第12話「木賊色……!!」
私は思わず、シタッケさんを振り向きました。
シタッケさんは、先ほど「ふたりきりで、ね?」と言ったときと同じように、私の顔を覗き込んでいます。
……危ない危ない、またドキッとしてしまうところでした。
私は気持ちを落ち着かせるために、小さく息をつきました。
これが、シタッケさんの『いつも通り』……
ナンモさんやワヤちゃんに教えてもらったおかげで、私にもシタッケさんの扱い方が、なんとなーくわかってきました。
ここは、軽く受け流すのが正解な気がします。
私はシタッケさんに微笑んで、
「いやですね、そんなことないですよ」
と答えてみせました。
ほんのちょっとオバサンっぽくなってしまいましたが、まぁそこは仕方がなしということで。
さて、この話はおしまいです。
私は改めて若竹煮へと視線を戻しました。
……ふと、控えめに盛られたワカメに目が留まりました。
とてもキレイな緑色です。
かといって、作り物のような鮮やかすぎるものではなく、優しく寄り添うような自然な緑色……
……?
この色、どこかで……
「何言ってるんだい、ジュスティーヌさん。あなたには記憶がないんだから、この可能性を全否定するにはまだ早いだろう」
隣のシタッケさんは、若竹煮を見つめる私に何やら話しかけてくるのですが、もう私は聞き流すことしかできませんでした。
……それどころではなかったのです。
「きっと、こんな感じだぞ……豪華客船での旅の最中、ジュスティーヌさんの厳格な両親は、あなたには知らせずに見合い結婚の話を持ってきた。それはまさしく政略結婚! 相手は見ず知らずの、50は年上のクソジジイときたもんだ。もちろんジュスティーヌさんには拒否権がない。しかもここは船の上、逃げ場もないときている。承諾するしかない結婚話、自分を物として扱う両親、若く美しい妻と財産目的の結婚相手……そのすべてが嫌になって、ジュスティーヌさんは客船から海へと身を投げた」
「……」
深緑、というには少しくすんでいて、より自然に近い色のように感じられます。
確かこの色には、古き良き名前があったはず……
えーっと……
何色だったか……
「ああ、もしもその船に俺が乗り合わせていたら、確実にあなたのことを助けたに違いない。例えば……もう何もかも嫌になって、甲板を駆け抜けていくジュスティーヌさん。俺はすぐに異変を感じて、あなたを追いかける。そして、今にも甲板の縁から身を投げようとしているあなたに声をかけるんだ。『命を粗末にするもんじゃない。もうどうしようもないのなら、俺がなんとかする。大丈夫、あなたはひとりじゃない』……そんな魂のこもった説得に、泣きながら駆け寄ってくるジュスティーヌさん。そんな彼女を、俺は優しく抱きとめて、そして」
あ! 思い出しました!
この色は、
「木賊色……!!」
「そう! そしてとくさい……え?? な、何??」
よかった、思い出せました。
そうです、この色は『木賊色』です。
木賊色……
私の、大事な……
大切な色……
「……」
色の名前を思い出した途端、目の前がぼやけてきました。
あれ、私……
泣いて、る……?
どうして……?
「ジュスティーヌさん、とくさいろなんて、突然どうした……って、わああっ!? な、なんだ!? どうした!?」
慌てるシタッケさんの声に、私はなんでもないですとばかりにブンブンと首を横に振りました。
しかし、涙は止まりません。
どうして泣いているのかわからないまま、涙は次から次へと溢れてきます。
おそらく、思い出した色の名前である『木賊色』が関係しているのでしょうが、いったいなぜなのかがわからないのです。
このくすんだ渋い深緑色が、なぜ私をここまで泣かせるのでしょうか……
考えてみても答えは出ず、涙は止まりません。
……ふと、目の前にこげ茶色のハンカチが現れました。
「……」
見上げた先では、シタッケさんが無言でハンカチを差し出していました。
その柔らかな表情が「遠慮しないで使いなさい」と言っていたので、私はハンカチを受け取り、そのまま顔を覆いました。
しばらくそのままでいたのですが……涙は止まりません。
きっと、この色にまつわる何か大切なことを自分が思い出せないことが歯痒くて、嫌で嫌でたまらなくて、涙が止まらないのでしょう。
なんとなく、そんな気がしてきました。
しかし。
「……」
私は嗚咽を堪えるのに必死で、ハンカチを貸してくれたシタッケさんに、この状況を説明できずにいました。
それに、もし喋れたとしても、うまく言葉にできるかも怪しいものです。
何も思い出せず、この状況の説明もできず、ただ泣いているばかりの私……
「ごめん、なさい……」
嗚咽の隙間から謝るのが、今の私の精一杯でした。
ハンカチで拭っても拭っても、涙は頬を伝って流れていきます。
嗚咽を堪えて、もう一度謝ろうとした、そのとき。
「謝らんでいい」
シタッケさんの鋭い口調に、私は驚いて顔を上げました。
背中が温かい……
いつの間にか、シタッケさんが背中をさすってくれていたようです。
振り向いた先に、私を見つめる紫色の瞳がありました。
「人間生きてりゃ、突然泣き出したくなるときくらいあるさ。ましてやジュスティーヌさん、あなたは記憶がないんだ。泣き出すきっかけなんてわからないだろうに、それを我慢しろなんて言わないよ。思う存分泣くといい」
耳に心地よい声でそう言われて、私はコクンと頷きました。
その優しさにまた涙を流していると、シタッケさんは「あー」と小さく咳払いして、
「そのハンカチが足りなくなったら、俺の胸に飛び込んでおいで! このシャツなら、いくら涙を拭いたっていいんだからね!」
なんて言って、腕を広げておどけたのでした。
それまで真剣に話をしていた人とは、まるで別人です。
先ほどまでは泣いている私を慰めてくれているようでしたが、今度は私を笑わせようとしてくれているのでしょう。
優しい人……ちょっと扱いにくいと思ってたの、取り消します。
私は、両腕を広げるシタッケさんに微笑みました。
「ありがとう、ございます……だいぶ落ち着いてきました」
「お、それは何より。それじゃほら、遠慮なくこの胸で涙を拭きなさいな。ね?」
「ふふっ。心配しないでください。本当に、ハンカチだけで大丈夫ですから」
「なんだぁ残念だなぁ。でもまぁ、元気になってくれたみたいで、よかったよかった」
シタッケさんの表情には、ほっと安心した中に少し悔しそうな感情も混ざっているようでした。
これは……遠慮しないで胸を借りていたら、何が起こっていたのでしょう。
ま、今は考えないことにします。
私は、シタッケさんにペコリと頭を下げました。
「本当に、ありがとうございました。このハンカチは、洗ってお返ししますね」
「え? いやいや! そんなの気にしなくっていい。そのまま返してくれたっていいんだから」
「ダメですよそんなの! ちゃんと洗って返させてください」
「だから、いいって! 早く返しなさい、ほら」
そんな不毛な押し問答の最中、どうしてもハンカチを取られたくない私の手に、シタッケさんの手が触れました。
そして、それとほぼ同時に台所から「ふたりとも、ご飯の量はどうしたいー?」とワヤちゃんが顔を出したのです。
目の前に広がる光景は、説明なしでは誤解を招くに違いないわけで……
「あっ……えっ? えっ??」
あわわわわ……
私が、怒り狂って我を失いそうになっていたワヤちゃんに対して、心優しいシタッケさんの誤解を解くのにどれほど苦労したか……
そこまで、言う必要はありませんね。
つづく




