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歌姫たちのイストワール  作者: すけともこ
第11章「歌姫の3年間」
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第7話「自由と健康と私の未来」

「……」


 私が黙っていると、ワヤちゃんは独り言のように話し続けました。


「思い出せないことが苦しくなったときは、そうやって考えてみてもいいんじゃないかな」


 ワヤちゃんはそう言うと、空になったお昼ご飯の器をバスケットにしまって「じゃあ、また明日ね!」と帰っていきました。

 あくまでもいつも通りのワヤちゃんが出て行くと、病室には呆然とする私がひとり……


 思い出せないほうが幸せ……

 確かに、そうかもしれません。

 ワヤちゃんのおかげで、心が軽くなっている自分に気づかされました。


 ワヤちゃんやドンパ君、ウルカス先生にナンモさん……

 たくさんの心優しい人たちに見守られてきた私の入院生活も、気がつけば2週間が過ぎていました。

 ……楽しい日々に、終わりが見え始めていたのです。



★彡☆彡★彡



 起床してからずっと、自分の中を何もしたくない時間が流れていきます。

 ただぼんやりとして、ベッドに座っているだけの時間……

 考えたくないのに、昨日のウルカス先生の言葉が頭の中をグルグルと回っているのです。


『……あなたは、もう自由です』


 夕日の差し込む病室で、ウルカス先生は俯きがちに口を開きました。

 まるで、私ではなくベッドの上に伸びる私の影に向かって声をかけているかのように。


『どこへ行き、何をしようとも、私がとやかく言うことはありません。要するに……あなたの身体は、もう健康そのものなのです』


 自由、健康……

 怪我や病気で入院している人にとっては、それらはとても喜ばしい言葉でしょう。

 けれども、私にとっては違います。

 健康な身体ではあるものの、どこへ行って何をしたらよいのかわからない、私にとっては……


 健康や自由といった喜ばしい話のはずなのに、ウルカス先生は始終、まるで余命を宣告するかのような口調で話していました。

 きっと、それらを手に入れても行く当てのない私のことを気遣ってくれていたのでしょう。


 ウルカス先生は立ち去り際に「ここの手伝いをして暮らしていくという選択肢もあります。私も助かります」と声をかけてくれました。

 なるほどと思った私は、寝る前に少し想像してみたのです。

 この病院で、ウルカス先生の助手として働く自分の姿を……


 しかし、まったく想像できませんでした。

 どうにも何かがしっくりこないのです。

 なんというか、頭の中のもうひとりの自分が「それは私の仕事ではない」と訴えているのです。

 おそらく……ここへ流れ着く前の私は、病院のようなところで働く人間ではなかった、ということなのでしょう。


 なんだか不思議な話ですが、これで私の人生の中の膨大な可能性の中から「病院勤めだった」が完全に消滅したわけです。

 行く当てもないというのに、自分のことがひとつわかって安心したのか、私はその日の眠りにつきました。

 そして、翌朝……ぼんやりとベッドに座ったまま、無為な時間を過ごしている、というわけなのです。


 ぼんやりとしていたせいで、時間の感覚がなくなっていたのでしょう。

 私は、お昼ご飯を持ってきてくれたワヤちゃんが病室の扉を開ける音で、ようやく現在に引き戻されました。

 ワヤちゃんはというと……なんだかいつもより表情が輝いていて、とても楽しげです。

 そんなご機嫌ワヤちゃんは、満面の笑みを浮かべると、


「ジュスティーヌ! 今日はね、お客さんを連れてきたのよ!」


 そう言って、扉の向こうへ手招きしました。

 ……現れたのは、女の人でした。

 ワヤちゃんより10歳ほど年上のお姉さんに見えます。

 ふくよかな体型で、サラサラの黒髪は肩下あたりまでのセミロング。

 生き生きと輝く瞳は栗皮色で、少し太めの黒眉が私を見つめてくいっと上がりました。

 あ、もしかして、この人が……と思ったのが、顔に出たのでしょう。

 女の人は私に笑顔で大きく頷きました。

 ワヤちゃんも、私たちの目線だけの会話に気がついて、


「ジュスティーヌ、紹介するわ。こちらが、あのナンモさんよ」


 と、簡単に紹介してくれたのでした。

 そして私が「ああ、やっぱり」と思う間もなく、ナンモさんは私のもとへと駆け寄ってきました。


「あなたがジュスティーヌなのね! ああ、やっと会えた! わたしはナンモ! よろしくね!」


 想像していたよりも低い声が柔らかく私の名前を呼び、目の前に右手が差し出されました。

 私は胸の高鳴りを押さえつつ「はじめまして」と差し出された手を握り返していました。

 少しゴツゴツとしているけれど、温かくて頼りがいのある大きな手……

 あの美味しいオムライスを作ってくれていた、働く人のステキな手です。


 これは、ちゃんと起きてお礼を言わないと。

 そう思った私はベッドから降りようとしたのですが、布団をめくった瞬間ナンモさんとワヤちゃんが、まるで打ち合わせでもしたかのように「安静に!」と声を揃えて叫んだのです。

 なんだか、本物の親子みたい……

 私は心配されたことも忘れて、ふたりに見入っていました。


 ……なんだか懐かしい気がするのは、いったいなぜなのでしょう。

 まあ、それは後で考えることにしましょう。

 私が布団をかけ直していると、ナンモさんが口を開きました。


「ジュスティーヌ。実はここに来る前に、ウルカス先生からあなたの容体を聞いてきたの。いつになったら退院できるか、気になっていたから」

「……」

「そうしたらね、ウルカス先生は『もういつでも大丈夫です』って言ってくれて……あなたにもそう伝えてあるって言っていたけれど、そうなのね?」


 ナンモさんの確かめるような口調に、私は昨晩のウルカス先生との会話を思い出して頷きました。

 自由と健康と私の未来。

 過去のない私に未来なんて考えている余裕はないような気もしますが、そんな私にはお構いなしに、ナンモさんは「いいわぁ」と羨ましそうに笑っていました。


「やっぱり、若いってことなのねぇ。わたしだったら、完全復活までまだまだかかっていたに違いないんだから」


 朗らかなナンモさんに、私は曖昧に微笑むことしかできませんでした。

 そんな元気のない様子が伝わったのか、ナンモさんとワヤちゃんは顔を見合わせていました。

 ……なんだか、申し訳なくて胸が苦しくなってきます。

 ごめんなさい……

 せっかく健康になって心身ともに自由だというのに、それを心から喜べないなんて、罰当たりですよね。


「……」


 私は申し訳なさから俯いてしまいました。

 この先、どうしたらいいんだろう。

 ……ひとりで考えていても、良い案は浮かびそうにありません。

 ああそうだ、まずはワヤちゃんとナンモさんに相談してみましょう。

 もうウルカス先生から話は聞いたと言っていたし、きっと何か良い案を……

 と、そこまで考えたときです。


「ジュスティーヌ」


 ナンモさんに名前を呼ばれ、私は顔を上げました。

 先ほどまでの朗らかな印象とは少し違う、温かく包み込むような眼差しで、ナンモさんはにこーっと笑っていました。

 それはまるで、楽しいことを思いついた幼い少女のようで……

 ナンモさんはその顔のまま、こんな提案をしてくれたのです。


「あなたがよかったらでいいんだけれど、わたしの店で住み込みで働いてみない?」

「えっ……」


 私は咄嗟には何も言えませんでした。

 それでも、ナンモさんは楽しそうに言葉を続けます。


「ワヤからあなたの話を聞いたとき、元気になったら絶対うちで引き取ろうと思っていたのよ。だって、放っておけないもの」

「……」


 そこまで聞いても、私は何も言えませんでした。

 本当はとても嬉しくて、なんだかワクワクしてドキドキしていたのです。

 でも……素直には喜べませんでした。



つづく

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