第1話「天使の背中、西大陸か……」
この世界には、だれが呼び始めたのやら、おしゃれな呼び名が存在する。
その名も……「天使の背中」。
入り組んだ海岸線をもつ、ふたつの大陸が左右に位置していて……
それだけでも天使の羽に見えるのに、大陸の北にはおあつらえ向きに、大きな円形の湖をもつ島国が浮いている。
まるで、神様が戯れに落書きでも残したようだ。
けれどもそれは……
もちろん、偶然の産物ではない。
ふたつの大陸に挟まれた海を「内海」、反対側を「外海」と呼ぶのだが、入り組んだ海岸線が物語っているように、外海は常に荒れている。
地震や津波が多いことも、入り組んだ海岸線を作っている原因なのだそうだ。
それに比べて内海はというと……
凪ぐことも珍しくないほど、穏やかな海。
そのため、各国の港町もほとんどが内海に面している。
東大陸の北方に位置するエスペーシア王国、その自治領地区にある港町カイサーもまた、内海に面した由緒正しい港町なのだった。
★彡☆彡★彡
風向きが落ち着くまでは、東大陸の内海で小さな荷の運び屋をして、風向きが落ち着いたら、いよいよ西大陸へ向かう。
港町カイサーにて、我らが船長は、わたしとエフクレフさんにそう説明した。
この「天使の背中」では、風向きが半年ごとに変わる。
夏の終わりから秋の始めにかけては、いくら穏やかな内海でも強風で船が煽られるので、もう少し寒くなったら……
要するに、冬になり風向きが南西へと安定してから、西大陸へ向かう。
と、船長は考えているらしい。
「天使の背中、西大陸か……」
わたしは、自分の船室に貼った大きな世界地図を前にして、椅子に腰かけていた。
西大陸の北西に、ソニード王国という内陸国がある。
船長の「ジークレフ」という名前は、このソニード王国ムーシカ地方のものであると、つい先日まで泊まっていた宿屋のご主人に教えてもらった。
もちろん「エフクレフ」という名前も。
ソニード王国は、昔はエスペーシア王国と同じくらい大きな国だった。
唯一違うところがあるとすれば、大きな国の中は地方自治領でいっぱいだったというところだろうか。
大国は分裂しやすい……
いつの時代も、そうして歴史は紡がれてきた。
今から20数年前。
ソニード王国では内乱が勃発し、それが原因で各地方自治領が国として独立した。
ソニード王国の国土は4分の1にまで減少し、それに合わせて東西大陸内で唯一の内陸国が誕生した。
……と、ここまでが学校の歴史の時間で習う事柄である。
今までは過去の出来事、しかも自分には縁もゆかりもない西大陸の話だ。
もちろん歴史好きとしては面白いけれど、それはもう試験に備えるための事柄でしかなかった。
それなのに……
目の前に授業で習った事柄を体験した人がいるという事実とともに、歴史という名の物語が急に現実となってわたしのもとへとやってきたのだった。
あのとき、今は歴史として語り継がれる物語の中を、必死に生き抜いたであろう船長ことジークレフさん……
そんな、西大陸のソニード王国からやってきた船長が、どうして東大陸のエスペーシア王国に辿り着いて、のほほんと生きてきたわたしと出会うことになったのか……
そして……
これから先、何をしようとしているのか……
「……」
これ以上考えても、もちろん答えは出てこない。
それもそのはず……
船長のことについて、わたしには知らないことや、まだまだわからないことだらけなのだから。
★彡☆彡★彡
わたしと船長とエフクレフさん、そして数名の乗組員を乗せた貿易船は、その名も「モンターニャ号」という。
古い言葉で「そびえたつ山」という意味だそうだ。
最初は「船の名前なのに山?」と疑問に思っていたわたしも、空を貫くような3本の帆柱を見て、その名前に納得した。
それはまるで、仙人でも住んでいそうな荘厳な山に見えるのである。
モンターニャ号は港町カイサーを出港し、東大陸内海の沿岸を縫うように航海を続け、他国の港町を転々としていた。
そんなモンターニャ号の船員として乗り込んでいた「数名の乗組員」というのは、エスペーシア王国のお隣、コシーナ王国の人たちがふたりだけ……
船長いわく「エフクレフがいれば大抵なんとかなるから」だそうだ。
コシーナ王国からやってきたというおふたりはご夫婦で、名前はトンスイさんとレンゲさんという。
とっても変わった名前だけど、コシーナ王国では一般的な名前らしい。
トンスイさんは、船長より少し年上の40代前半くらいで、船長とはまた違った雰囲気をもつカッコイイおじさま、といったところ。
鶯色の髪は潔く角刈りにして、糸のように細い目をさらに細めて、時折打ち寄せる大波のように豪快に笑う。
まるで何かの職人のようだと思っていたら、本人によると「造船技師のはしくれ」だというから、本当に何かの職人さんだった。
トンスイさんは、エフクレフさんひとりでは手に負えない仕事を、本人いわく「ほんの少し」手伝うために船に乗り込んでいるという。
いつも無表情でぶっきらぼうなエフクレフさんが、柄にもなく大きな声で返事をしてキビキビ働くところをみると……
どうやら、トンスイさんはエフクレフさんに船のイロハを叩き込んだ「師匠」のような存在らしい。
そんなトンスイさんの奥様であるレンゲさんは、30代後半くらいのチャーミングなおばさま、といったところ。
薄紫色の髪はあごの下で揃えられ、今風に毛先を遊ばせているせいか、とても若々しく見える。
そんな彼女も目元は糸のように細く、旦那様のトンスイさんとそっくりで……
まさに、似たもの夫婦。
そんなレンゲさんは、この船の中では料理長を引き受けている。
モンターニャ号内の食糧の一切を取り仕切り、船長いわく「厨房ではだれよりもエライ人」なんだとか。
レンゲさんは「ちょっと大げさねぇ」なんて困ったように笑っていたけれど、それくらい、この船には欠かせない人なのだろう。
ご夫婦は、船長とはもうかれこれ20年来の付き合いだという。
20年……
そう、あの歴史の授業で習った出来事が起こった頃だ。
船長たちは、多くを語らなかった。
わたしが知りえた情報は、この貿易船「モンターニャ号」が彼らにとって2代目の船である、ということくらいだ。
なんだかもう、新参者のわたしには太刀打ちできないほどの、大きな友情というか絆というか……
そういうものがあるかんじなのだ。
そして……
そんな新参者のわたしに与えられた仕事はというと、レンゲさんが担当している料理の手伝いと、それ以外の仕事……
つまり、雑用全般。
メインは船内の掃除である。
常に潮風に煽られ、シオシオしている甲板を毎日同じ時間にガシガシ磨いたり……
船内の食堂や談話室といった、共用スペースを黙々と箒で掃いたり……
取り付けられた調度品を、自分の顔が映りこむくらい丁寧に拭き掃除したり……
毎日運動不足な日々を過ごしていた頃とは比べ物にならないほどの、とんでもない体力仕事の数々だ。
おかげで毎日ヘトヘトで、全身筋肉痛だけど……
でも……
不思議と心は、エスペーシア王国で冴えない「なんちゃって記者」だった頃より、何十倍も何百倍も充実していた。
それもそのはず……
なんてったって、私の退屈な日々を劇的に変えてくれた、大好きな船長と一緒なのだから。
大好きな船長と一緒……
けれど、ときどき考えてしまう。
わたしは、大好きな船長のことを、名前と呼び名の国以外、何も知らない。
今までどこで何をしていたのか、どうしてここにいるのか……
これから、何をするつもりなのか……
わたしはこのまま、何も知らないままでいいんだろうか……
つづく




