第18話「また、私の歌を聴きに来て!」
今日はステージでは歌わない、少し外を散歩してくる……
もう髪型を夜会巻きにしていて、ステージで歌う準備万端だった私がそんなワガママを言っても、母さまは渋い顔ひとつせずに送り出してくれました。
すっかり日が暮れたせいでしょう……
吹き抜ける風は冷え込むばかりです。
私は、バーカウンターの一輪挿し、私がステージで歌う目印である金糸雀色の薔薇が楽屋に下げられるのをこっそり見届けてから、大通りを南へと向かって歩き出しました。
……あの日、あの人と歩いた道順と同じ道順です。
街は薄暮の只中にあり、西の空がほんのりと薄橙に染まっています。
残照を右手に歩き続けて、私はフェルマータさんのお店の前に辿り着きました。
扉につけられた覗き窓には、花柄のオシャレなカーテンがかけられています。
……今日、お店はお休みなのでしょう。
『これがいい……この色のほうが似合う、と思う』
髪飾りを選んでくれたジークさん……
もう、会えない……
二度とここへは現れない……
頭ではわかっているはずなのに……
今にも胸が張り裂けそうな出来事のはずなのに……
「……」
なぜなのでしょう……
心の中にも、頭の中にも、何の感情も沸いてはきません。
思考が止まって、まるで、ただ呼吸するだけの生き物にでもなってしまったかのように……
「……」
フェルマータさんの店の前を通りすぎ、私は歩き続けました。
ふたりで入った喫茶店は、もう店じまいの時間のようです。
あの日、私の瓶入りプリンとジークさんのコーヒーを運んでくれた店員さんが店の外に出てきて、店前に立てかけてあった看板を店奥へと片付けていました。
あの日と同じ店員さんだなんて……
我ながら、よく覚えているものです。
それほど、あの日の想い出は、私にとって大切なものだったのでしょう。
……もう、想い出の中の出来事でしかありませんが。
できることなら、想い出を上書きし続けたかった……
店員さんの仕事が一段落するまで、私はその場に佇んでいました。
はたから見れば変な人間だったかもしれませんが、今の私には、そんなことはまったく気にならなかったのです。
東の空はもう薄縹色に染まり、チラチラと星が瞬き始めていました。
その星たちを左手に、私は南へ向かって歩き続けました。
「……」
どれだけ歩いても、私の頭の中は空っぽのままです。
石畳に響く自分のヒールの音ですら、耳から耳へと抜けていきます。
そこには、残響すらありはしないのでした。
南へ、南へ、南へ……
ムーシカ王国へ向かって、私は歩みを進めます。
「……」
何かを考えようとすると、そこで思考が止まってしまいます。
まるで、これ以上考えるなと、もうひとりの自分が頭の中で叫んでいるような感覚です。
記憶を頼りに、路地裏へ入っていくと……
あの日見た木札が軒下に掲げられていました。
この木札を取り付けたのは、もちろんジークさんでしょう。
木札に彫られているのは、ト音記号。
ト音記号を意味するムーシカ地方の名前、ジークレフ……
何も知らなかった……
私が、何も知ろうとしなかったから……
ジークさんに煙たがられたくなくて、何も聞かなかった。
それは、私が心のどこかでジークさんには何かしらの秘密があったほうがいい、なんて思っていたから。
でもまさか、こんなところにジークさんの秘密を知るヒントがあったなんて。
『もしかして……ムーシカ王国へ行くんですか?』
あの日、そう尋ねた私に、ジークさんは大きく頷きました。
『急がないと、間に合わなくなる』
ジークさんの声が、脳内で再生されます。
私は、何の躊躇いもなく薄暗いトンネルへ足を踏み入れました。
遠くにうっすら見える光は、あのときよりも時間が遅いせいか、今にも見えなくなってしまいそうな儚いものになっています。
『急がないと、間に合わなくなる』
……気がつくと私は、早足でトンネルを駆け抜けていました。
そこで、大きく深呼吸……
「……」
耳を澄ませて、音を聞きます。
『あそこは、トンネルを抜けた後に潮の香りと波の打ち寄せる音を頼ればたどり着ける』
ジークさんの言葉を頼りに、私は西に進路を変え、また歩き始めました。
だんだんと強くなる潮の香り、そして潮騒……
「……」
心を無にし、薄暮の空へ向かって歩き続け、路地裏を抜けたそのとき……
あの日見た景色が、また私を迎えてくれました。
ほんのりと朱色に染まる西の空、そこから薄青が東へと続き……
やがて、青色の夜が広がっていく……
でも……
あの日と何もかもが同じ、というわけではありません。
『……行けば、会えますか? ジークさんに……』
『そうだな。会えるかも、しれないな』
帰りがけのやり取りを思い出した私は、思わずあたりを見回していました。
もしかしたら……!
そう思ったのですが……
私の質問に笑って答えてくれたあの人は、どこにも見当たりませんでした。
今日は運がなかったということでしょうか、それとも……
「……」
欄干にもたれて西の空を眺めていると……
凪が終わったのか、ひんやりとした風が首筋を撫でて通り過ぎていきました。
『ジュスティーヌもいつでもここに来るといい。ここの夕日は、だれにでも元気を分けてくれるから』
あの日よりも時間が遅いせいか、もう夕日は沈んでいましたが、私はジークさんの言葉を思い出していました。
『この雄大な景色に比べて、自分や自分の悩みのなんと小さいことだろう……!』
「……」
私は、髪をまとめていた髪飾りをすっと引き抜きました。
ねじり上げられていた髪が重力で落ちてきて、ねじりもクルクルとほどけていきます。
北から吹く風が、まっすぐ下りた黄金色の髪を吹き上げてたなびかせました。
私の手の中には、あの日ジークさんに買ってもらった髪飾りがすっぽりと収まっています。
「……」
見つめていると、ふいに鼻の奥がツンとしてきました。
ぼやけた視界の中で髪飾りを胸に抱くと、濃紺の海の中へ涙が数滴こぼれて吸い込まれていきました。
髪飾りを持つ手に、自然と力が入ります。
涙とともにこぼれそうになる鼻水を、人目がないのをいいことに、ズズッと大きくすすり上げました。
すすって、すすって……
そして、口から吐き出した空気が……
そのまま嗚咽へと変わりました。
「――!!」
もう会えないなんて……!
信じられない……!
……信じたくない!
バーカウンターのあなたを、ステージから見るのが好きだった。
いつも優しく見守っていてくれたのに……
もう、その姿を見ることはできないなんて……
そんなの……
そんなの嫌っ……!
やっと……
やっと、お話しできたのに……!
一緒にお買い物もして、喫茶店に行ってお茶もして……
とっても楽しかった……!
またお待ちしてますって言ったら、手を上げて応えてくれたのに!
今日までずっと……
ずっとずっと、ずうーっと待っていたのに!
「……」
悲しみの嗚咽に混じって、私の中に、だんだんと「どうして」という感情が生まれてきました。
どうして……
どうして、何も言ってくれなかったの……?
一言でも、何か教えてくれていたら……
私に相談してくれていたら……
そうしたら、何か変わっていたかもしれないのに!
今でも、あなたは隣で笑っていてくれたかもしれない!
ジークさん……
ジークさん、お願い……
また、私の歌を聴きに来て!
一緒に、ここで夕日を見たいのっ!
私は、声をからす勢いで泣き続けました。
ジークさんに聞いてもらえないなら、もう歌姫であることにも未練はなかったのです。
だれにも見せられないような酷い顔になった私を、ほんの少し欠けた月が空から見下ろしていました。
第3章 おわり




