第26話「だんだん速く」
手にした楽譜をパラパラとめくってみると、そこには先日歌いあげた歌詞が書かれていました。
ああ、あの歌の楽譜で間違いないでしょう。
曲名を確認してみると『いつでも歌が』と書かれています。
ドンパ君が言っていた通り、私が必死に思い出した曲名が正解だったようです。
「おれは楽譜のことはよくわからないから、見ても何が書いてあるやらさっぱりで何にも言えないんすけど……何か思い出せそうっすか……?」
「……」
ドンパ君の問いかけに答えようと、私はさらにページをめくってみました。
そのとき、ふと手が止まりました。
それは……
「アッチェレランド……」
いわゆる、音楽記号と呼ばれている場所です。
「……? アッチェ、レ……?」
耳慣れない言葉だったためでしょう、ドンパ君が首を傾げているのが楽譜越しに見えます。
ワヤちゃんはというと、片手を上げて、
「あ、待ってね、えーっとね……わかった! アッチェレランドって『だんだん速く』って意味よ! 確かそう!」
「おお! さすが姐さん!」
「へへへ、これでも一応、この店の踊り子だもの。楽譜ぐらい、ちょちょいと読めちゃうわけよ」
ふたりの声は、もちろん私の耳にも届いています。
でも、私はもう、目の前の楽譜から顔を上げることができなかったのです。
「で……ジュスティーヌ。その『だんだん速く』っていう音楽記号がどうかしたの?」
「……」
「? ジュスティーヌ??」
決してワヤちゃんの声が耳に届いていないわけではありません。
それなのに、私は質問に答えることなく、次々と楽譜に記された音楽記号を指さしていったのです。
「アッラルガンド、リタルダンド、コーダ、フェルマータ……」
「ジュスティーヌ……?」
そこでようやくワヤちゃんの心配そうな声が聞こえて、私は顔を上げました。
ワヤちゃんとドンパ君が、眉を八の字にして私の顔を覗き込んでいます。
どうやら私は、いつの間にか自分の世界に入り込んだまま抜け出せなくなってしまっていたようです。
「あっ……ご、ごめんなさい。ちょっと、何か思い出せそうになって、周りが見えてなかったみたい……」
「えっ! それって、懐かしい感じ? もしかして、歌ってた自分を思い出したってこと!?」
ワヤちゃんは期待に満ちた眼差しを向けてきました。
しかし、残念ながら少し違うのです。
「えっと……そうじゃなくて……この音楽記号が、ちょっと懐かしい気がして……」
「え? 歌の歌詞とか音とか、そういうのじゃなくて?」
目をぱちくりさせるワヤちゃんに、私はいたって真剣に頷いてみせました。
どうして歌の歌詞や音ではなく、飾りのようにつけられた音楽記号のほうに懐かしさを感じるのか……
この謎が解ければ、何か思い出せるような気がするのですが……
はて、さて……
私がワヤちゃんとドンパ君の前で考え込んでいると、
「はーい! お待たせしましたー! ドンパ、ミニパフェどーぞ!」
台所から、ナンモさんが意気揚々と戻ってきました。
手にしたミニパフェはというと、ミニパフェ用の小鉢にもられているものの、盛られたアイスクリームや生クリームやカラフルな果物は溢れんばかりで、どう見ても「大盛」です。
「わあっ! おれ、ミニって言いましたよね??」
「ミニパフェの大盛! 大盛のところは、わたしからのサービス」
「え……ええっ」
「あら、嫌なら食べちゃうけど?」
「い、いやいや! 食べますって! ちょっとびっくりしただけっす! 嬉しいに決まってるじゃないっすか!」
こう見えて甘い物好きのドンパ君は、慌てふためきつつも、今にも零れ落ちそうな生クリームをスプーンに山盛りすくって口に入れました。
……その至福の表情を見ていると、なんだかこちらまでパフェが食べたくなってきます。
「……それで? ジュスティーヌは、何か思い出したの?」
私たちのテーブルにつき、ナンモさんは身を乗り出して楽譜を覗き込みました。
そんなナンモさんに、私は楽譜に書かれた音楽記号が気になったことを説明しました。
すると、楽譜を見ながら話に耳を傾けていたナンモさんが顔を上げて、
「音楽記号って、人名として使っている国もあるじゃない? ほら、その歌が流行ったっていうソニード王国の人たちの名前が音楽記号だった、なんてこともあるかもしれないし」
と言ったのです。
……それは、まさしく私が探し求めていた答えでした。
「なるほど……!」
楽譜の音楽記号に反応したのは、それが人の名前だったから。
そう考えると、ほんの少しですが謎が解けます。
音楽記号ではなく、人の名前……
きっと、私にとって身近な人たちの名前なのでしょう。
ただ、どういう人たちだったかはわかりません。
家族か友人か、それとも恋人か……
具体的な答えは見えてはこないのでした。
それでも、人の名前かもしれないという情報は、とてもありがたいものです。
ワヤちゃんはナンモさんに「すごーい!」と尊敬の眼差しを向けています。
ナンモさんはというと「昔読んだ本に書いてあった気がしてね。まあ、あまり覚えていないから確かな情報とは限らないけど」と困ったように微笑みました。
ナンモさんのこの知識は、きっと北西部でお嬢様として過ごしていた頃のものなのでしょう。
人生、何事にも無駄はないということがよくわかります。
そして、ナンモさんを褒め称えるワヤちゃんに負けじと、ドンパ君も口を開きました。
「ナンモさん、お手柄っすよ! おかげで、この音楽記号ってやつがソニード王国での人の名前かもしれないってわかったんすから!」
「あー、そうだといいんだけどね」
「そうっす! 絶対そうっすよ!」
ドンパ君は、いつの間にかミニパフェの大盛を平らげていて、口の端にクリームをつけたままカバンからノートを取りだし、さっそく先ほどの人名を書き込んでいます。
「えっと確か……『アッチェレランド、アッラルガンド、リタルダンド、コーダ、フェルマータ』でしたよね?」
確認するドンパ君に、私は頷きながら自分の口の端を指さしました。
ドンパ君はその意味に気がついたらしく、はにかみながら指でクリームを拭ってペロッと舐めています。
「人の名前かぁ……いったい、ジュスティーヌとどんな関係の人たちなんだろう」
ワヤちゃんの呟きによって、その場には賛同の空気が漂います。
「家族、友達……もしかして、一緒に歌っていた仲間、とか?」
独り言のように呟きながら私の顔を覗き込みますが、私は「わからない」と首を横に振るばかりでした。
それらの名前からは、とても懐かしい想い出のようなものを感じるのですが……
その名前の人たちが私にとってどんな人たちなのか、いろいろ考えてみてもよくわからないのです。
「……」
ほんの少し進展を見せた私の記憶ですが、どうやらここで限界のようです。
店内が沈んだ空気に包まれ始めた、そのとき。
「おおーい、ドンパやーい。ここにいるって職場の奴に聞いたぞー」
店の扉がガラガラと開いて、シタッケさんが現れました。
春先にしては、まだ寒そうな半袖姿です。
そこから見える筋骨隆々の腕は丸太のようで、まだまだ若い者には負けんと言いたげです。
ドンパ君は「あ、師匠! ちょうどいいところに!」と声を上げて駆け寄ると、両手を差し出して「楽譜代と宿泊費、お願いします」とにっこり笑いました。
シタッケさんは一瞬ぽかんとしたかと思うと、すぐに「お前なぁ」と苦く笑い、
「そういうのは、本人がいる前でする話じゃねぇだろうが」
と、ドンパ君にデコピンをお見舞いしています。
ああ、私のことなら全然気にしなくていいのに……
つづく




