第18話「次は、私がジークさんを守ります」
どこか遠くのほうで、盛大な水音が聞こえてきました。
どうやら、私が甲板を踏み抜いた後、ギリギリの状態でとどまっていた欄干が力尽き、夜の海へと落下していったようです。
ジークさんが私の腕をつかんでくれてからのことは、あまりよく覚えていません。
欄干が海に落ちた音で我に返った私は、気がつけば無事だった甲板に座り込み、ジークさんの腕の中でガクガクと震えていました。
ああ……
怖かった……っ!
思わず胸元にしがみつくと、ジークさんは私の背中へ腕を回し、包み込むように抱きしめてくれました。
しかし。
「だから来るなと言ったんだ! あの付近は、まだ点検が済んでいなかったから……!」
ジークさんは私から身体を離すと、強い口調とともに私の肩を揺さぶりました。
鋭い視線ですが、木賊色の瞳はどこか潤んでいるように見えます。
心配している?
私を?
でも、もしそうだったとしても、そもそもの原因は……
「だっ……だ、だって」
まだ落下の恐怖が残っているので、気を抜くと嗚咽に変わってしまいそうな声ですが、それでも私は喋り続けました。
「だって、わ、私……ジークさんに……きっ、き、嫌われた、のかと、思って……!」
今日の午後のことを思い出すと、やっぱり胸が痛みます。
来るなと言われたのは、甲板のせいだとして、本当にジークさんが私を嫌っていたら……
ほんの少し、視界がぼやけています。
そのぼやけた視界の中では、ジークさんの表情はよく見えません。
考えていることも、私のことをどう思っているのかも、何もわかりません。
これからどんなことを言われても、平気でいられるように……
と、身構えていると、
「……」
ジークさんが小さなため息をついて、身構えていた私を抱き寄せました。
背中へ回された大きな手が頭へと回り、普段は髪飾りをしているので触れてはもらえないところを優しく包みます。
「……」
息ができなくなるほど強く抱きしめられ、ジークさんのぬくもりが全身を通して伝わってきます。
私のものではない心臓の鼓動。
肌触りの良いこげ茶のロングコート。
そして、ほんのりとかぐわしいコーヒーの香り。
「……」
ジークさんは、何も言わずに私を抱きしめていました。
それは、私にとって永遠の中にいるかのような、長く幸せな時間でした。
ずっと、こうしていたい……
いつまでも、ずっとこのまま……
「……」
遠くに聞こえる潮騒に、耳が慣れてきた頃……
ジークさんは私から身体を離すと、美しい木賊色の瞳で私をじっと見つめて、ゆっくりと口を開きました。
「君を嫌いになんて、なったりしない……絶対に」
「……」
穏やかな、それでいて明確な言葉……
まるで、私を貫く雷のような一言でした。
ああ、自分が嫌いになりそうです。
どうして私は、疑ったりしたのでしょう。
ジークさんは、こんなにも私のことを想ってくれているのに……!
「ジークさん。私、不安だったんです……」
謝罪も兼ねていたのでしょうか……
気がつけば、私はポツポツと話し始めていました。
昨日の朝から今日の昼下がりまで、ジークさんに会えなくて寂しかったこと。
近くにいたのに、振り向いてももらえず、傷ついたこと。
すべてを、包み隠さず話しました。
ジークさんなら、私の心をすべて受け止めてくれると思えたからです。
「そうか、それで……すまなかったな」
ジークさんは、私が話し終えると、ぽつりと呟いて口を引き結びました。
何か大きな理由があったんだわ、と私が気づくのと同時に、ジークさんは言いにくそうに口を開いたのです。
「実は、昨日の朝一番に遠距離用の伝書鳩がスラー伯爵夫人の手紙を持ってきたんだが、そこに書かれていたんだ。『ムーシカ王国を追放されたタイ公爵が隣国ベスティード王国を横断、そのまま小型船に乗って内海へ出航した』……どうやら、奴は俺たちを追っているらしい」
★彡☆彡★彡
ムーシカ王国にて、スラー伯爵殺害の容疑で身柄を拘束されていたタイ元公爵は、爵位を剥奪されて勝ち目はないと踏んだのか、ようやく自らの罪を認めました。
そして、おそらく最後となる裁判の判決が下される前に、こう告げました。
『すべては自らの罪である。この責任を取るため、自分をこの国から追放してほしい』
その申し出は快く受け入れられ、タイ元公爵はムーシカ王国を追放されました。
もう何の権限もない、ただの中年男。
今さら何かできるわけでもなく、比較的不自由なく暮らせる母国からも去っていった。
スラー伯爵夫人はそう思って油断していたのです。
国外追放を言い渡されたタイ元公爵が深々と下げた頭の先で、不敵な笑みを浮かべたその瞬間まで……
「手紙には『彼はおそらく復讐を企てている』と書かれていた。だが、国を捨てた者が捨てた国のために動くとは思えない。だから、狙われているのは、ムーシカ王国のために利用しようとしていたジュスティーヌではなく、昔からタイ元公爵に仕えていたジークレフ子爵……俺個人だという噂だ」
「えっ、ジークさんが……?」
私が首を傾げてみせると、ジークさんは「すべての元凶だからな」と、苦く笑いました。
「自分に都合の悪いことが起これば、だれかに責任を押し付けて、自分は安全な場所や地位に逃げる。それが、タイ元公爵のやり方だ。しかし、今回ばかりはその方法が使えない。責任を押し付けたいジークレフ子爵がいないからな。それで、元凶である俺へ復讐しよう、ということになるんだろう」
「そんな……」
「そもそも、俺がジュスティーヌに出会わなければ、何も起こることはなかったんだ。だから、すべてが俺のせいだっていうのは、あながち間違いじゃない。それで、俺はもう自分はどうなっても構わないと思っているんだが……君のことを考えると、昨日の朝から何も手につかなくなってしまって」
「……」
私には、黙って頷くことしかできませんでした。
ジークさんが危険な状況に置かれていたことに、驚きを隠せなかったのです。
それにしても、どうしてジークさんは、何もかもひとりで抱え込んでいるのでしょう。
すべては自分の責任だから、自分はどうなったって構わない、なんて……
そんなこと、あなたのことを大好きな私が許さない。
気がつけば私は、力強く宣言していました。
「次は、私がジークさんを守ります」
「……」
じっと見つめた先で、木賊色の瞳が訝しげに瞬きます。
それでも私は、自分の思いを伝えるために、言葉を紡いでいきました。
「私は、もう2回もジークさんに命を救われています。あの大地震のときと、さっきの落下事故と……だから、次は私の番なんです」
「……」
「ずっと思っていたんです。ジークさんは私のために、私のすべてを守るために、何もかも投げ打って行動してくれている。それなのに、私は何もしていない。何もできていません。だから……だから、今度は」
そこまで話したときでした。
ジークさんが、私の頭にぽんっと優しく手を置いたのです。
「ありがとう。気持ちだけ、受け取っておく」
そのまま、ぽんぽんと頭を撫でてくれます。
大きな手の、暖かなぬくもり……
胸がドキドキして、身体中がポカポカと暖まってきたのですが、どうやらジークさんは、私の言葉を本気にしてくれていないようです。
真面目に言ったのに……
俯いて口を尖らせていると、ジークさんには照れ隠しに見えるようで、
「そういえば、今日は髪を下ろしているんだな」
ジークさんは愉快そうに、大きな手で私の後ろ頭に触れました。
あんなに抱きしめていたのに、たった今気がついたかのような口調です。
つづく




