第38話「何が何でも、絶対に!!」
★彡☆彡★彡
「……」
それはまるで、私の心臓の鼓動のようでした。
「……」
聞き慣れたはずの壁掛け時計の秒針が、水を打ったように静まり返った室内に響き渡ります。
「……」
時刻は、ちょうど午後5時を過ぎたところでした。
気がつけば、窓から差し込む夕日も薄闇の中へと姿を隠しています。
「……」
パラパラと、手紙がテーブルの上に落ちました。
10枚の便箋が、あちこちに散らばります。
私はそれを拾い上げようとするのですが、なかなか拾えません。
指先が震えて、手に力が入らないのです。
「……」
ドクンドクンと響く心臓の鼓動に合わせて、自分の身体が大きく揺れているのがわかります。
「……ジュ、ジュ……ジュス、ティー、ヌ……!」
震える声に名前を呼ばれて、私は顔を上げました。
隣で一緒に手紙を読んでいたワヤちゃんが、わなわなと唇を震わせています。
ワヤちゃんは、焦点の定まらない目をこちらに向けながら、私の肩を抱きました。
本人は力を込めているのかもしれませんが、肩には何の感触もありません。
ワヤちゃんも私と同じように、手に力が入っていないようです。
それでも、一生懸命になって私の肩を前後に激しく揺らしていたのです。
「ジュスティーヌ……大変……大変……っ!!」
ワヤちゃんの揺さぶりが激しくなる中で、私は唇をかみ締めてコクコクと頷いていました。
……そうしていないと、大声で泣き出してしまいそうだったからです。
この広い世界の中で、私を探し続けている人がいたなんて。
おそらく海に落ちたであろう私のことを、諦めずにいた人がいたなんて。
しかも「人たち」……
そんな人が、たくさんいたなんて。
その人たちが、みんな私のことを思ってくれていたなんて。
「……」
私はまだ、自分の身に何が起こったのか思い出せずにいるのに……
私に会いたいと言ってくれている人は、私が生きていると信じ続けてくれていた。
そしてついに、私を見つけてくれた……!
ああ……いったい、どんな人たちなのでしょう。
私も、早く会ってみたい。
その人たちに会えば、私は何か思い出せるのかもしれません。
いや……そうじゃない、そうじゃなかった。
思い出さなきゃ!!
何が何でも、絶対に!!
「すごい……すごいすごいすごいっ! とんでもないことになってきちゃった! わあ、どうしよう……! どうしようね! ジュスティーヌ!」
「うん……うん……っ!」
「ジュスティーヌを知っている人……ジュスティーヌに会いたい人……! その人が、こっちに向かってるなんて……! 早く会えるといいねっ!!」
ワヤちゃんは興奮に頬を染めて、潤んだ瞳で私を見つめていました。
それはまるで、私本人よりも感動しているように見えます。
おかげで、なんだか落ち着くことができました。
ああ、ワヤちゃんがいてくれて良かった。
私より私のことで感動してくれる人がいて、本当に良かった。
「ありがとう、ワヤちゃん」
大きく頷いてみせると、ワヤちゃんは一瞬目を丸くして「あたしの手柄ではないけどね」と、いたずらっぽく笑いました。
ワヤちゃんは、自分がどれだけ私に安心感を与えているか、わかっていないようです。
まあ、そこがワヤちゃんの良いところなのですが。
そんなワヤちゃんは、ふと手紙の入っていた封筒を手に取りました。
「いやぁ、相変わらず、ドンパの書く字って話し言葉のまんまだよねぇ……って、うわっ! この手紙、速達指定だ!」
「速達指定?」
私が首を傾げると、ワヤちゃんは鼻息荒く説明してくれました。
「うん。普通の手紙の倍以上の金額がかかるけど、普通なら一週間かかるところを3日で届けてくれる手紙のことよ。きっと、そのダルセーニョって紳士が代金を支払ってくれたんでしょうね」
「ほえー」
「ああ、とんでもないことになってきたわねぇ!」
ワヤちゃんのオバサン的な反応に、私はまたしても「ほえー」と相槌を打っていました。
それしか口にできないほど、驚いていたのです。
ワヤちゃんは、私が拾えずにいた手紙を拾い上げて、封筒の中に丁寧に戻しながら、
「ドンパは今頃、船の上かぁ……この手紙のこと、ナンモさんとおじさんに知らせたら、びっくりして腰抜かすでしょうねぇ」
そう言って、ニヤリと笑いました。
私も、ふたりに悪いと思いつつも「そうね」と微笑みました。
……胸に手を当ててみます。
まだ少し騒がしい心臓に「落ち着きなさい」と念を送って、私は大きく深呼吸を繰り返しました。
ふう……ようやく、いつも通りの私に戻れそうです。
ああ、黙っていても口元が緩んできます。
こんなに嬉しかったのは、記憶を無くしてから初めてかもしれません。
ありがとう。
私に会いたいと言ってくれた人。
きっとあなたが、私の大好きな人、なのでしょうね。
……きっときっと、あなたのことを思い出してみせますから。
だから、どうか……
私があなたのことをわからなくても、見捨てたりしないで。
待っていて。
必ず……必ず思い出しますから。
胸に当てていた手に決意を込め、私は強く拳を握ったのでした。
……翌日。
店に帰ってきたナンモさんと、いつも通りお昼ご飯を食べに来たシタッケさんは、ドンパ君からの手紙を読んで涙を流して喜んでくれました。
ふたり揃って仲良く床に座って肩を抱き合う姿は、なんだかとても微笑ましかったです。
床に座っていたのは、ふたりとも腰が抜けて立てなくなってしまったからなのですが……
まさか、ワヤちゃんが言ったことが本当になるなんて、思ってもみませんでした。
というか、このことにいちばん驚いていたのがワヤちゃんだったのが、私は面白くて仕方がありませんでした。
でも本当に腰を抜かして歩けなくなるなんて、ふたりとも大げさだなぁ……
と、思っていたのですが、同じ手紙を読んだウルカス先生が目元を押さえていたくらいですから、ふたりの反応は当り前だったのかもしれません。
★彡☆彡★彡
それから、数日経ったある日の晩。
私は、不思議な夢を見ました。
小型の帆船に乗っている夢です。
いったいなぜ帆船に乗っているのか、どこへ向かっているのか……
何もわかりません。
これはもしかすると、記憶をなくすきっかけになった出来事を夢に見ているのでは……
と思いましたが、やはりよくわからないのでした。
大きな船室の窓辺から、私は外の景色を眺めていました。
ここがどこかもわかりませんが、波立つ水平線の先には、大きく輝く夕日が見えます。
夕日が見える、ということは……
この船はどうやら、どこかの港に停泊しているようです。
見える景色からいって、おそらく東大陸側の港かと思われますが……
私にわかるのは、どうやらここまでのようです。
それにしても、なんて美しい光景でしょう……!
いつまででも見ていたいと思ったのですが、残念ながら夕日はあっという間に海の中へと沈んで、すぐに見えなくなってしまいました。
水平線は、ほんのり朱鷺色に染まっています。
胸が締め付けられるような、薄暮の空です。
ふと気がつくと、私のいる船室の中も薄暗くなっています。
窓ガラスには、自分の姿が映っていました。
お店のステージに立つときと同じような夜会巻きの髪に、目も冴えるような真っ赤なドレスを着て、その場にぼんやりと突っ立っているようです。
はあ、いつもと違う船の中にいるのに、いつもと同じ格好なんて、変わり映えしなくてつまらない。
やっぱり夢って不思議ね……
と思ったのですが、なぜだか違和感が拭えません。
よーく見てみて、気づきました。
どうやら、いつもの格好とは少しずつ違っているようです。
つづく




