第23話「……へ? 歌姫?」
「おお~良い眺めだねぇ。ここなら歌声だけじゃなくて、何もかも独占てきる感じがしていいなぁ」
眼下には、丸テーブルに頬杖をついてステージを覗き込むシタッケさんが見えます。
高いステージのためか、店内がすべて見渡せるのです。
右手にはカウンター席があって、そこには期待の眼差しを向けるワヤちゃんとドンパ君、優しい笑顔のナンモさんがいます。
そして、ナンモさんの後ろにも、もうひとり……
え? もうひとり?
私は思わず目の前のテーブル席を確認しましたが、そこにはシタッケさんがご満悦で腰掛けています。
「……?」
カウンター席の入口に近い席に佇む、もうひとりの人影……
かろうじて人だとわかるものの、顔だけはよく見えません。
その黒い影の前には、いつの間にだれが用意したのか、飲みかけのウイスキーグラスが置かれています。
そして、その近くには、黄色のバラの一輪挿し。
ああ、これには見覚えがあります。
久しぶりに見ました、初めてここに来て以来なので、2回目です。
それにしても、あの黒い影……
あんなにもはっきりと見えているのに、どうして顔だけ……
靄がかかったように……
……
「ジュスティーヌさんっ!!」
すっと目の前が真っ暗になって、気がつくと私はステージの真ん中に座り込んでいました。
後ろにはシタッケさんがいて、私の肩を抱いてくれています。
あれ、いつの間に……
どうやら私は、ステージで立ちくらみを起こして危うく倒れそうになったところを抱きとめてもらったようです。
そんな急に倒れかけた私を見て、カウンター席の皆さんは私が貧血を起こしたと思ったのでしょう。
ドンパ君は「ウルカス先生呼んでくるっすー!」と光の速さで店から飛び出していき、ナンモさんは「何か温まるもの用意するね!」と台所へ駆け込み、ワヤちゃんは「羽織るもの持ってくる! おじさん、ちゃんと見ててよ!」と、ステージ裏の自室へ続く廊下を駆けていきました。
「あああ、すまんかった。俺が『ちょっと立ってみてくれ』なんて気軽に言ったばかりに……ジュスティーヌさん、大丈夫かい?」
後ろから聞こえてくるシタッケさんの声に、座り込んだままの私は胸元を押さえつつ頷きました。
もともと貧血で倒れたわけではないので、身体に不調はありません。
ただ……
先ほど見えた黒い影のことが気になります。
人気のなくなったカウンター席に目を向けたものの、もう黒い影は見えませんでした。
テーブルの一輪挿しも、ウイスキーグラスも消えています。
もともとが幻のようなものですから、仕方ないといえば仕方ないのですが……
あの黒い影は、いったい何だったのでしょう。
人の影であることは、はっきりとわかりました。
けれども顔や表情はおぼろげで、もちろん何を考えているのかなんて、わかるわけもなく……
けれども不思議なことに、怖いとは思いませんでした。
それどころか、なんだか懐かしい感じすらしたのです。
どうしてと聞かれても困ってしまうのですが……
とにかく、優しそうな人であることは疑いようがありません。
本当は、もっともっとこの人のことを思い出したいのですが、残念ながら思った通りにはいかないようです。
なんというか……思い出したい記憶が見えているのに、目の前に大きな壁があって、記憶に近づけない感じです。
要するに、思い出そうとすると何かに邪魔されるというわけで……
この「何か」というのは、おそらく……
私にとって思い出したくない記憶、のような気がします。
ああ、残念です。
そんな怖い記憶のせいで、すべて思い出せないなんて。
だって、あの人はきっと……
「ジュスティーヌさん、具合はどうだい?」
ふと背後から聞こえてきた声に、私ははっと我に返りました。
そうでした、私はずっとシタッケさんに支えてもらっていたのです。
深呼吸のおかげか、先ほどよりも落ち着いた私は、シタッケさんにお礼を言って立ち上がりました。
シタッケさんは私が元気だとわかって安心してくれるかと思いきや、残念そうに「部屋まで運んであげようと思ってたのに」と呟きました。
……まったく。
私は、ため息を飲み込みつつ微笑みました。
「子どもじゃないんですから」
「え、あ、あー……まあ、そうだよな。ははは」
シタッケさんは私から目を逸らし、軽く咳払いした後で「ん、大丈夫そうで安心したよ」と笑ってくれました。
ふう……あまり心配をかけずにすんで、こちらも安心です。
何事も自分のことのように心配してくれる人がいるというのは、何よりもありがたいことです。
と、そこへワヤちゃんが戻ってきました。
手には私の肩掛けがあります。
ワヤちゃんは珍しく、シタッケさんに「ジュスティーヌのこと、見ててくれてありがとね」と声をかけると、私に肩掛けを羽織らせて、テーブル席へと連れて行ってくれたのでした。
「大丈夫? 寒くない?」
テーブル席に着いてすぐ尋ねられて、私はようやく自分が貧血で倒れたことになっていることを思い出しました。
そうでした、ちゃんと説明しなくては。
私は、ワヤちゃんとシタッケさんに、心配をかけたことを謝りつつ、何か思い出しそうになったことを伝えました。
すると、ふたりの顔色がみるみるうちに変わっていき、
「ええーっ!? そうなの!?」
ワヤちゃんの絶叫が店内に響き渡りました。
これには、台所にいたナンモさんも「今度は何!?」と、ホットミルクの入ったマグカップを片手に飛び出してくるほどでした。
そして、そんなナンモさんが私たちのテーブルにつくやいなや、シタッケさんが、
「おいおいジュスティーヌさん! そういうことは、立ち上がる前に教えておくれよ!」
そう言って、いつの間にか私の隣に座って、私の顔を覗き込みました。
濃い紫色の透き通った瞳に見つめられて少し照れくさくなってきた頃、シタッケさんは「ああ……」と感嘆の声を上げて胸元を押さえました。
「やっぱりなぁ……こんなに美人で、その上に歌までびっくりするほど上手ときてるんだ。きっと、どこかで今みたいにステージに上がって、歌を歌う生活をしていたんだろうさ。で、そのときの何かの記憶を思い出しそうになったんじゃないかねぇ」
「いいですね、それ的を射ているかも……でも美人は余計です」
「えーそんなぁ」
項垂れたシタッケさんに微笑んでいると、またしてもワヤちゃんがシタッケさんの肩を持って「確かに、おじさんの言う通りかもねぇ」と呟きました。
「あたしも、ジュスティーヌは飲食店で働きながらステージで歌っていたんだと思う。まあ、そんな『なんもなんも』みたいな造りのお店なんて、そうそうないとは思うけどね」
「だよなぁ、ワヤもそう思うよなぁ……あ、じゃあナンモさんの意見を聞かせてくれよ」
と、そこでシタッケさんに話を振られたナンモさんは、私にホットミルクを差し出しながら、ぽつりと呟きました。
「そうねぇ……きっと、どこかの国の有名な歌姫ってやつだったのかもしれないね」
……へ? 歌姫?
歌姫って、えっと……
だれもが認めるような素晴らしい歌声の持ち主で、聴く人すべての心を魅了するような、美しい女性のことですよね?
で、私がその歌姫……
って、いやいやいや! ないないない!
私は慌てて口を挟もうとしたのですが、
「ナンモさん! すごい! もうそれしか考えられない!」
「ジュスティーヌさんが、歌姫……! なんてピッタリな表現なんだ!」
ワヤちゃんとシタッケさんが、すでにナンモさんへ惜しみない賛辞を贈っていたのでした。
まったく……
調子が良すぎるのも困りものです。
つづく




