第3話「ジュ……?」
記憶、喪失……
その言葉に、ドンパ君とワヤさんはまだ顔を見合わせていました。
まるで、お互いの顔に答えが書いてあるかのようです。
私も同じように呆然としていたのでしょう、ウルカス先生に尋ねられました。
「これは望み薄ですが……何か、身元がわかるようなものを持ち合わせていませんか。何でもいいのですが」
その質問に、私はコクンと頷いて、掛け布団をめくってみました。
着ているものは、赤い薄手のワンピース1枚。
海の中にいたせいでしょう、かなり傷んでいて、ところどころ破けています。
確かにこの状態では、何か持っていること自体が「望み薄」かもしれません。
それでも、とりあえず全身を確認してみることにします。
ウルカス先生は、私が自分の姿を見回し始めると、ごく自然に私に背を向けました。
はて……?
最初は意味がわからず先生の背筋の伸びた背中を見つめていた私ですが、
「わ、わあーっ! 姐さん、何するんすか!」
ワヤさんに急に目隠しされて慌てふためくドンパ君を見て、遅まきながらすべてを理解しました。
目隠ししてくれているワヤさんも、ギュッと目をつむっています。
私は皆さんに感謝して、遠慮なく自分の全身をまさぐり始めました。
頭をかきむしってみたり、肩や腕をこすってみたり、スカートをめくってみたり……
胸元やお腹にこびりついた砂を払って、太ももまで手が伸びた、そのとき。
……ふと、右手に違和感を覚えました。
どうやら、ボロボロのワンピースのポケットに何か入っているようです。
感触から推理しようにもまったく見当がつきませんが、気になります。
慎重に引っ張り出してみると……
何やら、折り畳まれた紙のようでした。
私とともに長い間、海の中に浸かっていたため、かなりヨレヨレでボロボロです。
とりあえず、ウルカス先生に報告です。
「あの……こんな、ものが」
こちらに向き直ったウルカス先生は、私が差し出した紙を「拝見」と両手で受け取ってくれました。
私とドンパ君、そしてワヤさんが見守る中、先生は折り畳まれた紙を丁寧に開いていきました。
破けてしまわないように、慎重に……
「……」
紙は四つ折りでしたが、先生の丁寧な処置のおかげで奇跡的に上手に開くことができました。
「ふむ……どうやら、手紙のようですね」
ウルカス先生がポツリと呟きます。
確かに、開かれた紙には何かが書かれていた形跡がありました。
残念ながら文字は滲んでしまって、ところどころ穴も開いているので、解読は不可能のように思われます。
しかし、ウルカス先生は諦めてはいないようで、読めそうな文字はないかと目を凝らしていました。
さらに、それだけでは足りないとばかりに白衣の胸ポケットから小さなルーペを取り出し、手紙の観察を続けています。
「……」
先生の驚くほどの集中力に、私はもちろんワヤさんやドンパ君も黙って見守るしかありませんでした。
……緊張感の漂う沈黙が、病室を支配しています。
それから、どれくらい経った頃でしょう。
ウルカス先生は手紙の一片を睨みつけたかと思うと、滲んだ文字をひとつひとつ声に出して読み始めたのです。
「ジュ、ス……ティー、ヌ……大事、な……入れて、お、く……」
ジュ……?
不思議な響きの言葉ですが……
もしかして、人の名前でしょうか?
「……ふむ」
ウルカス先生はルーペを胸ポケットにしまうと、私をじっと見つめて、
「この『ジュスティーヌ』という名前に、何か心当たりはありますか?」
と、尋ねました。
「……」
その言葉に、私は首を傾げました。
ジュスティーヌ……
残念ながら、あまりピンとくる名前ではありません。
ドンパ君とワヤさんも、思い思いに口を開きました。
「ずいぶん変わった名前っすね。その『ジュスティーヌ』って」
「そもそも、本当に名前なんですか?」
ふたりの疑問に、ウルカス先生は「ええ」と頷きました。
「ジュスティーヌという名前は、プラデラ大平原で使われている名前ですよ」
そのウルカス先生の答えに、ドンパ君とワヤさんの「プラデラ大平原ってなんですか?」がキレイに重なったものだから、先生は口をあんぐりと開けて固まってしまいました。
けれども、すぐに咳払いをして、
「プラデラ大平原は、東大陸にある『どこの国にも属さない人々のための平原』です。ふたりとも、学校で習ったはずでは?」
「……?」
「……??」
「……はあ、まったく」
顔を見合わせ、お互い頭に「?」をのせたドンパ君とワヤさんに、ウルカス先生は呆れた顔を隠し切れずにため息をつきました。
さて、プラデラ大平原……
なんとなく、聞き覚えがあります。
しかし、その『ジュスティーヌ』という名前には、あまりピンとくるものはなく……
自分のことも、やっぱり何も思い出せないのでした。
と、そこでウルカス先生が「まあ、ともかく」と私を見つめて言葉を続けました。
「何も思い出せないのならば、ここは仮の名前として『ジュスティーヌ』さんと呼ばせてもらってもよろしいですか?」
なるほど、仮の名前……それは、良い考えです。
もしかしたら、私は本当に『ジュスティーヌ』なのかもしれませんし、この名前ではないとわかったときは、私は自分の名前を思い出せているということですから。
私は、ウルカス先生に「はい」と返事をしました。
しかし、ジュスティーヌさん……
やはりピンとくるものはありません。
それでも私は、これから『ジュスティーヌ』として生きていくことを
「っくしゅ」
……決意した矢先の、くしゃみです。
おそらく、掛け布団をめくったことで身体が冷えたのでしょう。
そんな小さなくしゃみに、ワヤさんがすっくと立ちあがりました。
「先生、お風呂沸いてますよね! 連れて行きますね!」
ワヤさんは私が立ち上がりやすいように肩を貸してくれたり、ボロボロのワンピースを包むようにバスタオルを巻いたりしてくれました。
目が覚めてからしばらく経っていたので、自分でも歩けるくらいには復活していたみたいです。
早速ワヤさんの後ろをついて行き、私は病室を後にしました。
どこまでも続いているかのような長い廊下を歩いていきます。
一歩歩くごとに、自分のことを思い出せたらいいのに。
……そんなことを考えながら。
★彡☆彡★彡
病室を出て左に曲がった突き当たり……そこが、お目当ての場所のようでした。
ワヤさんは私をいそいそと案内すると、
「ここが、この病院専用の大浴場なの! さあどうぞ、ゆっくり肩まで浸かって温まってね! あたしは、家に帰って着替えを持ってくるから!」
そう言って、来た道を戻っていきました。
途中で左の扉へと曲がったので、そちらが病院の玄関になっているのでしょう。
私は、案内された場所の扉を押し開けました。
そこは、大きな脱衣所でした。
洗面台がふたつほど並び、着替えを入れておくカゴが3段になって棚に詰め込まれています。
フワリと漂う石鹸の香りを追えば、すりガラスの引き戸。
その向こうから、お湯の流れる音も聞こえてきます。
私は、着ていたワンピースをするりと脱いで、カゴに入れました。
脱衣所全体はじっとりと汗ばむほどの暑さですが、ペラペラのワンピースでも脱いでしまえば少し肌寒い気がしてくるから、不思議なものです。
すりガラスの引き戸を開けると、小さな洗い場がふたつ並んでいて、その左手には大きな湯船がひとつ。
これなら、中でもうんと手足を伸ばしてゆっくりできそうです。
私は身体の砂を落として、備え付けのタオルで手早く身体を洗い終えると、大きな湯船に肩までじっくり浸かりました。
つづく




