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歌姫たちのイストワール  作者: すけともこ
第11章「歌姫の3年間」
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第1話「いったい、だれなのでしょう?」

 耳の奥で、何かがコオォォ……と響いています。

 ゆっくりと目を開けてみると、不思議な網目模様が煌めいていました。

 日の光を浴びているからでしょうか、透明なままに揺らめいています。

 ここは、海……?

 ああ、私は海の中を揺蕩(たゆた)っているのね……

 きれい……

 宝石みたいに、輝いて見える……


 でも……

 ここが、海の中だということは……

 はっと気がついて口を開けた途端、

 ゴボッ……っ!

 凄まじい勢いで、口の中に水が入ってきました。


 く……苦しい……っ!

 ゲホッゲホッ……

 いくら咳き込んでも、もちろん空気が入ってくることはありません。

 次第に目の前がぼやけ、私の意識は朦朧としてきました。

 海の水を冷たく感じてきた頃にはもう、手足の感覚もなくなっていて……

 まぶたは力なく閉じ、視界は一面の闇に包まれました。

 目を閉じた先に広がる闇の中に、私の記憶のようなものが映し出されては消えていきます。


 今まさに振り下ろされようとしている大剣。

 そこへ向かって駆け出す私……

 どうして私は走っているの?

 ここは、甲板……?

 早く! 急いで!

 頭の中で、私の声が響きます。

 どうして急いでいるの?


 私の疑問は、星のように瞬いたかと思うとすぐに消えてしまい、応えてくれる人はいませんでした。

 その間にも、記憶の中で私は大剣を振りかざしている人に向かって体当たりを繰り出しているようでした。


 ど、どうしてそんなこと……

 ああでも、それでわかったわ。

 どうして私が海の中にいるのか……

 でも……どうして、そんなことに?

 私は、いったいいつから海の中にいるの?

 そもそも、どうして船に乗っていたの?

 何のために? いったい、どこからどこへ向かっていたの?

 その船は、だれの船? 私の?

 あれ……?


 私は、だれ……?



★彡☆彡★彡



 真っ白な……あれは、天井でしょうか。

 手元のフカフカとした感触から察するに、どうやら私はベッドの上に寝かされているようです。

 ここは、どこ……?

 起き上がろうとしたものの、なかなか身体に力が入りません。

 時間が経てば、治るのでしょうか……?

 仕方がないので、首を左右に捻って、あたりの様子を窺ってみることにしました。


 まずは右側……壁です。

 上のほうに小さな窓もあります。

 残念ながら、ここからでは白い雲しか見えません。

 右側の足元には、木の扉があります。

 あそこが出入り口なのでしょう。

 扉の近くには、小さな本棚と机、水をたたえた大きな桶も見えます。

 ここは、どうやら病室のようです。


 えーっと……

 私は確か海の中で息苦しくなって、おそらく気を失って、そして……

 …………

 そしてその後、何が起こったのでしょう?

 ……うーん、考えていても、何も浮かんではきません。

 とりあえず、左側も確認してみることにします。

 ゆっくり首を捻ってみると、


「……!」


 なんと、枕元の丸椅子に人が腰かけているではありませんか!

 わ、わ、み、見られてた!?

 きょろきょろしていたところ、見られてた!?

 恥ずかしいっ!

 ……と思って変な汗までかいてしまいましたが、よく見るとその人は腕組みをしたまま、こっくりこっくりと船を漕いでいました。


 ああ、よかった……

 ほっとした私は、遠慮がちにこの人を観察してみることにしました。

 もしかすると、この人は私が目を覚ますのを待っていたけれど、待ちくたびれて眠ってしまったのかもしれません。

 私は声をかけようとして、とても大事なことに気づいてしまいました。


 この人の名前が、わからないのです。


 椅子に座ってウトウトしているのは、年の頃は20代前半、いや10代後半ぐらいの青年でしょう。

 彼がこっくりするたびに、柿渋色の髪がフワフワと頼りなげに揺れました。

 まくり上げた袖口から見える腕は(たくま)しく、力仕事を生業にしているのだとわかります。

 もしかして、私をここに運んでくれたのも、彼なのかもしれません。


 だとしたら、ちゃんとお礼を言わないといけないのに……

 どうしても私は、この人のことを思い出せないのです。

 そもそも、この人が知っている人なのか初対面の人なのか、それすらわかりません。


 ……ん?

 でも、それってどういうことでしょう?

 目の前にいる人が自分の知っている人かどうかわからないなんて、そんなこと……

 あれ? ちょ、ちょっと待ってください。

 さっきから私、私と言っていますが、この『私』って……


 いったい、だれなのでしょう?


「……」


 全身に、ぶわっと鳥肌が立ちました。

 必死に思い出そうとしても、頭の中が真っ白になるばかり。

 恐ろしくなってきて、鼓動が早くなって苦しくて……

 と、そのとき。

 目の前の青年が、がくんと大きく前のめりに倒れたかと思うと、その反動で今度は大きく後ろにのけ反りました。


「……ふぁ」


 どうやら、目が覚めたようです。

 大きな欠伸が聞こえてきました。

 青年は大きく伸びをして、目をこすりつつ姿勢をもとに戻しました。

 私はなんだか目が離せなくなって、彼の様子をじっと見ていたのですが、ふとした瞬間に彼と目が合ってしまいました。

 美しい菜種色の瞳だと思ったのも束の間、青年は飛び上がりました。

 そりゃあ、だれだってそうなるでしょう。

 寝ていると思っていた人が起きていて、自分のことをじっと見つめていたのですから。


「わっ! わわ……あわわっ!!」


 青年は慌てふためいて部屋を出て行ってしまいました。

 ああ……いろいろと聞きたいことがあったのですが。

 私は小さくため息をついて、再び天井へと視線を戻しました。

 天井は真っ白いまま、私を見降ろしています。

 それにしても……

 自分が何者かわからないなんて、ちょっと信じられません。

 もしかして、全部悪い夢なのでは?


「……」


 先ほどから声を出そうとしているのに、呻き声さえ出ません。

 しかも、自分の頬をつねろうにも腕が上がらないのです。

 仕方がありません、こうなったら……

 もう一度寝て、起きるしかありませんね。


 私は目を閉じて、大きく深呼吸しました。

 かすかな消毒薬の匂いの中に、ほんのりと香る……

 これは、海の匂い。

 この病室は、浜辺が近いのかもしれません。

 耳をすませば、潮騒が聞こえそうです。

 ……海の匂いも潮騒も思い出せるのに、自分のことは何ひとつ思い出せないなんて、酷い夢です。

 もう一度寝て起きれば、きっと……

 きっと……



★彡☆彡★彡



 それから、どれくらい経った頃でしょう。

 少しウトウトとまどろみかけていた私は、なんだか騒がしくなってきた気配を感じて、目を閉じたまま意識を外へ集中させました。

 すると思った通り、人の声が聞こえてきたのです。


「ちょっとぉ! 起きたっすーっ! って騒ぐから来てみたのに、眠ったままじゃないのよ!」

「えー、おれ、ちゃんと見たんすよ! 目も合ったんす! だから慌てて出てきたんすから!」

「ワヤもドンパも静かに。きっと一度目が覚めて、また眠ってしまったのだろう。そっとしておいてあげなさい」


 この会話の流れ……どう聞いても、私のことを話しています。

 ゆっくりと目を開けてみると……

 真っ白い天井を背景に、3つの顔が私を覗き込んでいました。

 ひとりは、先ほどの青年。

 その隣には、白茶の髪をツインテールにしたお姉さん。

 そして、白衣をまとった銀髪のおじいさま。


 ツインテールのお姉さんは青年よりも年上に見えますが、顔立ちは似ていないので姉弟というわけではなさそうです。

 そんなお姉さんの飴色の瞳が、目を覚ました私に気がついてキラリと光りました。

 そして、


 「先生!」


 隣のおじいさまに声をかけると、おじいさまは私に向かって微笑みました。

 どうやら、病院の『先生』のようです。



つづく

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