第13話「ああ、恥ずかしい……!」
ジークさんの帆船の名前は『イスパーダ号』といいます。
プラデラ大平原に伝わる古い言葉で『剣を捧げ持つ』という意味だそうです。
確かに、3本の帆柱がそびえ立つさまは、空を貫く剣のようです。
いつの間にか太陽は西空に傾き始め、甲板には帆柱の長い影が伸びています。
船首から見える水平線も、真っ白に輝いて見えました。
自分の船室で荷ほどきを終えた私は、船長であるジークさんに連れられて、イスパーダ号の船内を案内してもらっていました。
船室が並ぶ船首から船尾へと船内を移動し、大きめの休憩室と食堂を覗き見て、それから階段を昇って甲板へ……
3本の帆柱に掛けられた帆は畳まれていましたが、その大きさは下から見ただけでもかなり大きいとわかります。
甲板を船首へ向かって歩いていくと、ジークさんが甲板の中ほどの小さな部屋を指さしました。
「あそこが甲板の船長室だ。だれでも出入り自由な会議室のようなもので、ちょうど今は船員が全員集まっているから、一緒に挨拶に行こう」
ジークさんは朗らかでしたが、私はぎこちなく頷くのが精一杯でした。
船員の皆さんに挨拶……
さて、いったい何から話したらいいのでしょう。
私自身のこと……?
どうしてここにいるのか……?
そういうことを話せばいいのでしょうか。
けれど、話せば長くなることばかりで、どうやってまとめたらいいのかもわかりません。
頭の中をもやもやさせているうちに、ジークさんは先に立って船長室の扉を開けてしまいました。
その扉越しに、聞き馴染んだ声が聞こえてきました。
「ああ、船長。先ほど、スラー伯爵夫人からの手紙が届きました」
おそらく、手紙をジークさんに手渡しに行くところだったのでしょう。
開け放たれた扉の後ろから、一通の手紙を手にしたエフクレフさんが現れました。
ジークさんは手紙を受け取って扉を閉めると、扉にもたれるようにして手紙を読み始めました。
「……」
スラー伯爵夫人……つまり、カンタービレ先生。
あの夜から、もう数日が経っています。
私をムーシカ王国へ連れていこうとしていたタイ公爵はどうなったのか……
その計画を阻止するために動いていた、カンタービレ先生ことスラー伯爵夫人は……
私がいなくなった母さまの店、常連さんやお店の人たち、そして……
母さまは今、どうしているのか……
私とエフクレフさんが身動きもせず見守る中、ジークさんは黙々と手紙の文字を追っていました。
その表情からは、手紙の内容はわかりません。
しばらくして、ジークさんは神妙な顔で私を見据えると、
「タイ公爵は、スラー伯爵夫人によってムーシカ王国の宮殿へ連行された。そして、貴族たちの話し合いの末、爵位剥奪となった。彼にはもう何の権限もない。ジュスティーヌを自分の都合で連れ出すことはできなくなったんだ」
と、教えてくれました。
それはつまり……
「私はもう、ソニード王国へ帰れるということでしょうか……?」
何もかも終わった……?
すべてが元通りになる、ということ……?
よくわかっていない私が首を傾げてみせると、ジークさんは沈痛な表情で目を伏せてしまいました。
「いや……残念ながら、これからまだややこしい裁判が続く。そこで彼の処罰が確定するまでは、すべてが安心というわけにはいかないだろう。落ち着くまでには半年以上かかるかもしれないと、手紙にも書いてあった」
「そう、ですか……」
理想の世界は、簡単には手に入らないようになっているようで……
まあ、それもそうでしょう。
だれもが幸せに暮らせる世界が身近にあったなら、苦労という言葉はとっくに死語になっているはずですから。
「……」
ジークさんはというと、唇をかみしめて項垂れていました。
今にも、すべて自分のせいだ、と言い出しかねない雰囲気です。
どうして、そんなに申し訳なさそうなのでしょう。
私を、こんなにもステキな船に乗せてくれたというのに。
こんなにも、私を守ってくれているというのに!
「ジークさん。私、今とっても幸せですよ」
気がつくと、そんな言葉がポロっと零れ落ちていました。
「……?」
怪訝な顔でこちらを見つめるジークさんに、私はにっこりと微笑んでみせました。
「私は今まで18年間、ソニード王国のあの場所で暮らしてきました。ほかの地域はもちろん、ほかの国のことも何も知らずに、ただ歌を歌って生きてきたんです。それが、ジークさんに出会って変わりました」
「……」
「お隣の国のこと、夕日の沈むキレイな海のこと、自分の歌声が政治の道具として使われようとしていること……いろいろなことをジークさんに教えてもらいました。私が歌を歌う理由も、そのひとつなんですよ」
私はそこで言葉を切って、ふふっと笑ってみせました。
そして、まだ困った顔のジークさんの木賊色の瞳を見つめて、口を開きました。
「私は、ジークさんと一緒にいられて、とっても幸せです!」
もう、あなたと出会う前の私じゃない。
今の私は知っている。
この世界が、想像を超えるほど大きいこと。
大きな世界を取り囲む海が、どんな宝石よりも美しいこと。
そして……
だれのために、何のために歌を歌っているのかということ。
みんな、あなたが教えてくれた。
ジークさん、私は……
……
「おー船長さん! こりゃまた、ずいぶんと好かれてるねぇ」
ふと、部屋の奥から陽気な男の人の声が聞こえてきました。
何事かと覗き込んだ先、ソファとテーブルが置かれた一間の奥から、人影がひょっこりと顔を出しました。
40代前半といったところの、筋肉質なおじさまです。
鶯色の髪は男気溢れる角刈りで、糸のように細い目は優しい空気をまとっています。
「うちのやつの話じゃ、今回の船旅についてくる女の子っていうのは、ずいぶんと船長さんのお気に入りだって話だったが……こりゃ、逆の間違いだなぁ」
おじさまは、会議用でしょうか、大きなテーブル越しに私をニコニコと見つめています。
なんということでしょう……
私は、ここに船員さんが集まっているとジークさんから聞いていたというのに、つい自分の気持ちを熱く語ってしまい、それを全部聞かれてしまったのです。
ああ、恥ずかしい……!
そんな火照った私を包み込む優しい空気の中で、さらに照れくさくなったそのときです。
「あんたってば、恥ずかしがらせちゃって可哀想じゃないの! こういうのは聞かなかったフリしてあげるもんでしょう!」
おじさまの隣に現れた女の人が、窘めるようにおじさまの肩をバシッと叩きました。
けっこう大きな音が響き渡りましたが、おじさまはガハハと笑っています。
女の人は、おじさまの奥様でしょうか……
30代後半くらいのおばさまで、薄紫色のショートヘアをピョンピョン跳ねさせて、おじさまと同じ糸のような細い目をさらに細めて微笑んでいます。
そんなふたりを眺めていたジークさんが紹介してくれたところによると……
おじさまの名前はトンスイさん、その奥様であるおばさまの名前はレンゲさん。
ふたりは東大陸にあるコシーナ王国という国の出身で、ジークさんとはもう20年来の付き合いになるといいます。
ジークさんが船長という職に就いたのを機に、ふたりもイスパーダ号の乗組員になったといいますが、コシーナ王国は商船で名高い国なので、ふたりとも船についてはジークさんより詳しかったとか。
現在、トンスイさんは機械技師として助手のエフクレフさんを支えていて、レンゲさんは料理長としてイスパーダ号の食糧の一切を管理しているそうです。
ふたりとも、まるで鶴のように仲良しな夫婦です。
つづく




