第18話「私は、ここにいます」
ワヤちゃんはというと、そんなふたりとは違って目を見開き、私を見つめていました。
その顔には「楽しくて仕方がない」と書かれています。
しかし、
「……どんな願い事だったか、覚えてる?」
その表情には似合わない質問は、とても静かにワヤちゃんの口から流れ出て、私の耳へと届きました。
どんな願い事……
うーん……
私は、もう一度記憶の端を捕まえようと目を閉じ、意識を集中させました。
しかし。
「そんなもの、思い出す必要なんざないさ。みんなわかってんだからよ」
目を開けると、シタッケさんが私の顔を覗き込んでいました。
そして、穏やかに口角を上げると、
「ジュスティーヌさんの願い事は……『大好きの君』と会えますように、だろう?」
と言って、得意げに片目をつむってみせたのでした。
……なるほど、確かにその通りかもしれません。
さすがは私のファン、シタッケさん。
私は納得しかけたのですが、そこですかさずワヤちゃんが「いやいやいや」とツッコみます。
「ちょっとちょっと。それは、今このときの願い事でしょう。そういうことを聞いてるんじゃないんだってば」
ワヤちゃんの呆れたような一言に、シタッケさんは「ワヤには言ってませーん」と舌を出しました。
まるで、大人を馬鹿にする憎たらしいガキ大将のようです。
そんな、どこまでも子どもっぽいシタッケさんですが、私のほうを向くと急に真面目な顔に戻って、
「で……どう思う? 我が愛しのジュスティーヌさん」
と、尋ねてきました。
我が愛しのって……
まったく、とても良い声なのに、余計な装飾がついていてとても残念な感じになってしまっています。
って、そんなことは今は関係ないですね。
さて……少し考えてみましょう。
「……」
私の昔の願い事……
あの日、あのとき願ったこと……
いったい、どんな願い事だったのでしょう……
「……」
……ああ、ダメです。
やっぱり思い出せません。
どうしても、ダメなのです。
なぜなら、
『ジュスティーヌさんの願い事は……「大好きの君」と会えますように、だろう?』
必死になって思い出そうとすればするほど、先ほどのシタッケさんの言葉が脳内にちらつくからです。
違う違う、これとは別の、あのときの……
と、そこまで考えてふと気がつきました。
待てよ……?
それって、つまり……
「あの……詳しいことは何も思い出せないんですけど……たぶん、シタッケさんの言う通りだと思います。私のあのときの願い事も『大好きの君』と会えますように、だったんじゃないかと……」
そう答えると、シタッケさんは「ほら、俺の言った通り」と微笑みました。
それは半年前の、初めて会ったときの表情と同じもので……
私は、シタッケさんのこの顔がけっこう好きなのです。
そんなわけで私も嬉しくなって「ふふっ」と頷くと、シタッケさんは胸に手を当てて、
「ああっ、その眩しすぎる笑顔、たまらんなあ……! なんだかこっちまで嬉しくなってくるぜ。ジュスティーヌさん、ありがとう」
なんて言ってきたのです。
ただちょっと笑っただけで「ありがとう」とは……
しかも、耳に心地良い素晴らしい声で……!
あああ……
すっかり慣れたと思っていたシタッケさんの流れる水のようなお世辞攻撃ですが、私はまだまだ良い声の「ありがとう」には弱いようです。
なんだかドキドキしてきましたが、そんな火照った身体を冷ますように一際冷たい風が私の肩を撫でていき……
「っくしゅ」
たまらずくしゃみが出てしまいました。
そんな小さなくしゃみに慌てたのは、ちょっと心配性のワヤちゃんでした。
「あー! もう! 何やってんのよ! 寒がらせて!」
「あああ、すまん! 俺が見送りを喜んだばっかりに! これはもう、一緒に店内に戻るしか」
「いやもうおじさんたちは帰りなさい!」
ワヤちゃんは、暑いのか寒いのかよくわからない私を店の中へ押し込むと、そのまま早口の棒読みで「じゃーねーバイバーイ」と告げて扉をピシャっと閉めてしまいました。
扉の向こうからは、締め出されてもなお楽しそうなシタッケさんの「ジュスティーヌさーん、また明日―」が聞こえてきます。
そして、ドンパ君に「いやぁ今日も美しかったなぁ」なんて話しながら歩いていったらしく、だんだんとふたりの足音が遠のいていくのがわかりました。
「まったく、あのおじさんってば、だれにでも優しくて、しかも良い声なんだから!」
ワヤちゃんは扉の前で荒々しくまくし立てていましたが、どう聞いても褒めているようにしか聞こえません。
私は、なんだか面白くなってきてしまって、いつまでもクスクスと笑っていました。
なんだかんだ言い合いながらも、みんな仲良しです。
この人たちと一緒に暮らして半年になる私は、まだまだ知らないことばかりですが……
いつか、この仲間に入れてもらえるようになるのでしょうか。
それとも……
「……ねえ、ジュスティーヌ」
いつの間にかテーブル席に戻ったワヤちゃんが、プリンの空き瓶を片付けながら、まるで独り言のように私の名前を呼びました。
私はワヤちゃんのすぐ隣に立っていましたが、ワヤちゃんは手元の空き瓶を見つめたまま口を開きました。
……ぽろぽろと、言葉が溢れだします。
「もしも……もしも奇跡みたいなことが起こって、ジュスティーヌの『大好きの君』が、ジュスティーヌの居場所を突き止めてここまで迎えに来たら……そのときは、ジュスティーヌは『大好きの君』と一緒に、すぐにここから自分たちの住んでいる国へ出発しちゃうのかな……」
そこでようやく顔を上げ、ワヤちゃんはじっと私を見つめました。
いつもは頼りになるお姉さんのような表情のワヤちゃんは、今だけは別人のように見えます。
行かないで。
ずっと、ここにいて。
そう訴える子どものように。
「……」
ワヤちゃん、さっきまでの威勢はどうしたの。
私は、咄嗟には何も答えられませんでした。
もちろん私は、私という人間を知っている人には、ぜひ会ってみたいと思っています。
しかし……
それと同時に、私を助けて世話をしてくれた人たちと別れることになってしまうのは、とても寂しいと思っているのです。
……今のところ、そんな日は来そうにないけれど、でも絶対に来ないとは言い切れません。
私は、ほんの少し考えてから、一言ずつ噛みしめるように言葉を紡いでいきました。
「大丈夫。もしも『大好きの君』が私を迎えに来ても、私は自分の記憶が完全に戻るまで、ここを離れるつもりはないから。迎えに来てくれた『大好きの君』と一緒に、しばらくはここで暮らすつもり……です」
そう告げると、心配そうだったワヤちゃんの表情がぱっと明るくなりました。
「ああ、そっか、そうだよね……! まあ、そのうち帰ることにはなるのかもしれないけど、今のまま……記憶がないまま帰るわけには、いかないもんね!」
ワヤちゃんは、胸に手を当てて大きく深呼吸すると、プリンの空き瓶を手に台所へと歩いていきました。
空き瓶を洗う水音に混じって、陽気な鼻歌も聞こえてきます。
……不思議なこともあるものです。
記憶のない私が、こうして必要とされる日がくるなんて……
私の『大好きの君』か……
いったい今どこで、何をしているのかしら。
私のこと、探してくれていたらいいな……
もしもそうなら、私は少しも力になれていなくて、心苦しいけれど。
でも、そんなことは会ってから、いくらでも謝ればいい。
今は、会えるかどうかが問題なのだから。
窓の外に広がる夜空を見上げました。
私の『大好きの君』へ……
私は、ここにいます。
そう告げるように。
つづく




