第9話「大丈夫よ、母さま」
タイ公爵が腕を伸ばし、ジークさんが私を守るように一歩前へ出ようとした、そのとき。
パシッ!
と小気味よい音がして、タイ公爵が「うっ……」と腕を引っ込めました。
「力尽くなんて、由緒正しいムーシカ王国の貴族が聞いて呆れますわね」
音のしたほうを見れば、カンタービレ先生、ではなくてスラー伯爵夫人が、どこから出したのか鉄扇を手に冷ややかな笑みを浮かべています。
先ほどまでは、私のよく知るカンタービレ先生の面影が残っていたのですが……
今は、ひとかけらもありません。
貴族のご婦人が、そこに優雅に佇んでいました。
鉄扇で打たれたタイ公爵は、手首をさすりながらスラー伯爵夫人を恨めしげに睨みつけました。
「な、何をする無礼者っ!」
その瞳が「名を名乗れ」と強く命令しているにもかかわらず、スラー伯爵夫人は鉄扇で口元を覆い、目を細めていました。
その仕草を前に、タイ公爵の表情は次第に青ざめていきました。
そして、
「なぜ、こんなところに……!」
目を見開いたまま、ズリズリと後ずさりを始めたのです。
「あら、ようやく思い出して頂けたみたいで、安心しましたわ。この鉄扇を贈ってくれた主人も、きっと喜んでくれるわね。貴方がこの世から葬ったスラー伯爵のことですけれど」
「何を馬鹿なっ! あれはもう終わったことだ! ただの事故として片付けられ……」
そのとき、固唾を飲んで公爵と伯爵夫人のやり取りを見守っていた私とジークさんは、そろりと近づいてきた母さまに服の裾を引かれ……
3人でテーブルの下に屈み込む形になりました。
私は、自分が置かれた状況も忘れて「今いいところだったのに気になるでしょうが!」と詰め寄りそうになって、慌てて口をつぐみました。
母さまが、いつになく真剣な眼差しを向けていたからです。
「あんたたち、今のうち遠くに逃げな」
母さまの沈痛な囁き声は、タイ公爵の弁明とスラー伯爵夫人の詰問の中にあっても、はっきりと私の耳に届きました。
「あの人……スラー伯爵夫人さんは、ここでタイ公爵の悪事を暴くつもりなのかもしれない。うまくいけば、ムーシカ王国へ連れ帰って一件落着だろうけど、もしも失敗したら、ジュスティーヌは……」
「母さま……」
「あたしはね、ジュスティーヌ。国同士のことやら貴族同士のことやらは、そこらへんに落ちてる小石くらいどーでもいいのさ。でも、ジュスティーヌのことだけは、その日の売り上げの何倍も何十倍も大事に考えている」
「……」
母さまの瞳が潤んでいるところを、私は生まれて初めて目にしました。
自分の手で守りたいが、自分のいるこの場所は最も危険な場所だから……
これは、母さまにとって苦渋の決断なのでしょう。
次の言葉を待っていると、母さまは今まで蚊帳の外だったジークさんをキッと睨みつけました。
「あんた、船はペルガミーノ王国にあるって言ってただろう。その船に、ジュスティーヌを乗せておくれ」
母さまの不機嫌そうな視線の先で、ジークさんがごくりとつばを飲み込む音が聞こえました。
そして、
「最初から、そのつもりだった」
と、頷いたのです。
「実は、タイ公爵が諦めるまで……この件に関してすべてが丸く収まるまで、ジュスティーヌを預からせてほしい。そう頼みに来たんだが、頼み込むまでもなかったな」
「あんたの考えていることなんて、何もかもお見通しだよ」
ジークさんと母さまは、お互いに視線を合わせると、どちらともなく小さく笑って目を伏せました。
私は、テーブルの下からタイ公爵とスラー伯爵夫人の様子を覗き込みました。
ふたりとも足元しか見えませんが、タイ公爵がスラー伯爵夫人の登場によほど驚愕していることはわかります。
なんてったって、私とジークさんの姿が見えなくなったことにも気がついていないのですから。
「ジュスティーヌ」
名前を呼ばれて振り向くと、ジークさんの木賊色の瞳が私を見据えていました。
「今ここを出たら、次はいつ戻って来られるかわからない。それでも、ジュスティーヌのことは必ず守る。そして、必ずここへ無事に帰って来よう。だから、一緒に来てほしい」
「……」
そう頼まれて反対する理由なんて、ひとつもありませんでした。
私は深呼吸をしてから、大きく頷いてみせました。
「もちろんです……! 私、ジークさんとずっと一緒にいたい……もう、離れ離れになりたくないです!」
今までだれにも言ったことのない私の気持ちが、囁き声となって溢れてきました。
まるで『いつでも歌が』の歌詞のようです。
いつでも私が そばにいる
「……」
ジークさんは、私の言葉に何度も瞬きを繰り返していましたが、
「そ、そうか。よかっ、た……」
片言のように呟いて、項垂れてしまいました。
耳は朱色に染まっています。
母さまはというと、いつものむすっとした顔で私を見ながら、項垂れたジークさんの背中をポカポカと叩いています。
何か変なことを口にしてしまったのでしょうか?
「まあまあ、アッチェレ。じゅっちゃんが困っとるから、それぐらいにしておきなさいよ」
「父さんの言う通りだよ。というか、ジークさんも叩かれてないで何か言い返したらどうなんだい、まったく」
私がどうしようもなく固まっていると、いつの間にテーブルの下にしゃがみこんだのか、リットさんとアッラルさんが顔を覗かせました。
そういえば、ふたりは楽屋のある通路から現れましたが、今まで何をしていたのでしょう?
ふたりをちらっと見た私は……
「……」
「あら、ジュスティーヌ。あまりの完成度の高さに声も出ないみたいだねぇ」
そう言って笑ったアッラルさんは、金色の長い髪のかつらを被り、黒のワンピースを着ています。
その隣でニコニコと笑うリットさんはというと、レンガ色のふわふわしたかつらを被り、こげ茶のロングコートを羽織っていました。
ふたりは、私とジークさんの恰好をしているようです。
「実はね、ジュスティーヌの誕生日パーティーに『ジュスティーヌの格好でも可!』ってことにして一組だけ作ってみたんだけど……」
「アッチェレに見せたら怒られてしまってね。『こんなのがいたら本物がかすんじまうだろ!』って」
「そりゃあ、ごもっともってことで、あの日は、ジークさんの格好だけになったのさ。この『ジュスティーヌ試作品』は楽屋の物置にしまいっぱなしになってたのを出してきたんだ。父さんの『ジークさん衣装』も一緒にね」
リットさんとアッラルさんは、この状況でもすこぶる楽しそうで、見ているこちらまで、なんだか心配や不安が吹き飛んでいくようでした。
「ふたりには、もしものときのオトリを頼んでおいたんだ。正面から見れば、変装していることにも気がついてもらえないだろうけど、後ろからなら、かつらと衣装のおかげですぐにはバレない……と、思う」
説明してくれる母さまも、まるでいつもの店内にいるような調子が戻ってきたようです。
でも……
ここから先は、いつもと同じというわけにはいかないでしょう。
「それじゃあ、ジュスティーヌ……そろそろ行きなさい」
母さまは、私の旅行カバンを持ってきてくれていました。
透き通るような柿色の瞳が、私をまっすぐ見つめています。
私は、潤んだ瞳の母さまの手を、両手でぎゅっと握りました。
「大丈夫よ、母さま。私には、ジークさんがついていてくれるんだもの。またすぐ、ふたりで帰ってくるわ」
そして、私は歌うのです。
またここで、何のしがらみもなく自由になったお客様、ジークさんのために。
私の大切な、ジークさんのために……
つづく




