第2話「この人たちは私を知らない」
「おはようございます、お嬢さん。気分はどうでしょう? 起き上がれますか?」
おじいさまに穏やかな声で話しかけられ、私はぎこちなく頷きました。
目が覚めて、またひと眠りしたのがよかったのか、ようやく腕に力が入るようになっていました。
が、上体を起こすのには、まだ人の力を借りなければならず、私は青年とお姉さんに手伝ってもらいながら、ベッドに起き上がりました。
青年は私の背中を支えながら、
「おれの名前は、ドンパ。どうぞよろしくっす。おねーさんのこと見つけてここまで運んだの、おれなんすよ! あ! おれが見つけたときは、もう服はボロボロで、ちゃんとタオルでくるんで運んできたんで、安心してくださいっす!」
ドンパ君は、私がふと自分の着ているボロボロのワンピースに視線を落とした途端、そんな説明をしてくれました。
やっぱり私は海で溺れて、ここに打ち上げられて、病院に運んでもらったってこと……?
とりあえず、お礼を言わないと。
まだ喉の調子は戻っていないので、私はドンパ君にペコリと頭を下げて微笑んでみせました。
すると、ドンパ君も安心したように頷いてくれました。
ああ、すごく良い人なんだろうなぁ……
そんなことを思っていると、私とドンパ君の間に割って入るようにして、あのツインテールのお姉さんが「こんにちはー!」と笑いかけてきました。
「あたしは、ワヤ。ドンパとは幼馴染の腐れ縁なの。よろしく~」
お姉さんは満面の笑みで私に手を振ってくれました。
長めのツインテールのせいで少々幼い見た目ですが、暖かさを感じさせる飴色の瞳は、私より少し年上のお姉さんのようです。
とはいっても、私は自分が何歳なのかわからないのですが……
私は、ワヤさんにも微笑んでみせました。
さて……次は私の番、ということになるのでしょう。
いったい、何を話せばよいのやら……
先ほどからドンパ君とワヤさんの期待に満ちた眼差しが痛いので、何か言わなければと思うのですが……
どうやら、まだ喉は本調子ではないらしく、思うように声が出せないみたいです。
これはなんというか、不幸中の幸いかもしれません。
そして、そんな私の様子にすぐに気がついてくれたのが、先生と呼ばれていた白衣のおじいさまでした。
「……どうやら、まだ声は出せないようですね。かなり長い間、潮水の中にいたせいでしょう。口の中が気持ち悪くありませんか?」
先生の質問に、私はコクコクと頷きました。
なんだか、少しざらついているような気がします。
これは、唾を飲み込まないほうがよさそうです。
おじいさま先生は私の頷きを見て、ドンパ君とワヤさんに木桶とコップの水を持ってくるよう指示しました。
ふたりは、言われた通りにテキパキと動いています。
そこで先生が「ああ」と思い出したように、
「申し遅れました。私は、ウルカスといいます。この病院の医者です」
そう言って、穏やかに微笑みました。
銀縁眼鏡の奥で、品のある黒い瞳が優しそうに揺れています。
私のまわりをテキパキと動くドンパ君とワヤさん、そしてウルカス先生……
3人とも、私に対して簡単な自己紹介をしてくれました。
と、いうことは……
3人とも、私とは初対面なのでしょう。
ああ、やっぱりこの「自分のことがわからない」という奇妙な状態は、悪い夢なんかではないようです。
確かに、背中を支えてくれたドンパ君の手と、腕を引いてくれたワヤさんの手は温かかったですし、口の中はザラザラしますし、ウルカス先生の白衣からは消毒薬の匂いもします。
おそらく頬をつねったら、痛くて涙が出ることでしょう。
私が用意してもらったコップの水で口の中をすすぎ、木桶に向かってケホケホと咳き込んでワヤさんに心配されている間、ウルカス先生が私の保護に至るまでの経緯を教えてくれました。
そのお話によると、どうやらここは北の島国ノルテ王国、その南東部のようです。
私は、南東部一帯を占めるマーサローの浜辺というところに倒れ伏していたといいます。
そこに、毎朝の日課である走り込みをしていたドンパ君が通りかかり、私をウルカス先生の病院まで運んでくれたのだそうです。
大陸群『天使の背中』東大陸と海を隔てて広がるマーサローの浜辺は、いろんなものが流れ着くといいます。
大きな木箱や小さな本、何の道具かわからないもの、大小さまざまな流木……
そして、人間。
今までに流れ着いた人は、数知れず……しかし、皆すでに息絶えた人々であり、私のように一命を取り留めた人間には、3人とも初めて会うと口を揃えました。
なるほど……
それでドンパ君もワヤさんも、私に興味津々といった感じなのですね。
「……流れ着いた人たちがどこから来たのか、どこへ行くつもりだったのか、そもそも何という名前だったのか……何もわからないまま、私たちは流れ着いた人たちを埋葬してきました」
ウルカス先生は、しんみりした口調でそこまで語り終えると、一息ついてから私の顔を覗き込みました。
「しかし、お嬢さん……あなたは、生きています。本当に良かった。そろそろ喋れるようになってきたのではありませんか?」
その言葉に、私は軽く咳き込みながら「……は、い」と返事をしました。
まだ少し喉はイガイガしますが、喋れないわけではありません。
私が声を発したことが嬉しかったのでしょうか、ドンパ君とワヤさんが手を取り合っています。
そして、私の様子を見ていたウルカス先生も、ほんの少し口角を上げました。
「よかったです。それでは、まず……あなたのお名前を教えてくださいますか?」
「……」
ウルカス先生の穏やかな口調と、ドンパ君とワヤさんの期待に満ちた眼差しを前にして、私は何も話せなくなってしまいました。
この人たちは私を知らない、私も私を知らない……
この奇妙な状態を、どうやって理解してもらえばいいのでしょう。
それに……
正直に話したところで、信じてはもらえないかもしれません。
ああ、いったいどうしたら……
私が黙ったままだったので、心配になったのでしょう。
ウルカス先生は少し困ったような顔で「まあ、教えたくないのなら、それでも構いませんが」と言ってくれました。
しかし……残念ながら、それ以前の問題なのです。
……仕方がありません。
もう、なるようになれ。
私は意を決して、
「ごめんなさい……わかりません」
と、答えました。
「……」
ドンパ君とワヤさんは顔を見合わせています。
もしかすると、疑われているのかもしれません。
ああ、どうしましょう。
本当なんですよ……
私は、ウルカス先生にチラリと視線を向けました。
先生は「ふむ」と腕を組んでいます。
「わからない、というのは……自分の名前が、ということですか?」
真剣な顔で尋ねてくるウルカス先生に、私はコクンと頷きました。
おそらく、嘘かどうか確認したかったのでしょう。
先生は、もう一度「ふむ」と唸ってから、私にいくつか質問しました。
年齢、出身地、家族構成……などなど。
そんな子どもでも答えられるような簡単な質問にも、私は首を横に振るしかありませんでした。
首を振るたび、目の端に金色のキラキラした細いものが入ってきます。
何かと思ってよく見ると、なんと私の髪の毛でした。
金髪ストレートロング……
私は、自分の髪形さえもわかってはいなかったのです。
「……なるほど」
ウルカス先生は、あごに手を添えながら、
「これは推測ですが……おそらく、脳内が酸欠になって引き起こされる記憶障害……記憶喪失、と呼ばれるものかと思われます」
と、厳かな口調で告げました。
つづく




