第17話「めんどくせぇぇぇ」
「マーサ……わたし、しばらくの間この国を離れることにしたの」
家に帰ってそう告げたとき、マーサは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに真面目な表情に戻って、
「そっか……ついて行くんだね」
なんて、訳知り顔でうんうんと頷いていた。
まだ早い太陽の光が、居間の冷たいテーブルをせっかちに照らしている。
そんなテーブルを挟んで、わたしたち姉妹は向かい合って座っていた。
マーサは、ミルクを入れすぎてぬるくなった紅茶をひと口飲んでから、口を開いた。
「昨日の夕方ぐらいだったかな。隠れ家がもぬけの殻になってたから、もういないんだなぁって思ってたとこ」
「えっ、知ってたの?」
「もちろん。あそこは稽古場への通り道だからね」
「……」
「教えてくれたっていいのに……って顔してないで、早く荷造りしたら? あたしも手伝うから」
紅茶を一息に飲み干したマーサは、衣装棚から姉妹兼用の大きな旅行カバンを引っ張り出すと、まるで自分の旅支度をするように荷物を詰め始めた。
「着替えとかは、あたしに任せて。舞台観劇の旅行で慣れてるからね。シーナは、自分の小説セットとか、大事なものをまとめてきていいよ」
「う、うん。ありがと……」
テキパキと動き回るマーサを前に、わたしは返事とお礼を言うので精一杯だった。
なんて頼りになる妹だろう。
これから先、彼女と離れて暮らすことになるけれど、わたしは上手くやっていけるだろうか……
なんて、考えている場合じゃない。
これからは自分でなんとか生きてみるんだから。
わたしは、いろいろとマーサに任せて、2階の自室へと向かった。
机に広げたままだったメモ帳や鉛筆を、仕事で使っていたカバンに入れる。
それから、つい最近書き上げた小説も紐で綴じて一緒に入れた。
もちろん、船長に読んでもらうためだ。
そして、もうひとつ……
忘れてはいけないものがある。
洗濯しておいた、ポモさんのハンカチだ。
『ボクは旅が好きです。だから、きっとまたこの国を訪れます』
……ふと、メモ帳に書き留めたポモさんの言葉を思い出す。
『シーナ。今のポモコの言葉は貴重です。メモを取っておいたほうがいい』
そう言っていたエフクレフさんの表情も含めて。
そのとき。
わたしの記憶の引き出しに仕舞われていた「何か」が、奥底からカタカタと音をたて始めた。
なんだろう……
今まで全然気がつかなかったけれど、その「何か」って、とんでもなく大事なことだったような……
………
……
…
「……あ」
頭の中で、カタカタ鳴っていた「何か」は、ジグソーパズルのピースに姿を変えた。
そして、正しい場所に収まって、カチリという音が響いた。
そうか……
そうだったんだ。
わたしの淹れた何の変哲もない、香りもしないコーヒーを、大事そうに啜るポモさん……
タイム編集長の「侯爵同士の仲が険悪で輸入品の制限もあったりするらしい」という言葉……
「……」
あわわ……
この国を離れる前に、わたしはポモさんの正体に気づいてしまった。
これは、特ダネだ!
わたしは、メモ帳からポモさんの言葉をメモした部分を切り取り、スカートのポケットに入れた。
よし……
これを手土産にしよう。
わたしは、城下町を出る前に香辛出版に立ち寄ることにしていた。
もちろん辞職のお願いをするためだけれど、突然の辞職に良い顔をする人なんていないだろう。
でも、この手土産があれば、わたしが急に辞めても大丈夫……だと思う。
「……それじゃ、行ってきます」
玄関で、大きな旅行カバンを手に提げる。
まるで仕事に行くときのような挨拶になってしまったのは、きっと無意識に「いつも通り」を心がけようとしているせいかもしれない。
そして、
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関まで見送りに来てくれたマーサも「いつも通り」の挨拶を返してくれた。
「手紙とか、暇なときでいいから書いてよ。ちゃんと読むから」
「……うん」
そこから、お互いに沈黙が続いた。
もう話すことは特にないのに、わたしは玄関から出られなかった。
まだ何か話し足りないような気がするのに、こんなとき、なんて言ったらいいのかわからない。
あ、そういえば。
「マーサの舞台って、本番もうすぐなんだっけ? 観に行けなくなっちゃって、ごめんね」
名残惜しくて、つい口から溢れ出た言葉たち。
もちろん、マーサの様子は豹変した。
「ほんとそれね! せっかく準主役だっていうのにさぁ! 気が変わったら、観に来てくれたっていいんだからね!」
そう言って、マーサは勢いよくドアを閉めた。
大丈夫。
いつになるかはわからないけれど、必ず帰ってくるから。
そうしたら、そのときは……
主役として笑顔で舞台に立つマーサに、会えたらいいな。
★彡☆彡★彡
正午の太陽が、わたしの頭頂部をジリジリと照らしている。
風は冷たいのに、頭は真夏のように暑かった。
毎日歩いた道を、いつものように歩いていく。
街路樹の緑、石畳の漆黒。
植え込みの土の匂いと、名前も知らない花の香り。
近くの公園から聞こえる、子どもたちの楽しそうな声。
何もかもが変わらない。
すべてがいつも通りの世界。
その中を黙々と歩くうち、わたしは香辛出版に到着していた。
今日はもともと午後からの出勤だったけれど、いつもよりは早い到着だった。
そのせいか、タイム編集長はまだ昼食後のキャラメルを楽しんでいた。
あああ、申し訳ない……
でも、わたしも急いでますので。
「編集長、突然で申し訳ないのですが……」
挨拶もそこそこに、机の上に辞表願を差し出す。
事務所には、編集長のほかにも何人か記者の方々がいたけれど、辞表願を出しているわたしには見向きもしない。
それほど、わたしは香辛出版の役には立っていなかったらしい。
「……理由を、聞かせてもらえるかな」
キャラメルを食べ終えた編集長は、穏やかな顔で机に身を乗り出した。
わたしは、何事も経験だと言う船長について行くため、しばらくこの国を離れる決意をしたと簡潔に説明した。
突拍子がないにもほどがある理由だろうに、編集長は終始にこやかな表情で聞いてくれていた。
そして、わたしが話し終えると、
「そうかそうか……ご両親にはもう伝えたのかい?」
と、最もなことを質問した。
「あっ……!」
そんな不意打ちに、わたしの口から用意してなかった言葉がこぼれ出た。
しまった、すっかり忘れていた。
いろいろと自由にさせてくれている、おおらかな両親とはいえ……
この香辛出版には、父が友人である編集長に頼み込んで入れてもらったわけだし、突然辞めたなんて知られたら……
あ〜……
めんどくせぇぇぇ。
何の連絡もなく旅立った場合の諸々を想像して、つい口が悪くなってしまった。
そんなわたしの心の声が聞こえたのか、タイム編集長はクスッと笑って、
「そうかそうか。お父様には、私から話しておくよ」
「えっ……」
いいんですか?
と、わたしが尋ねるより先に、編集長は優しい目をして口を開いた。
「シーナ君が自分の意志をはっきりと口にしたのは、これが初めてだからね。よかったじゃないか、自分が心からやりたいと思えることに出会えて」
「……」
「ずっと一緒に働いてきた私も、何か力になれることがあったら協力させてもらいたいんだ」
「……編しゅ」
「だから」
優しい言葉をかけてくれる編集長に、わたしは心からの感謝の言葉を述べようとしたのだけれど……
編集長は右手を上げて待ったをかけた。
はて、なんだろう……
見守っていると、編集長は机に置いてあった辞表願をわたしに向け直した。
「これは、このままじゃ受け取れないな」
……ええっ!?
つづく




