけば、甲板にへたり込む俺の肩を揺さぶって、エフクレフが大声を上げていた。
「しっかりしてください! 船長! あなたまで……あなたまで海に落ちるつもりですかっ!」
「……」
エフクレフの表情は、いつにもましてわかりやすかった。
物言わぬ瞳から、彼の言葉が伝わってくる。
僕だって、ジュスティーヌを助けたい。
けれど、ここでだれかが飛び込んだところで、彼女を救えるとは限らない。
ましてや、さらにだれかを失うことも考えられる。
そうは思いたくないですが、もう、どうすることもできないんです。
わかってください、船長……!
「……」
その鋭い眼差しの訴えに、俺は項垂れるしかなかった。
どうしてあそこで、何もかも終わりだと諦めてしまったのだろうか。
諦めずに行動していたら……
彼女よりも早く、俺が動いていたら……
彼女が、タイに向かっていくことはなかったのではないか。
そうすれば彼女は、体当たりをすることも、欄干とともに海へと落ちることもなかった。
今さら考えたところで、どうしようもないことはわかっていた。
それでも、考えずにはいられなかった。
もしも、もしも、もしも……
………
……
「うあああああぁぁぁぁ……っ!!」
そんな俺の思考を妨げるように、喉も張り裂けんばかりの激しい慟哭が、烈風の轟音に混じって聞こえてきた。
それは、甲板にくず折れ、泣き伏すレンゲさんのものだった。
彼女の震える肩を、トンスイさんが優しく抱いていた。
★彡☆彡★彡
こうして、タイ元公爵の脅威は去った。
消えるべくして消えたタイと、だれも望んでいないのに消えてしまったジュスティーヌ……
「……」
あれから数日経っても、俺は言葉も発せないままだった。
そんな俺の手元には、彼女との思い出だけが残された。
あの晩、彼女が甲板から落ちそうになったとき、櫛が折れてしまった髪飾り。
実は、あれからすぐに修理していたから、もう彼女に手渡すだけになっていた。
「……」
きっと、彼女は喜んでくれたはずだった。
ありがとうございます、ジークさん。
と、お礼を言って、にっこり微笑んでくれたに違いない。
しかし、それももう見果てぬ夢……
身に着ける者のいなくなった髪飾りは、今でも所在無げに、船長室の机の上で輝きを放っている。
あの日、何事も起こらなければ、東大陸まであと数日の間、楽しい船旅が続くはずだった。
食堂につながる休憩室で、ジュスティーヌの歌を聴きながら、プラデラ大平原に着いたら何をしようか考えたり、ジュスティーヌの書き上げた物語を一緒に読んだり……
そんな日々を過ごすはずだった。
それなのに……
それなのに、彼女は……
「……」
俺が守っていたはずの歌姫は……
俺を守るために、広い海のいずこかへと消えてしまった。
「……」
どこかへ流されたのか、沈んでしまったのかは、わからない。
ただひとつ、わかっていることは……
この腕の中で震えていた彼女が、もうここにはいないということ。
それだけだ。
つづく




