第17話「ジュスティーヌの心からの願い」
甲板に吹き渡る夜風は、ひんやりと冷たく、まだ冬の名残があります。
見上げれば、透き通るような夜空に、爪の先ほどの細い月……
私の背中を押してくれたレンゲさんの話だと、ジークさんは方角を確認するための星を見に、船首甲板へ出ているのだそうです。
『大丈夫、そのステキな髪飾りをくれた人だもの』
「……」
私は、船首甲板へ着く前にふと立ち止まり、髪飾りをまとめ髪から引き抜きました。
なんとなく、ジークさんとの思い出を確かめたくなったのかもしれません。
肩甲骨あたりまで伸びた長い髪が、夜風になびいています。
手にした髪飾りは、ほんのりと淡く光っていて、夜空に目をやれば、無数の星たちが私を照らしていました。
ジークさんは、この星たちを見に甲板へ出ている。
会いに行かなくちゃ……
私は髪飾りをぎゅっと握りしめて、スカートのポケットへ入れました。
実は、一度抜いてしまうと、鏡なしでは元の髪形には戻せないのです。
でも、ほどいたほうが首元が暖かくなりますから、まあ良しとしましょう。
私は、また甲板を歩き出し、ようやく船首へと到着しました。
★彡☆彡★彡
辿り着いた船首甲板は、静寂に満ちていました。
まるで、すべての物音が星空に吸い込まれてしまったかのように。
星明りの薄闇に目を凝らすと、船首の端に人影が見えます。
大きな背中、揺らめくロングコートの裾……
間違いありません。
「ジークさんっ!!」
私は、無我夢中で叫んでいました。
今度こそ気がついて!
私は、ここにいます……!
そんな必死の願いが伝わったのでしょうか。
ジークさんは、こちらを振り向いてくれたようです。
「……」
残念ながら、暗くて表情まではわかりませんが……
それでも、私はジークさんのもとへと駆け出していました。
よかった……
名前を呼んだら、ちゃんとこちらを見てくれる。
無視されていたわけじゃないんだわ!
そう思って、安心したのですが。
「来るなっ!!」
ジークさんの有無を言わせぬ強い口調が、静寂の夜空を切り裂きました。
一瞬、だれの声かわからないほどの、大きくて、とても怖い声……
息を呑んだ私が足を止めると、
「……」
ジークさんは、何事もなかったかのように、私に背を向けました。
え……?
私、ジークさんに来るなって言われたの……?
どういうこと……?
私は、あなたに近づいてはいけないということ……?
いったい何が起こったのかわからず、私は呆然と立ち尽くしてしまいました。
「……」
その間にも、ジークさんは私から離れていきます。
まるで私を避けるように、ゆっくりと甲板を歩いていきます。
ああ、やっぱり……
ジークさんは、私がここにいるのが迷惑なのね……
「……」
嫌われてしまったんだわ……
「……」
ジークさんは、ずっと私の歌を聴いていてくれたけれど……
それは、歌が良かったから、なのでしょう?
良い歌で人気のある有名な歌『いつでも歌が』。
それは、ジークさんのお気に入りの歌。
だから、だれが歌っていたって変わらない。
別に私が歌わなくたっていい。
私の歌じゃなくたっていいのよね。
最近、ギターの伴奏だけで歌うようになって、とても音程が悪いような、下手になったような気がしていた。
でもそれは、気がしていたわけじゃなくて、本当に下手になったのでしょうね。
聴くに堪えない、音程の外れた、酷い歌……
それで、ジークさんは食堂に来なくなったんだわ。
「……」
私は、今までずっとジークさんに助けてもらってばかりで、自分から行動したことなんてなかった。
この子を船に乗せてほしいって言ったのは母さま。
私が頼んで乗せてもらったわけじゃない。
どこに行きたいかと聞かれて、東大陸のプラデラ大平原と答えたのは私だけれど……
聞かれたから答えただけで、そこからは何もしていない。
ただ、船に乗っているだけ。
何もせずにプラデラ大平原へ到着できる日を待っている。
それだけ。
「……」
私は、小さくため息をつきました。
ため息は甲板の静寂を邪魔することなく、風に流れて消えていきました。
そりゃあ、嫌にもなるでしょう。
自分の力じゃ何もできない、いや、自ら行動することなく何もしようとしない子どものお守なんて。
「……」
甲板には、相変わらず静寂が満ちています。
薄闇の中では、時折ジークさんの手にしたランプの灯りが揺れていました。
まるで、振り子時計のように、ゆらり、ゆらりと……
だんだんと遠ざかっていく灯りは、ジークさんの心そのもののようです。
そんなの……
絶対に嫌っ……!
もう、どこにも行かないで、そばにいて……!
離れ離れになんて、なりたくない……っ!!
「ジークさんっ!!」
心の底からの震える叫びとともに、私は甲板を駆け出しました。
ヒールの音が高く鳴り響く中、ジークさんがこちらを振り向いたのが見えます。
表情は、やっぱり暗くてよく見えません。
それでも、大きく見開かれた瞳の色は、私のよく知る木賊色のはずです。
私は、その大きく見開かれた木賊色の瞳に、声も限りに叫んでいました。
「私のこと、嫌いになんてならないでくださいっ!!」
それは、あまりにも幼稚で……
ただのわがままな、子どもっぽい言葉でした。
でも、仕方がないのです。
これが私、ジュスティーヌの心からの願い、なのですから。
「……」
ジークさんにとっては、予想外の出来事だったのでしょう。
突然のことに、声も出せないようでした。
その表情は、やっぱりよく見えません。
しかし、少し強張った顔をしているのが、甲板を駆けていく中でもよくわかります。
だんだん、ジークさんの顔がうすぼんやりと見えてきました。
もう少し、もう少しであなたのところにたどり着けます。
待っていてください、ジークさん……!
私は、もう何も考えてはいませんでした。
ただ甲板を駆け抜けていくだけ……
私の耳だけが、ヒールの甲板を叩く音を拾っていました。
と、そのときです。
ヒールの音に混じって、何かがきしむようなミシッっという音が聞こえたかと思った瞬間……
私は、その場でよろめきました。
咄嗟に欄干に手をかけたものの……
欄干は頼りなく、私の身体と一緒に傾いていきます。
いったい、何が……??
よろめいた先、自分の足元に目をやると……
甲板に、稲妻のような亀裂が走っているのが見えました。
あっ……
と思う間もなく、バキッと大きな音がして、亀裂から暗闇が覗きました。
夜の海です。
そういえば……
と、私は昼下がりの光景を思い出しました。
エフクレフさんがジークさんに甲板のことで何やら相談していた、あの光景。
確か、甲板の一部に古くなっている場所がある、とか……
なるほど……
どうやら私は、その古くなって危険な甲板を踏み抜いてしまったようです。
「あ……」
突然消滅した足元、暗闇に吸い込まれていく身体……
私は血の気が引いて、悲鳴すら上げられませんでした。
何もかもが、ゆっくりと動いていきます。
腕を伸ばしたものの、思うようには動けず、手が甲板の切れ端をかすめていきました。
ああ、もう、このまま、落ちていくだけ……
私、死んでしまうのかしら……
大好きな人に、気持ちを伝えられないまま……
嫌われたまま……
……
「ジュスティーヌっ!!」
何もかも諦めた世界の中で、その声だけは鮮明に私の耳へと届きました。
大好きな、あの人の声。
あの人が私を、私の名前を呼んでいる……
ジークさんっ!
私は……
私は、ここにいます……っ!
「……」
まだ声の出せない私は、必死になって腕を伸ばしていました。
視線を上げたその先で、私の頼りない手首を、ジークさんの大きな手が力強くつかんでいました。
つづく




