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人は弓を投げる
真鍮の蝶は真っ暗闇の中を飛んでいます。道を照らす光はどこにもありません。
ここはどこだろう。
これからどこへ行くのだろう。
蝶の宛てのない旅が始まるのです。
童話「闇の中の蝶」より。
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葵蹄十一年秋。ケルウス王国首都ノックス。先のグッタ国との戦で負傷した兵士が帰還した。
港には兵士の家族が集まり、帰還兵を出迎えるので、人がとても多い。私は制帽が潮風で飛ばされないように抑えながら、人を探していた。
秋の高い空には雲一つなく、海の匂いがする風には少しの冷たさを感じる。靡く王国旗をくぐるようにして、兵士がノロノロと下船して、入国審査を受けていく。
出国時に登録した出兵名簿と照らし合わせて、外国人ではないか確認しているのだ。
名簿を持つ役人に足止めされている一人の女性の姿を見つけた。長い黒髪を一つに高い位置で束ねた、背の高い女性で、その髪に結ばれた髪飾りに見覚えがある。長い絹のリボンにアルゲオの花が刺繍してるはずだ。
私は帽子を押さえながら彼女に近づき、役人との会話を盗み聞きした。
「ですから私はヴィオリーナ・ハンゼアートです。どこかに名前はありませんか?」
髪を潮風で揺らしながら女性が首を傾げている。彼女が足止めされているせいで、入国審査を待つ兵士で後方は行列になっている。
「そんな名前はどこにも無いですね。貴女、本当にハンゼアート家の人なんですか?」
「も、もちろんですよ!」
ハンゼアート家というのは代々、王家の近衛を任されて来た由緒ある名家で、位は高い方ではないが、有名だった。
「ハンゼアート家を語れば簡単に入国できるとでも思ったんですか?」
役人という生き物は、文字だけを信じる生き物で、目の前の女性の言い分など信じようとしない。
「違います。私は嘘なんてついていませんよ」
「仮に貴女のいう事が本当ならば、無断で出国し、勝手に入隊したということですか?それならば、軍紀に反しますよ」
彼女の表情が凍り付いた。役人の言うことは正論で、出兵名簿に名前を書かなければ不法出国又は軍務規定違反に相当する。
彼女が選択する道は二つ。一つは外国人と偽って入国許可書を請求するか、もう一つは身分を証明して軍法会議にかけられるかのどちらかだ。
彼女が言葉を失って固まっていると、後ろに並んでいた男たちが先に行かせろと怒鳴り声をあげる。役人は「この話は最後に」と言って、先に後ろに並ぶ兵士の確認から始めたのだった。
私は辺りを見渡して、ある人物を探した。おそらく彼女を救えるのはあの人しかいない。
船から陸へと続く階段を悠々と下る一人の男が見えた。兵士とは違って高価な服を身にまとった男はどこからどう見ても貴族だ。
私はその男の兄を知っていて、運動不足そうな体型にあの偏屈そうな表情をしているが、少し似ているからおそらく弟だろう。
「見つけたわ」
私は帽子を手にとって、握りつぶしながらその男に向かって駆け寄った。そして大きく手を振ってその人の名を呼んだ。
「ハイン様。ハイン・アルスメール様!」
呼び掛ける私の声が聞こえた男は、何事かと嫌そうな顔で階段を下りきる。
「誰だ君は」
「初めまして。私、アンバー・ウェテルセンと申します。無事のおかえり何よりですが、少しお顔を貸してくださいませ」
「はあ?」
私は不服そうな男を無理矢理に引っ張り、入国できずに項垂れている彼女の許へ連れて行く。そして役人の前にかの男を引っ張り出したのだった。
「これはこれは、アルスメール様」
領主の息子が突然現れて、一介の役人は顔を強張らせている。
「その通り、このお方は北方領領主アルスメール家のご子息ハイン様です。そして貴方が先ほど疑ったあの女性はハイン様の護衛として出国したのですよ」
そうですよね。と領主の息子に微笑むと、息子は「何の話だ?」と小さい声で答えるので、私はそのピカピカの高級革靴を踏みつけ、目線で哀れな彼女を示す。
「で、ですが。我々の出国名簿にあの者の名前が無いのです。これでは入国を許可できません」
「あの者とは、ヴィオのことか」とだいたいの事を察知したのか、男は私の足を振り払って偉そうな態度をとり始めた。
「あれはヴィオリーナ・ハンゼアート。私の護衛として引き上げ船に乗船した。名簿に名前が無いという事はそちらの手違いだろう」
若いながらもこの男はやはり貴族だ。上から目線な言い方はとても慣れている。
「そんなはずは……」
大人の役人がそわそわと左右を見渡し、自分よりも偉い人間を探して、こちらに呼び寄せた。
「名簿に名前を書き損ねるなど、職務怠慢と言っても過言ではなかろう」
「しかし、アルスメール様……」
「私はキアノ殿下より直々にこの任務に就いたのだ。その時、必要なら何人連れて行っても構わないと許しを得ている」
王子の名前が出ると、役人はたちまち冷汗を流して言葉を失ってしまった。
「私の連れが入国できないとなると、殿下に報告しなくてはならない。その時、お前たちの仕事ぶりがどう評価されるか……」
「あ、ありました。こちらの名簿にハンゼアート様のお名前が御座いました」
本当は名簿のどこにも名前など無い。役人たちが自分たちを守るために嘘を吐き始めたのだ。こうして簡単に不正は実行される。
領主の息子は大袈裟に安堵したような表情を作ると、今度は私の足を思いっきり踏みつける。やられたらやり返すというこの負けず嫌いな性格は血筋だろうか。
「それは良かった。これでようやく殿下には滞りなく全ての者が帰還できたとお伝えできる」
そう貴族風に言って、彼はヴィオに声を掛けに行った。その背中に役人達が愚痴をこぼす「罪人の弟のくせに」と。
私はそんな言葉を潮風に流しながら、駆け足でようやく彼女の前に立つことができるのだった。
「おかえり、この馬鹿者」
「ただいま、アンバー」
ヴィオリーナ・ハンゼアートは私の親友だ。今日、私は戦地から帰った親友をこの腕で抱きしめるのだった。
港で感動の再会を果たした親友は、私とお茶会をするよりも先に第三王子に報告に向かうと言う。
ハイン様が用意した馬車に乗って、親友は王宮へと行ってしまった。今日ばかりはあの、髪の長い王子を恨んでしまう。せっかく早朝訓練を抜け出して港まで迎えに来たのに。
「アンバー」
港でいつの間にか失くしてしまった制帽を探していると、後ろから声を掛けられた。
「あら、どうしてここが分かったのかしら」
現れたのは黒と茶色の訓練着に土で汚れた革長靴を履いた、気の弱そうな男だった。
「だいだい分かるよ。さあ帰ろうか」
彼は私を訓練に連れ戻しに来たのだ。
「お願い。今日と明日はお休みをちょうだい」
親友が命からがら帰国したのだから、その労をねぎらいたいし、再会できた喜びを分かち合いたいの。
「それならそうと、前もって言ってくれればいいのに。急に居なくなって、皆心配したんだ」
「心配かけたことには謝るわ」
私が素直に謝ると、彼は深いため息を吐いて「分かったよ」と納得してくれた。
「では、楽しい休暇を」
そう言って、帰ろうとするので私は彼を呼び止めた。
「カトル、待ってちょうだい」
無言で振り返った彼の表情は、相変わらずの困ったような顔で、私はその表情を見るとますます困らせてしまいたくなる。
「ねえ、せっかくここまで来たんだから、帽子を探すのを手伝ってくれる?」
彼は青い空を見上げると、何かを諦めたようにがくんと肩を落として、私の帽子探しを始めてくれた。
「風で飛ばされた?それとも自分で捨てた?」
「捨てていないわ。手に取ってから記憶にないだけ」
そしてしばらく探していると、帽子が海の上でぷかぷか浮いている所を発見した。私があれだと指し示すと、彼は躊躇なく海に飛び込んで機敏な泳ぎで帽子を回収するのだった。
「ありがとう。水泳も得意なのね」
「もう、落とさないで。秋の海はもう冷たいから」
ずぶ濡れになって水を滴らせながら彼は訓練へと戻って行った。
帽子をきつく絞り水気を落としながら、私も目的地へ向かう。親友とは行きつけのお店で待ち合わせしているのだ。
王都ノックスの宮殿周辺は貴族の別邸や、準貴族と呼ばれる勲章などを与えられた者たちの家などが集まっている。
その地域には門番のいる門をくぐらなければならず、一般人が気軽に立ち入ることができない。この地域をロサ地区という。
ロサ地区の大通りから少し小道に入った所に小さな菓子屋があり、そこでは趣味の良い机などが置かれて、飲食することが出来る。
この店は庭にも椅子を置いていて、私と親友の特等席だった。
「アンバー、お待たせ」
甘い香りのするお茶に砂糖を混ぜていると、親友が顔を出した。私の計算よりもずいぶん早い到着だった。
「ずいぶん早かったわね。もしかして王子には会えなかったのかしら」
「その通り。それにしてもここ、懐かしい」
学生時代よくこの庭を眺めながら、長い時間を過ごしたものだった。
「何年ぶりかしら」
この店を最後に訪れたのは、士官学校を卒業した三年前だ。
「この席はいつも空いているよね」
親友の言う通りどんなに店の中が混んでいても、どれだけ天気が良くても、この庭の席はいつも空いていた。
「お嬢様という生き物は日焼けを嫌うものらしいわよ。私達は違ったけど」
ロサ地区に住む女性は殆どがお金持ちのお嬢様で、白い肌をなぜか求めているため、日焼けを極端に嫌う。なので、日の当たるこの庭の席には誰も座ろうともしない。
「私とアンバーは日焼けなんて当たり前だもんね」
私も親友も、家は名家と呼ばれているので世間的にはお嬢様だが、家の仕事が軍部関係なので、幼い頃から屋外で体を鍛えさせられてきた。白い肌の女子とは違う。
「それにしても、ヴィオ。無事に帰って来てくれて嬉しいわ」
隣でにこにこ笑う姿を見ているだけで、目の奥から涙が滲んで出てきてしまう。
「なんとか、無事帰還いたしました。入国審査ではお世話になりました」
ハイン様に事情を聞いたのか、私があの領主の息子に口添えをお願いした事を知ったらしい。
「私はいつだってヴィオを助けるわ」
戦地帰りの親友の瞳の奥には、以前には無かった色が混ざっているように見えた。きっといろんなものを目にして、いろんなことを感じてきたのだろう。
「それにしても驚いた。アンバーが軍服を着ているんだから」
「そうかしら。似合うでしょう」
「似合うけど、アンバーはてっきり軍人にはならず、どこかのお坊ちゃんと結婚するんだと思ってたわ」
卒業後すぐに入隊した親友とは違って、私は士官学校を卒業してから入隊することなく、実家で花嫁修業をさせられていた。どこかの名家に嫁ぐことが母の願いで、私が軍人になることを決して許さなかった。
「それが、ヴィオがいない間にいろいろあったのよ」
聞いてくれる?といつもみたいに私は自分の話を始めた。親友と再び語り合える日が来るとは夢にも思っていなかったので、私の瞳は涙で潤って、キラキラ輝いているだろう。