第11話「涙が溢れて止まらない」
エフクレフさんに連れられて船長の隠れ家を訪ねると、船長はすでに客間にいた。
そして、テーブルに置かれた雑誌を前に苦い顔をしていた。
それとなく雑誌を覗き込んでみると、それは紛れもなく『週刊さんぱんち』の今週号だった。
ああ、やっぱり。
わたしの小説、変なところがあったり、直したりしたほうがいいところがあるみたいだ。
不安を隠すように雑誌を見つめていると、
「船長。連れてきましたよ」
エフクレフさんが、物を放るような口調で声をかけた。
すると、雑誌から視線を上げた、苦い顔の船長と目が合った。
「ああ……いらっしゃい、シーナ」
船長の瞳は、今日の空の色と同じように暗く翳っていた。
わたしに挨拶する声なんて、まるで「お気の毒ですが……」とか「手は尽くしたのですが……」なんて言うときみたいだ。
これは……
やっぱり、ダメ出しされる覚悟はしておいたほうがいいかもしれない。
「……読ませてもらったよ、2話目まで」
暗い瞳に促され、向かいの椅子に腰かける。
船長は『週間さんぱんち』を手に取ると、深く折り目のついたページを開いてテーブルに置いてみせた。
次の瞬間……
真っ赤なページが、目の前に飛び込んできた。
それはまるで血糊のようだった。
……赤ペンが、一面を真紅に染めていた。
なに、これ……
何のページ……?
よく見てみると……
かろうじて隅に書かれた文字が見えた。
……シナモン……
わたしの名前……
これ、わたしの小説のページ……
「……」
黒い文章の上を舞い踊る赤インク。
二重線、矢印、大きなバツ印。
そして、赤インクのキレイな文字。
わたしの小説を添削したものだということは、一目でわかった。
わたしの泥で汚れた小説が、船長の美しい文章によって磨かれたページ……
「どうして、こんなカタい文章になった?」
わたしを見据える、木賊色の瞳。
見つめられると、身動きはおろか、息もできない。
「……」
確かに今回の小説は、読む人によってはカタい文章に見えるかもしれない。
船長への小説は一人称で書いていたのだから、今回の三人称の文体に船長は驚いたのだろう。
今までずっと、この文体で書いてきたんです。
そう言おうとしたのだけど、口は開かなかった。
自分を語れるほど、わたしは大人じゃない。
「……」
それに、ある程度は覚悟もしていた。
助言だってなんだって、ありがたく受け取ろうと思っていた。
それなのに……
ここまで何も喋れなくなるなんて。
自分が、こんなにも心の弱い人間だったなんて。
「シーナ」
船長が、俯くわたしの顔を覗き込む。
そこから聞こえてきたのは、こんな言葉。
「残念だが、今回は背伸びが過ぎたようだ」
そして、小さなため息。
それはまるで、わたしの小説ではなくて、わたし自身に失望したかのようなため息だった。
「……」
頭の中が真っ白になる。
何も考えられない、息もできない。
苦しい……
「……」
張り裂けそうな胸の痛みを堪えて、もう一度赤インクのページに目をやった。
落ち着け……
船長は、私のために時間をかけて添削してくれたんだから。
必死に言い聞かせて、赤インクを目で追いかける。
でも、ダメだった。
あまりに手を入れられすぎて、わたしの文章の面影は微塵もない。
ああ……
どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
どうして、テーブルがぼやけて見えるんだろう。
「……」
鼻をすすると、その小さな衝撃で涙がテーブルに零れて水たまりを作った。
泣いたって何にも解決しないのに……
涙が溢れて止まらない。
「シーナ……?」
異変に気づいた船長に見られないよう、顔を背ける。
込み上げる嗚咽を隠すように、椅子を鳴らして立ち上がり、そのままカバンを手にわたしは隠れ家を飛び出した。
ずっと俯いたままだったから、わたしの名前を呼ぶ船長の顔は見えなかった。
★彡☆彡★彡
石畳の道は、緩い下り坂になっている。
走りにくいヒールでも、勢いがつけば速度も上がって、足音も次第に喧しくなっていく。
みっともなく鼻をすすると、ひんやりとした風の中に雨の匂いがした。
足下を見れば雨粒が丸いシミを作り始めていて、空を仰げば曇天が広がっている。
堪えきれずに零れた涙のような雨が、次第に激しさを増していく。
顔中が水浸しだ。
拭っても拭っても、拭いきれない。
雨なのか涙なのかわからない水が、頬を伝って流れていく。
土砂降りの雨が、ワンピースの裾から水滴となって滴っていた。
当てもなく走り続けていると、ようやく船長への想いが言葉となって浮かんできた。
わたしは、ただ認めてもらいたかっただけ。
シーナはこういう文章も書けるのかって、知ってもらいたかっただけ。
あなたには……
あなたにだけは、わかってもらいたかった。
それなのに、船長なんて……
船長なんて大……
「っ!」
自分の心の声を止めようとしてバランスを崩したわたしは、濡れて滑りやすくなった石畳につまづいて前のめりに転んでいた。
肘の先がヒリヒリと痛い。
一張羅のワンピースは、全体が泥で汚れて鼠色になった。
それなのに、投げ出されたハイヒールは、雨に濡れてもキラキラと美しく光っていた。
まるで、わたしの文章と船長の文章みたいだ。
ハイヒールを履くと背が高くなって、自分がキレイになったような、こそばゆい感じがして好きなのだけど……
ふと、あの言葉が脳裏を過ぎる。
『背伸びが過ぎたようだ』
船長は、もちろん物理的な意味で言ったわけじゃない。
それでも、その言葉は確実にわたしの心を抉っていた。
背伸びが過ぎたようだ、背伸びが過ぎたようだ、背伸びが……
何度も何度も再生される言葉。
わたしの心は、水を入れすぎた粘土のように、形を保ってはいられなくなっていた。
雨は激しさを増していく。
水たまりはどんどん大きくなり、雨粒が追い討ちをかけるように水たまりに飛び込んでは、王冠のような飛沫を上げていた。
「背伸び、なんて、して、ない……」
込み上げる嗚咽を堪えるように、言葉を吐き出す。
「なんなのよ……」
片方だけ脱げずにいたヒールを脱いで、手に取る。
背伸びなんかじゃない。
あの文章は、わたしそのものだ。
今までの作品は、みんなあの文体で書いてきた。
それなのに、背伸びが過ぎる、なんて……
わたしのこと、よく知りもしないくせに……っ!
「わたしの何がわかるっていうのよっ!」
爪がくい込むほどの力でヒールを掴み、腕を振り上げる。
渾身の力で叩きつけようとした、そのとき。
『いいものを読ませてもらった』
『シーナの文章は、軽快で読みやすい』
あのときの船長の言葉が、いくつも浮かんでは消えていった。
言葉だけじゃない……
あのときの笑顔まで一緒に。
『シーナが人気作家になる日も近いな』
思い出したくなんてなかった。
この感情の逃げ道が、なくなってしまうから。
『シーナ、ありがとう』
信じていたのに。
厳しいことも言うけれど、あなただけはわたしの味方だって、そう信じていたのに。
「……」
振り上げた腕から、力が抜けていく。
雨音がやけにうるさく聞こえた。
そっか……
わたし、船長のこと、大好きだったんだ。
小説仲間として、船長のことを尊敬して大ファンで、大好きだった……
ううん、違う。
今だって大好きだ。
だから……
たとえ心が救われるとしても、八つ当たりなんてできない。
船長なんて大嫌い、なんて心の中ですら言えるわけがない。
「……」
爆発しそうだった感情が、行き場をなくして心でくすぶっている。
それをあやすように、宥めるように……
わたしは投げつけかけたヒールを胸元に抱き寄せると、雨音に負けないくらいの大声を上げて泣き続けた。
頬を伝う雨粒は、塩辛かった。
つづく




