第14話「夕日を眺めていて遅れた」
オレンジ色に染まる空と、銀紙のような海……
その境目に、まるで海に飲み込まれようとしている夕日が見えます。
ゆっくりですが、確実に太陽は沈んでいきます。
夕日が半分、水平線に吸い込まれ、さらに半分、さらに……
やがて、夕日は海の中にすっぽりと隠れてしまいました。
けれども、空はまだうっすらとオレンジ色に染まっています。
……薄暮です。
たゆたう海の波は、オレンジ色の光に照らされて揺らめいています。
東の薄青から、美しいグラデーションとともに、西の淡い朱色へと繋がっています。
「きれい……」
自然と、口から言葉が溢れてきました。
すると……
……
目の前がぼやけて、鼻の奥にツンとした痛みが走りました。
瞬きをすると、涙が頬を伝っていくのがわかります。
「え……?」
どうして、泣いているのでしょう……
理由もわからないのに、涙が流れて止まりません。
「感動して泣けてくるほど、美しい海……それが見られるのは、天気が良い日の、この時間だけなんだ」
私がハンカチを出して涙を拭いていると、ジークさんが欄干にもたれて、西の空を見つめながら呟きました。
「悲しいことや辛いことがあったとき、よくここへ来る。そして、心が洗われるような美しい夕焼けを見るんだ。この雄大な景色に比べて、自分や自分の悩みのなんと小さいことだろう……! そう思うと、自然と元気が湧いてくる。だから、ジュスティーヌもいつでもここに来るといい。ここの夕日は、だれにでも元気を分けてくれるから」
ジークさんにしては、珍しく長い言葉たちです。
その長い語りはとても優しく、それでいて力強く私の胸を打ちました。
「……はい。こんなステキな場所に案内してくださって、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げた私は、感動して泣いているというよりも、ただ単に、とても嬉しかったのです。
こんなにも美しく、言葉もいらないようなキレイな景色を、ジークさんと一緒に見ることができたのですから。
今まで私は、キレイなものはひとりで見ても、だれかと一緒に見ても変わりはないと思っていました。
でも……
たとえ同じものを見ていたとしても、心の中は全然違うということに気づけたのです。
……ジークさんのおかげで。
「……」
私とジークさんは、しばらく黙ったまま、美しい夕空とオレンジ色に染まる海を見つめていました。
そのうち夜の帳が降りて、西の空も次第に薄青に覆われていきました。
……だんだんと、夜が近づいています。
夜……
はて、何か大事なことを忘れているような……
……
……あぁっ!!
「大変っ! 歌のステージのリハーサル、忘れてましたーっ!」
思わず、海に向かって叫んでしまいました。
日が暮れてから店の準備を手伝い、そこからのリハーサルだというのに、もう日が沈んでからかなり時間が経っています。
……きっと、母さまはカンカンに怒っているに違いありません。
ああ、どうしよう……
「夕日を眺めていて遅れた」なんて言っても、ちょっとガサツな母さまに通じるとは思えないし……
どうしたものかと、隣のジークさんに視線を向けると、
「あああ! すまない!」
と、私以上にバタバタしています。
「抜け道を使おう! 来た道を戻るよりは、早くアッチェレの店に着くはずだ」
ジークさんは大きく深呼吸すると、
「こっちだ……行こう」
私の腕を取り、ゆっくりと走り出しました。
私も、ジークさんに腕を引かれるまま、後を追いかけます。
左腕に、ジークさんの温かい手のぬくもりが伝わってきました。
想像していたよりも、大きな手です。
ジークさんは、左手に私のドレスやらが入った紙袋を下げ、右手で走るのが遅い私の腕を引いているというのに、大変そうなそぶりは見せずに路地裏を飛ぶように走っていきます。
空全体が薄青に染まり、薄暗い路地裏はさらに暗くなって、見通しも悪くなってきました。
右へ左へと角を曲がることも多く、私にはもう、どこをどう走っているのか見当もつきません。
もう、あのキレイな夕日が見える場所には行けないのかもしれない……
そんな私の思いが伝わったのでしょうか。
「あそこは、トンネルを抜けた後に潮の香りと波の打ち寄せる音を頼ればたどり着ける。帰りは空を見るんだ。いちばん暗くなっているほうへ歩いていけば、トンネルの目印である木板が見えてくる」
前を走るジークさんがペースを落とすことなく、息も切らすことなく、あの場所への行き方と帰り方を教えてくれました。
なるほど、ありがたい……
と思った私はというと、息も絶え絶えです。
「……行けば、会えますか? ジークさんに……」
「そうだな。会えるかも、しれないな」
ジークさんは、私の聞き取りにくい質問にも、ちゃんと振り向いて答えてくれました。
街灯のない路地裏では、細かな表情まではわかりませんが、口調が穏やかなことはわかります。
会えるといいな……
また、あのキレイな夕日を一緒に見たい。
一緒に……
私の密かな想いは、ジークさんの大きな背中に吸い込まれていったような気がしました。
★彡☆彡★彡
ステージからは、いつもと変わらない景色が見えます。
最前列のテーブル席でワイワイと宴会中のリットさんたち、店の入り口で腕組みしながらこちらを見守っている母さま……
そして、バーカウンターでウィスキーグラスを傾けるジークさん。
私が新曲『毎日が誕生日』を歌い終えると、ほどよく埋まっていたテーブル席のそこここから、パラパラと拍手が聞こえてきました。
リットさんの「いよっ! じゅっちゃん世界一っ!」なんて掛け声は毎日のことなので、私もいつもと同じようにニコッと微笑んでおきました。
そのリットさんの宴会テーブルにはフェルマータさんも座っていて、ワイワイとお酒を酌み交わしています。
本当に、私の衣裳を見に来てくれたようです。
まあ……
あの赤ら顔で、ちゃんと見えているのかはわかりませんが。
バーカウンターに目をやると、ジークさんがグラスを置いて拍手してくれているのが見えました。
カウンターの上は薄暗くてはっきりは見えませんが、グラスにはまだウィスキーが残っています。
まだ帰らずにいてくれるのかも……
ということは、ついにジークさんから歌の感想を聞く機会が巡ってきたということです!
私は、ピアニストのアルペジオさんに「お疲れさまでしたっ!」とお辞儀をして、いつものようにステージから飛び降りました。
ドレスの裾がはためいて、リットさんたちのテーブルがざわつきましたが、私はお構いなしにテーブル席の間を駆け抜けました。
他のお客様たちから好奇の視線を受けて、縮こまりながらもバーカウンターへ急ぎます。
今はただ、ジークさんと話がしたくてたまりませんでした。
ジークさんはというと、まだ動かずにいてくれましたが、グラスは空になっています。
普段なら、グラスが空になった時点でここに姿はないはずですが……
珍しいこともあるものです。
「ジークさん!」
声をかけると、カウンターの一点を見つめていたジークさんが、はっとしたように顔を上げました。
「ああ……お疲れ様」
穏やかに細められた目元と柔らかな微笑みに、私は自分でも頬が上気しているのがわかりました。
その勢いに任せて、私は口を開きました。
「あ、あの! 今日の歌、どうでした……?」
「……良かったよ」
私が今までずっと尋ねたかった質問、その答え……
「とても、ジュスティーヌらしい歌で……いつも以上に、艶やかで、とても美しい歌声だった」
ジークさんは、ポツポツと雨だれのように言葉を紡ぐと、照れたように顔を伏せてしまいました。
つづく




