第1話「私、18歳になるんです」
覆い被さるように広がっていた分厚い雲が日に日に薄くなり、雲間から太陽が顔を覗かせるようになりました。
寒かった冬が終わり、もうすぐ春がやってくるのでしょう。
店先に積もった雪は、翌日の午後には姿を消すようになり、溶けた水が石畳を縫うように坂を流れていきます。
私は、幼い頃からこの水が流れていく様子を見るのが好きな、変わった子どもでした。
母さまや常連さんからは「何が面白いんだか」と呆れられていますが、一度流れる様子を目にしてしまうと、何をしていても手を止めてじっと見入ってしまいます。
流れる水を見ていると、心が落ち着いてくるのです。
ジークさんの手紙を受け取ってから、半年近くが経ちました。
もう二度と、ここへは現れない……
その言葉通り、ジークさんは一度も母さまのお店へは来ていません。
私はジークさんのことを思い出すたびに、近くを流れる川を覗いていました。
もう会えないんだということは、頭でも心でも理解しています。
日常生活にも、とくに支障はありません。
でも……
ふとした瞬間に思い出してしまうこともあります。
美しい夕焼け、静かな満月の夜、美味しいプリン、バーカウンターの一席と薔薇の花。
そして、あの髪飾り。
『これがいい……この色のほうが似合う、と思う』
ジークさんの声が耳奥で再生されると、もう忘れていたはずの涙がじんわりと視界をぼやけさせるのです。
そして、考えてしまいます。
私にとって、ジークさんとはいったいどんな存在だったのかと……
ただのお客様、というよりは親密な関係で……
でも、私はジークさんのことは何ひとつ知らなくて……
それで終わってしまったことがとても悲しくて、悔しいのです。
もっとたくさんお喋りしたかった、お出かけしたかった……
一緒にしたかったことが、涙と一緒に次から次へと溢れていきました。
それでも、毎日は過ぎていきます。
私は、今を生きていかねばなりません。
涙を拭い、鼻水をかみ、笑顔の仮面を張り付けて、ステージで歌を歌う……
そんな日々を繰り返し過ごしているうちに、日はどんどん短くなり、冷たい風が冬を運んできました。
みぞれ交じりの雪が重たく地面を覆って、石畳の道が見えなくなり、1日の半分以上が夜になりました。
朝晩の冷え込みは尋常ではありません。
こんな日々が永遠に続くのでは、とだれもが思い始めた頃……
春の兆しが見え始めました。
雲間から暖かな日差しが覗くようになり、石畳に積もった雪を柔らかく溶かしていきます。
春がやってきたのです。
ステージ裏の楽屋で、私は屋根から伝い落ちる雫を見つめていました。
雪解け水の雫は、午後の日差しを浴びてキラリと瞬くと、そのまま石畳の水と合流して流れていきます。
ジークさん……
私は心の中で語りかけました。
ジークさん、もうすぐ春がやってきますよ。
明日は、私の誕生日です。
私、18歳になるんです。
★彡☆彡★彡
私は、誕生日が大好きです。
叔母のアッラルさんはよく「年を取る日だから、もうあんまり好きじゃない」なんて言っているけれど、私はきっと何歳になってもワクワクドキドキできると思います。
だって、1年に一度だけやってくる特別な1日です。
楽しく過ごさなきゃ、もったいないではありませんか!
たとえだれにもお祝いされなくても、私は自分の誕生日を忘れたりしないでしょう。
そう言い切れるほど、私は誕生日が大好きなのです。
誕生日を楽しく過ごすために、掃除などの雑用を前日に終わらせておいた甲斐もあり……
私は、誕生日をのんびり過ごすことに成功しました。
夜はステージで歌うので、朝は遅くまでゆっくりと眠り……
起きたらすぐに、大きなボウルに入ったプリンをペロリと食べ終えて……
ああ、なんて幸せな誕生日なのでしょう。
なんて、染み出たカラメルみたいに緩み切った顔の私に、母さまは呆れることなく、
「夜は、常連客と一緒に盛大にパーティーを開くからね」
そう宣言して、いつも眉間にシワを寄せている母さまにしては珍しく、にっこり笑ってみせたのでした。
た、誕生日パーティー!
いつもはお店が忙しいから、私が寝る前にふたりでケーキを食べて終わりだというのに!
母さまってば、無理しているのかしら……?
少し心配になったので、いつもと同じで満足だと告げると、母さまは普段通りの眉間にシワを寄せた顔になって、
「あたしじゃなくて、アッラルがうるさいんだよ。ジュスティーヌが寂しそうだから、あの子の好きな誕生日ぐらい盛大にお祝いしてやれって」
「……」
ジュスティーヌが寂しそう……
私は、思わず息を呑みました。
心配をかけまいと必死に隠していたつもりだったのですが……
さすがは気遣いの第二子、アッラルさんです。
と、思ったのも束の間。
「アッラルってば、きっと、何かむしゃくしゃしたことがあって、それを発散するためにジュスティーヌの誕生日パーティーなんて企画したんだよ。そこに父さんたち常連客が便乗したのさ、まったく」
早口に文句をまくし立てる母さまでしたが、頬は上気して口角も少し上がっています。
どうやら、便乗したのは母さまのほうみたいです。
「母さま、ありがとう」
「お礼ならアッラルに言いな! あと、店の中はパーティーの準備中だから、合図があるまで入っちゃダメだからね!」
母さまはギリギリ聞き取れるくらいの早口で一気に言い終えると、そのままの勢いで楽屋裏へと立ち去ってしまいました。
照れ屋さんにもほどがある……
私はなんだか楽しくなって、すっかり冷めてしまった紅茶をすすりました。
★彡☆彡★彡
自分の部屋で歌の練習をしたり、このノートを書いたりしているうちに、すっかり日が暮れました。
窓からは、街灯の灯りがぽつぽつと見えています。
春が近くなったとはいえ、夜はまだ長いままです。
ノートを本棚にしまっていると、母さまが呼びに来てくれたので、私は楽屋へと向かいました。
この日に着るべきものと身に着けるものは、もう決めていました。
クローゼットから、しまい込んでいた真っ赤なドレスを引っ張り出します。
『……確かに、よく、似合う……と、思う』
あの日のジークさんの声が、勝手に聞こえてきます。
あの照れくさそうな表情も一緒に……
自分で背中のホックを留めて着終わると、次に鏡台の引き出しを開けました。
中から、あの髪飾りを取り出します。
薔薇の形に細工されたルビーとガーネット、上品な雰囲気とともに揺れる黒のレース……
光り輝く臙脂色と紅梅色、それを引き立てる一線の漆黒……
『これがいい……この色のほうが似合う、と思う』
そう言って、ジークさんが私のために選んでくれた、大切な髪飾り。
「ジークさん……」
私は髪飾りをぎゅっと抱きしめてから、髪の毛をまとめてねじり上げ、ぐっと留めました。
自分の心も、びくともしないように固定できたらいいのに……
店内からは、賑やかな笑い声が聞こえてきます。
もうお客様が入っているのでしょう。
急いで仕上げのお化粧をしていると、楽屋に母さまが入ってきました。
何か、小さな箱を手にしています。
「ああ、ちょうどよかった。そろそろ、支度が整う頃だと思ったよ」
母さまは私の隣の椅子に腰かけると、持ってきた箱を開けて見せました。
中から出てきたのは、大きな翡翠のイヤリング……
「ジュスティーヌ、お誕生日おめでとう」
母さまは、慣れた手つきでイヤリングを箱から取り出すと、
「この色、ジュスティーヌに似合うと思って」
そう言って私の耳につけてくれました。
鏡に映った私の耳元で、大きな翡翠が揺れています。
つづく




