第16話「船長ってことでしょうか」
満月が私たちを照らしています。
静寂の中、少し雲が出てきたのか、満月は時折ぼんやりとした光の塊になって空に浮かんでいました。
「……それを聞いて、安心した」
ジークさんは、ぽつりと呟いて、ふっと微苦笑を浮かべました。
その表情は私に向けられたものではなく、まるで自分自身に対してのものに見えました。
まるで、くだらない質問だった、とでもいうように。
ジークさんは、私に何て答えてもらいたかったのでしょう。
今の答えは、正解……?
それとも……
「ジュスティーヌ」
名前を呼ばれ、考えに耽っていた私は「はい!」と返事をして背筋を伸ばしました。
思慮深い木賊色の瞳が月明りを帯びて仄かに瞬いています。
こんなにも美しい瞳を、私はほかに知りません。
ジークさんは、何度か瞬きした後、ゆっくりと口を開きました。
「どうか、これからも歌い続けてほしい。この場所で……この、国で」
「……」
この国……
なんだか、規模の大きな話です。
どう答えていいかわからず、私はただ呆然としていました。
それでも、ジークさんが言いたいことは、なんとなくわかる気がしました。
きっと、このまま何も変わらずにいてほしいってこと、ですよね?
それなら、答えは簡単。
「……はい! 歌い続けます!」
心配そうに見つめるジークさんに向かって、私は大きく頷きました。
「……ありがとう」
すると、張り詰めていたものが緩んだように、ジークさんは柔らかい笑みを浮かべました。
「それじゃあ……」
歩き出した大きな背中は、丁字路を左に曲がりました。
はためくロングコートの裾を見つめながら、
「またお待ちしてます!」
そう声をかけると、ジークさんは右手を軽く上げて応えてくれました。
私は、そんなジークさんの姿が次の角を曲がって見えなくなるまで、じっとその場に佇んでいたのでした。
★彡☆彡★彡
あの素晴らしい一日から、3日が経ちました。
たった3日でも、あの日よりは日も短くなり、昼日中の風も冷たいものへと変わっています。
……ジークさんは、あの日以来、アッチェレの店へは来ていません。
店の前の大通りでは、銀杏並木がワシワシ葉を広げて、冷たい風の中で金色の雲のように揺れています。
時折、突風が吹き抜けると、銀杏の葉がハラハラと舞い落ち、大通りはたちまち絨毯を敷き詰めたように黄金色に染まりました。
「じゅっちゃん、いいのかい? 歌姫が店先の掃き掃除なんて」
箒と塵取りを手にいそいそと出ていこうとした私に、バーカウンターの中からコーダさんが声をかけてきました。
この「歌姫」というのは、どうやら最近の私の呼び名らいのですが……
そんな大層な代物ではない私としては、恐縮して店先の掃除でもしていないといたたまれなくなってしまうのです。
「いいんですよ! 歌ってないときは、私もここの従業員なんですから! 掃除くらい、ちゃんとやらないと!」
バーカウンターに向かって箒と塵取りを掲げてみせると、コーダさんは、
「ん……じゅっちゃんがいいなら、いいんだけど」
と呟きながら、手にしたウィスキーグラスを磨き始めました。
外に出てみると、風はひんやりとして冷たいですが、太陽は眩しく輝いて大通りを照らしていました。
昼下がりということもあって人通りも激しく、人々の短い影が石畳を埋めています。
私は、通りの両端に落ち葉を集めて塵取りですくい上げると、用意しておいた大きな布袋にぎゅうぎゅうと押し込みました。
たくさん集めて、街外れにある空き地まで持っていかなければならないのですが、かなりの重労働なので、ご近所の男性陣にお願いすることになっています。
店先の落ち葉を片付け終わって、曲がった腰を伸ばしていると、夏通りの方角から歩いてくる男の人に目が留まりました。
周りを歩く人との違いは、少し背が高いことくらいですが、片手に持った紙切れをチラチラ見ながらキョロキョロとしている様子を見ると、このあたりのお店か何かを探している人だとわかります。
こういうときは、迷わず助ける。
長年(といっても17年ですが)ここに住んでいる者の責任を果たすべく、私は店先へとフラフラ歩いてきた男の人へ駆け寄りました。
しかし。
「何かお探し……」
私は、男の人を前に固まってしまいました。
駆け寄る前に気がつくべきだったのですが……
その人は、まるで巨人のように背が高くて、肩幅も広くて胸板もがっしりとしていて、おまけに表情も険しくて……
要するに、その威圧感に押されて、私は何も言えなくなってしまったのです。
駆け寄った手前、引き返すこともできず……
口を開こうにも、険しい表情で見下ろされているので声も出ません。
ああ、どうしましょう……
なすすべもなく固まっていると、
「……ジュスティーヌ、さん?」
頭上から、これ以上ないであろう、ぶっきらぼうな低い声が降ってきました。
しかも……
私の名前を呼んでいるではありませんか!
え……?
どうして、私の名前を……?
なんて、疑問に思っている場合ではありません。
私は、相変わらず険しい表情の男の人に向かって、何度も頷いて見せました。
「は、はい! 私がジュスティーヌですっ!」
早く返事をしないと怒られるような気がしたのですが、男の人は私の慌てた返事を聞くと、小さく息をつきました。
なんだか、ほっと一安心したような、そんなため息でした。
そして、胸ポケットから封筒を取り出して、私に差し出しました。
お手紙をくださるようです。
「……あなたと、あなたのお母さんに」
封筒には、ト音記号の封蝋が押してありました。
受け取ってみたものの、私には心当たりのない手紙です。
男の人は、母さまにも、と言っていました。
ということは、母さまのお知り合いから、ということなのかもしれませんが……
「……」
手紙をじっと見つめていると、また頭の上からぶっきらぼうな声が降ってきました。
「……船長から、です」
「……せ、せん、ちょう?」
せんちょうって、ええと……
船長ってことでしょうか。
けれど……
ソニード王国は、この世界で唯一の内陸国です。
私の知る限り、母さまの店にも、そんなお客様はいらっしゃったことはありません。
私は、手紙を前に首を傾げていました。
その手紙を届けてくれた男の人はというと、私の様子を見て「なぜ伝わらんのだ」という表情でむすっとしています。
こ、これは、まずいのでは……?
でも、わからないものはわからないし……
どうしよう。
「……」
冷汗が伝いそうな緊張感の中、表情を変えたのは男の人のほうでした。
ああ! そうか! なるほど!
と、今にも叫びそうな顔になったのです。
謎はとけたぞ、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだ!
なんて、今にも口に出す勢いです。
どうやらこの人、見てくれは威圧的で、険しい表情も怖いですが……
考えていることが顔に出やすい、嘘のつけない良い人、なのかもしれません。
そんな男の人は、私を見下ろして、ぽんっと言い放ちました。
「ジークさんから、です」
……と。
「ジークさん……!」
突然降ってきたよく知る人の名前に、私の胸は大きく高鳴りました。
ジークさんからの手紙!
いったい何が書いてあるのでしょう。
あ、でも母さま宛でもあるから、帰って報せないと。
それにしても、ジークさんが船長さんだったなんて。
あ、しまった。
突然のジークさん登場に、手紙を届けてくれた人のことを忘れていました。
「あ、あの……」
お礼を言おうと手紙から顔を上げると……
そこにはもう、人影はありませんでした。
ただ、秋の風が銀杏を揺らし、黄金色の雨を降らせているばかりです。
つづく




