第12話「不安が心に棲みついていた」
災難でもいいから起こってほしい。
この、平凡でありきたりな毎日から抜け出せるなら。
……そんなことを考えていたわたしは、大馬鹿者だった。
これを災難と呼んでいいのかはわからないけれど、自分の身にこんなに辛いことが起こるなんて、思ってもみなかった。
確かにわたしは、人生に刺激を求めていた。
思い描いていたものとは少し違うけれど、そのおかげで日常は華やかになった。
この毎日は、永遠だと思っていた。
永遠なんて存在しないって、そんな読み書きよりも簡単なことにどうして気がつかなかったんだろう。
始まりは奇跡だったのに、終わりがこんなに残酷だなんて聞いていない。
こんなことなら、初めから何も起こらなければよかったんだ。
そうすれば……
こんなに悲しい思いをせずにすんだはずなんだから。
わたしが船長に小説を見せなければ……
船長とわたしが出会わなければ……
わたしが香辛出版に勤めていなければ……
わたしが……
わたしが、この世界に生まれてこなければ……
…………
……
規模が大きすぎることは、自分でもよくわかっている。
それでも、頭が考えることをやめてくれない。
……この世界から、消えてしまいたかった。
どんなに楽しい日々にも終わりがあって、その終わりが悲しみしかもたらさないのなら、生きている意味なんてないじゃないか。
でも……
わたしには、自ら命を絶つ勇気もなく……
それが、幸か不幸かもわからないのだった。
★彡☆彡★彡
どうやって家まで帰ってきたのか、記憶がない。
気がつけばベッドに潜り込んでいて、もちろん風邪を引いた。
道端でクミンちゃんとすれ違ったような気もするし、帰ってきたときマーサに出迎えられたような気もする。
ひどくぼんやりしているのは、風邪を引いたせいだということにしておこう。
午後から眠り続けて、日頃の寝不足も祟ったのだろう、目が覚めたのは翌日の朝だった。
ぐっすり眠ったせいか、気分はだいぶ良くなっていた。
家にいたのかわからないマーサは、今日も舞台の稽古らしく朝からいなかった。
ひとりで良かった……
これなら、泣いていたって心配されない。
昨日のことを、ほんの少し思い出すだけで涙が溢れてくる。
不安が心に棲みついていた。
夏の入道雲のように膨らんで、涙という名の雨を降らせる。
止まない雨はない、なんて言葉が嘘のように、わたしの涙はとどまることを知らなかった。
その涙が、自分は何をやってもダメなんだ、何もうまくいくわけがない、という後ろ向きな気持ちを連れて来て、またとめどなく流れていく。
わたしは、心のどこかで期待していたのだろう。
叶う見込みのない夢を追いかける、ちっぽけなわたしを応援してくれる船長のことを。
船長なら、わたしがどんな文章を書いても褒めてくれると思っていた。
以前のように「いいものを読ませてもらった、ありがとう」と、そう声をかけてくれるなんて当たり前のように考えていた。
ああ、もう。
ほんとバカだな、わたし。
そんなの……
嘘だったら、もっと悲しくなるに決まっているのに。
これでよかったんだと自分を納得させたいのに、そう考えると余計に涙は止まらなくなる。
……こうして、ベッドの中で泣き暮らす日々が数日ほど続いた。
小説の原稿は、マーサに頼んで香辛出版に届けてもらっていた。
もちろん、病欠中ということにして。
夏風邪の治りが遅いことに、これほど感謝したことはない。
マーサとは、風邪が伝染ると理由をつけて、ドア越しに会話するだけでいい。
風邪という理由のおかげで、多少声がヘンでも不思議に思われなくて助かった。
こうして、泣き疲れて眠り……
ある日わたしは、空腹で目が覚めた。
先日までは水すら喉を通らない状態だったので、何か食べたくなるなんて久しぶりの感覚だった。
まぶたは開いているのが不思議なくらい腫れぼったくなって重く、鼻は鼻水をかみすぎたせいでヒリヒリと痛む。
鏡を見なくてもわかる。
わたし、今とんでもない顔してる。
まだまだ家からは出られそうにないし、だれにも会えそうにない。
とりあえず、空腹は我慢できないので、家にあるものでお腹に優しそうなものを食べることにした。
台所へ向かおうと居間を横切ると、玄関のほうから音がした。
玄関のドアを叩く音だ。
どうやら、お客さんらしい。
時間の感覚が無くなっているわたしでも、朝早いことはわかる。
こんな時間に、いったいだれだろう。
父母は「たまには帰って来い」と言うばかりで、ここへは来たことがない。
だから、マーサのお友達かだれかが訪ねてきたのだろう。
ひどい顔だけど、仕方ない。
わたしは、風邪を引いていることにして押し切ることにした。
マーサは舞台の稽古に行ってて留守なの。
せっかく来てくれたのに、ごめんね。
そう伝えようと、ドアの把手に手をかける。
……マーサの友達なら、今頃マーサと一緒に舞台の稽古中だということに気がついたのは、ドアを引き開けてからだった。
「……シーナ」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある穏やかな声。
名前を呼ばれたいと思った声……
そして、今は聞きたくない声。
「……」
顔を上げると、木賊色のキレイな瞳と目が合った。
わたしの小説を読んでもらいたいと思った瞳……
そして、今は会いたくない瞳。
「シーナ、大丈夫か……?」
その心配そうな声が耳に届いた途端、わたしは反射的にドアを閉めて鍵をかけていた。
……もうすっかり枯れ果てたと思っていた涙が、駆け抜けるように頬を伝う。
鼻をすすると、またドアが叩かれた。
船長の声が、わたしの乾いた心に染み込んでくる。
「この前は、ついきつく当たってしまった。泣かせるつもりはなかったんだ」
「……」
わたしは、ドアの前に突っ立ったまま、ただじっとドアの把手を見つめていた。
何も言えなかった……
言いたいことは、山ほどあるはずなのに。
船長……
悪いのは、打たれ弱いわたしなんです。
自分に似合わない、カタイ文章を書いてしまったわたしなんです。
そうは思っていても、言葉は口からは出てこない。
出てくるのは、目から涙と鼻から鼻水ばかり。
ごめんなさい、船長……
今はまだ……
あなたに会うための勇気が足りません。
「……」
わたしが何も話せないでいる間、船長も何も言わずにドアの前に佇んでいるようだった。
ドアは閉めてしまったし、わたしは何も話せそうにないのに、船長はそこを離れない。
どうやら、まだ何か用事があるらしい。
案の定しばしの沈黙の後、ドアの向こうからガサガサという音が聞こえてきた。
ガサガサ……何かの紙袋だろうか。
ガサガサ音は、わたしの頭の高さから下へ下へと移動していき、やがて床の上でカタタンと音を立てた。
カタタン……これはたぶん、ガラスの瓶がぶつかり合う音だ。
耳をすましていると、ついに船長が口を開いた。
「香辛出版に寄ったとき、シーナが風邪を引いていると聞いたから、見舞いに来たんだ。近くでプリンを買ってきたんだが、良ければ妹とふたりで食べてくれ」
なるほど、プリンでしたか。
先ほどのカタタンは瓶入りプリンがぶつかり合う音で、ガサガサはその瓶入りプリンが入っている紙袋の音だ。
お見舞いに、プリン……
しかも、元気いっぱいで今現在舞台の稽古中で家にいないマーサの分まで……
「……」
止まりかけていた涙と鼻水が、またジワジワと溢れだしてきた。
船長……
そんなに優しくしないでください。
全部、わたしが悪いんですから。
「……」
しばらくして、船長はドアの前を離れていった。
コツコツと、足音が小さくなっていく。
と……
その足音が、ピタリと止まった。
つづく




