第15話「こんな薔薇だけじゃ足りない」
褒められて照れくさいのはこちらのほうだというのに、ジークさんは俯いたまま……
と思ったら、何やら気になるものがあるらしく、またカウンターの一点を見つめていたのです。
そこには薔薇が一輪、小さな花瓶に生けてありました。
私がステージに立つとき、その目印として母さまが必ず飾ってくれる、金糸雀色の薔薇です。
今までずっと飾っていたはずですが、ジークさんは今日初めて気がついたように、じっと薔薇を見つめていました。
いったいどうしたのかと思うほど、長い間、じっと……
「ああ、それ……じゅっちゃんの髪色と同じでしょう?」
そのとき、カウンターの中にいたバーテンダーのコーダさんが、丸渕眼鏡をキラリと光らせて、私たちに話しかけてきました。
「アッチェレさんがね、飾るんですよ。これね、じゅっちゃんが歌うよっていう目印なの」
常連客リットさんと同い年のコーダさんは、グラスを拭く手を止めることなく私に「ね?」と確認するようにニコニコしてきたので、私も「はい」とニコニコ頷きました。
ジークさんはというと、
「ふむ……」
と、息が漏れたみたいな声とともに薔薇の花を見つめていました。
よほど気に入ったのでしょうか……
それなら、
「よかったら、差し上げます!」
私がそう言うと、ジークさんは顔を上げましたが、なんだか途惑っているようです。
あれ、変なこと言っちゃったかな……
と思ったものの、後には引けません。
一度口から出てしまった言葉は、口の中に戻せないわけですから!
私は花瓶から薔薇の花を抜き取ると、茎の部分を少し短くして、ジークさんのコートのボタン穴にすっと差し込みました。
「受け取ってください。今日のお礼です」
豪華な髪飾りを買ってくれたり、美しい海と夕日が見える秘密の場所を教えてくれたり……
私の歌を、真剣に聴いて感想をくれたり……
本当は、もっとたくさんのお礼がしたい。
こんな薔薇だけじゃ足りない。
でも、今の私には何も思いつけず、咄嗟の一言でした。
ああ、でも……
ついこんなものを贈り物にしてしまいましたが、迷惑だったかもしれない。
こんなものもらっても、どうしろというんだ?
なんて思われていたら、どうしよう……
勢いで余計なことをしてしまったと目を伏せると、ジークさんは自分の胸元に飾られた薔薇を見つめて、穏やかに微笑んでいました。
「ありがとう」
「いえ、そんな……」
たった一輪の薔薇にお礼を……
そのお礼を言い足りないのは、私のほうなのに。
ジークさんの優しさに申し訳なくなって小さくなっていると、
「ジュスティーヌだと思って、大切にしよう」
ジークさんは、かろうじて聞き取れるようなとても小さな声で、そう言いました。
「……」
ジュスティーヌだと思って……
耳ではしっかり聞き取れているのに、頭が理解してくれず、心も追いついていません。
ジュスティーヌだと思って……
私だと思って……
瞬きも忘れて固まっていると、
「そ、それじゃあ今日はこれで……ご馳走様」
よほど照れくさくなったのか、ジークさんは慌てたように椅子から降りて私の横をすり抜けると、そそくさと店を出て行ってしまいました。
……はっ!
「ああ待ってください! お見送りさせてくださーい!」
我に返った私の声が聞こえたのか、店先に佇んでいた母さまは何か言いたそうでしたが、私は構わずジークさんを追って外へ出ました。
夜も深くなり、冷え込んだ風が吹いています。
薄暗がりの湿った匂いにつられて、小さなくしゃみがひとつ、またひとつ……
この衣裳では、少し肌寒いようです。
「……見送りはいらないよ」
私のくしゃみを聞きつけたのか、少し先を歩いていたジークさんが靴音を響かせて戻ってきました。
「そんな、大丈夫ですよ!」
心は煮えたぎるほど熱くなっているというのに、喋ろうとするとくしゃみが出てうまく口が回りません。
「これくらい、平気でっくしゅ」
と、そのとき……
目の前に、大きな布切れのようなものが飛んできました。
な、何だろう……?
咄嗟に両手で受け取ると、それは暖かくてフワフワした薄手の毛布……
母さま愛用の肩掛けでした。
「……そこの角まで、だからね」
店内からの灯りで逆光になっているせいか、母さまの表情はよく見えません。
でも、怒っているわけではなさそうです。
ついさっき、私がリハーサルの時間に遅れたときは、火山が大噴火したみたいに激怒していたというのに。
ジークさんには、いつも冷たく当たっているというのに。
不思議なことも、あるものです。
「ありがとう! 母さま!」
私は、母さまの気が変わらないうちに、ジークさんと一緒に歩き出しました。
★彡☆彡★彡
闇夜の空に、黄金に輝く丸い大きな月が浮かんでいます。
どうやら、今日は満月のようです。
母さまと約束した「そこの角」では、ちょうど建物の屋根と屋根の隙間から月が覗いていて、私とジークさんは並んで夜空を眺めていました。
「……」
静かな時が流れていました。
まるで、空に浮かぶ満月が世界のあらゆる音を吸い込んでしまったかのようです。
静寂の中、私はちらりとジークさんの様子を窺いました。
木賊色の瞳が、難しい表情で満月を睨みつけています。
けれど、瞳の奥の光は寂しい色をしていて……
どこかで見たことのある顔です。
……あっ。
これは、私の歌を聴いているときと同じ顔ではありませんか!
ずっと、気になっていました。
いったい何を考えているのかと……
思い切って尋ねようとした、そのとき。
「ジュスティーヌ。ひとつ、聞いてもいいだろうか」
満月を見ていたジークさんが、私の顔を覗き込みました。
木賊色の瞳は、先ほどの難しい表情から一転、真剣な光を帯びた色に変わっています。
「……」
その迫力に気圧されて頷いてみせると、ジークさんはポツポツと細切れに言葉を継いでいきました。
「もっと、広い場所で、歌いたい……もっとたくさんの人に、自分の歌を聴いてもらいたい……そう思ったことは、あるだろうか……?」
「……」
自分が音痴だから、歌には詳しくはない……
そんなジークさんからの、予想外の質問です。
私はすぐには答えられずに、瞬きを繰り返していました。
ジークさんはというと、自分から尋ねたというのに、申し訳なさそうに顔を伏せています。
そのまま、何も言わずに黙ったまま……
酷な質問だが、聞かなければいけないんだ。
そう思っているかのように。
だとしたら答えは、
「いいえ。そんなこと、考えたこともありません」
にっこり笑ってみせると、ジークさんはゆっくり顔を上げて、不思議そうに私を見つめました。
理由を尋ねる瞳に、私は自分でも答えを探すように口を開きました。
「私が歌を歌うのは、母さまと、母さまのお店にいらっしゃるお客様のためなんです。いつものお客様が笑顔で一日を終えられるように、私は歌を歌っています。だから、母さまのお店以外では、うまく歌える自信はありません」
「……」
「あと、これはワガママかもしれないですけど……もともと声が小さいので、あの大地震の日よりも多いお客様の前で歌うとなると、喉が痛くなるというか、腹筋が痛くなるというか……」
「……」
「えっと、話が逸れちゃいましたけど、私はこの場所で歌えることが……ジークさんに自分の歌を聴いてもらうことが幸せなんです。だから、今のままで……充分、満足しています」
「……」
ついつい長い説明になってしまいました。
でも、ジークさんはこういう理由が欲しかったと思うし、いいですよね?
私が見つめる先で、ジークさんは何も言わずに私の長い説明を聞いていてくれました。
つづく




