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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

レディーダイアモンド

作者: 米田 津名

1.翔

俺の『期待しなければ、がっがりすることもないだろう』という思いは、単に『美しいもの』と向き合いながら生まれた。一日中頭の中に漂う音楽とか、目を離せない絵画とか、どうやってこんなことを思いついたんだろうと思わせる奇抜な想像力書き上げられた小説とか。そんなものを接しながら感動という純粋な感情に浸る一方、心の片隅では『自分ももしかしたらこんなものを作れるんじゃないかな』という疑問が沸いてきた。その疑問に答えるために、俺は俺が興味を持てる全てのものに挑戦してみながら青春時代を過ごしていた。そうやって成長してきた俺が今更ながら気づいてしまったことは、才能が全くないという残酷な事実であった。勿論、よく探してみれば俺だって一つや二つぐらい上手なものがあったかも知れない。しかし、それはどうしても自分が好きにはなれないものばっかりであった。問題はそれだった。結局、俺は自分が好きなもの意外には』一切手を触れず、そして多分今後も手を出すことはないだろうと思い込んでいた。そのため、美しいものを作るという夢とはなかなかさよならできずに今まで育ってきた。いつかは、そんなものを作れるという淡い希望を持ったまま。


 そんな生き方をしてきたら、いつの間に高校に入学した。人との関係に何の期待を抱かない俺の表情は、どうやらいい印象は残せないようだった。入学式の日、先に話をかけてくる奴らも、数日経たずに他の子と俺のことなんてどうでもいいように笑いながら話していた。そんな光景を見ていると、俺は友達をつくるために必ず必要な何かを忘れたように感じに包まれた。一ヶ月、もう一ヶ月が過ぎると、俺はクラスで一番根暗な奴として扱われ、授業前に出席を呼ばれること以外に名前を呼ばれることは指で数えられるほどだった。確かに、寂しくなかったと言えば嘘になる。


 ただ、少なくともそんなイメージは無気力な学校生活を送るには最適だと思う。授業中ほとんど頭を突っ込んだまま寝ていても。小説ばっか読んでいても。ご飯を抜きにしてもその誰も俺には無関心でいてくれたおかげで、俺はなんにも期待されない人生を送ることができた。ただ、そんな生き方は意外と脆くて、少し特別な瞬間をみるだけで大きく揺らいでしまう。


 ある日、ぐっすり眠ってしまったせいで目を開けてみると窓の外はもう夕焼け色で満ちていて、伸びた影が教室を横切って『俺』と『教室』を分けていた。その場面が脳裏にあまりに強く焼きつかれたせいで、俺は太陽が夕焼け色を持ち去って青黒い夜のカーテンが張られるまでぼうっとして窓の外を見つめていた。夜間の見回りのため廊下を歩く警備員の靴音がどんどん大きくなる頃になってから気を取り戻し鞄を持ち上げた。少しの小言を言われてから家に帰る途中、おかしいことに涙が出た。その景色があまりにも美しかったからだろうか。もしかしたら、俺はまだこの世界に少しながらも期待を消しきれずに残しているかもしれないと、はじめてそう思った。


2.菫

後ろから何かが飛んできて私の後頭部にぶつかる。つまらない授業の始まりと同時にいじめは始め、後ろからげらげら笑う声が「もっと大きなもの投げてみて」と呟く。自分も知らないうちに呼吸が乱れ、視界が霞む。目を開けたのか瞑ったのかわからなくなり、飲みかけの牛乳パックが頭に向かって飛んできて、中身を散らかしては教室の床に落ちる。先生にも十分見えているだろうに、一人で30分間教科書を読んでいた先生は私の方をすっとみてはまた教科書へと視線を回した。お節介をやいても面倒になるだけ、という思いは十分理解できるけど、少しは苦々しい気分になるのも仕方がない。古い天井のスピーカが雑音の混ざったチャイムを吐き出すと、先生は逃げるように教室から出て行き、悪戯をしていた連中が私の席へ寄り添う。


「おい、無視してんの?」


イラつく声が耳の中を深く潜り込んで頭を下げた。奴らが隣にいるだけでどんどん心臓が早く脈打ち息をするのがきつくなる。目の前がくらくらと回り、頭が割れるかのように痛い。


「無視してんじゃねぇよ」


その声とともに視界が回った。頬が熱くなる痛みは少し遅れて訪れる。答えようとする声は蹴られた机にお腹をぶつかってしまうせいで再び喉の中へと飲み込まれた。両腕でお腹を抱え喘ぎ声を出すと、奴らは面白そうにゲラゲラ笑いながら教室の外へ出た。苦痛が治り、呼吸も視界も元通りに戻ると机を元の位置へと運んだ。髪を触ってみると、


白い牛乳が手についた。喉の奥から漏れ出すため息を口の中にだけ含んではトイレで髪を水で洗った。こんなのが私の普通の日常だ。人から見たら残念かもしれないけど、そんな半端な同情よりは無視の方がマシだ。


こんないじめが繰り返し、授業が終わった後になってから学校から抜け出せた。いつからこんないじめがはじめたんだっけ。よく思い出せなくて家に向かう途中思い出そうとしてみた。体育の時間に体調を崩し教室で休んでいた間、誰かがものを失くしてしまって私が犯人として指目された以降だったっけ。そういえば、そのなくしたものってなんだっけ。見つかったかな。分からない。よく思い出せない。まぁ、今になってはそんなのはどうでもいいけど。


校門を出ると大声で騒ぐ生徒の声が聞こえてくる。理由もなく体が怯んだ。葉っぱが落ちた寂しい木々が並んでる道を一人で歩き、その時になってはじめてため息が漏れ出す。単調な柄の歩道ブロックを沿って玄関に至ると、騒がしい音がドアの隙間から聞こえてきた。ウンザリとした音に、自然に頭を抱え今日もかよ、とブツブツ呟いてドアを睨んだ。入っても私に火花が飛ぶのは火を見るように明らかだったので、まずはドアの前に立って盗み聞きをした。なにかが壊れる音に混じり、いくつかの単語だけが微かに聞こえてきた。離婚がどうとかなんとか、子供は誰が責任を取るんだとか。親という人間がお互い私のことを養いたくないと責任を転嫁していた。耐えきれないような怒りが喉の中で沸騰したが、結局吐き出すことなく喉の中で冷めてしまった。代わりに、はは、という間抜けな苦笑いだけが怒りから取り除かれた。いつも寒いここの夜だけど、今日に限ってもっと寒く感じられ、時間が経つにつれて心も体も少しずつ凍えはじめた。玄関から背を向け目的もなく歩いていたら風景は近くの子供公園に変わっていた。誰もいない公園は静かで、微かに月明りを受けキラっと光るペンキの剥がれたブランコに腰掛けると、荒涼とした公園の姿が一目に入った。毎回、公園を訪れる度に昔のことを思い出す。いや、実は一日たりとも忘れたことなどなかった。不幸ずくめの人生というのは、案外子供の頃の思い出一つだけでもなんとか生きていくものだから。


私が世界を見つめる視線が今よりもはるかに低かった時のことである。その時から続いていた家庭不和のせいで私はよく夜遅くまで一人で子供公園に残っていた。その日もいつものように、夜遅くに公園に向かった。その日は、私以外にももう一人の男の子が先にブランコに座っていたことが、いつもとは違うところだった。キイーキイーとなるブランコの音と、虫の鳴く声の間で、彼が口を開けた。


「こんな時間までなにしてんの?」


そんなあなたこそ、と言い返してやりたい気持ちは押さえ込んでおいて、私ははじめてみるこの子に自分の状況について話してもいいかどうかを悩んだ。考えてみたけど、敢えて初見の人にそんな話をして同情されたくはなかった私は適当な返事をした。


「別に何もしてないよ。そんなあなたこそこんな時間までなんでここにいるの?」


その子は凛々しく笑いながら答えた。


「星を見にきたんだ。」


自慢げに首にぶら下がった双眼鏡を持ち上げながら彼は答えた。


「君も、一緒に見る?」


付き合いの悪い私にはその質問にどう答えればいいかわからなかった。もじもじと立ち尽くしている私の手首を、彼は掴んでくれた。


「一緒に見に行こう。きっと楽しいよ!」


私を引っ張るその手は、まるで魔法みたいに私の足をふわりと宙に浮いているかのように軽くした。雲の上を歩く感じで、私は彼の手に導かれ走った。実に久々に私に差し出されたその手は、温もりで満ちていて私の冷えた手を暖かく包んでくれた。


「ねぇ、どこいくの?」


どれだけ走ったんだろう。息がつまることも気づかずに彼に聞いた。


「僕だけが知ってる、いいところがあるんだ。」


その子は私を連れて近くの森の中へと歩いて行った。夜の森は、まるで童話の中と繋がる通路みたいで心臓がドキドキした。普段なら怖くて近くに寄ることすらないような暗闇の中だったけど、おかしなことにその日は全く怖くなかった。一歩、もう一歩木々の間に繋がる道を歩く途中、彼が足を止めた。キョトンとしてる私に、彼は魔法の呪文を唱えるように言った。


「ここは僕だけが知ってる秘密基地なんだ。今から目をつむってみて。」


彼の言葉に、私は目をぐっとつむった。彼は一歩、一歩私の手を引っ張り歩き出した。心臓が壊れるほどに早く脈打った。


「さあ、もう目を開けて。」


私は瞑った目を開けた。彼が私を連れてきた場所は森の真ん中に捨てられたベンチがぽつんとおいてある空き地だった。彼はベンチに座り、私に向けて手招きをした。彼の横に並んで座って空を見上げると、青黒い紙に、砂糖みたいに星たちが散らかしていた。そういえば、星を見るのも久しぶりだねーと思った瞬間、彼が私の目の前に双眼鏡を突き出した。はじめて望遠鏡で見上げた星は、それぞれの色を放っていた。


「どう?素敵でしょ?」


彼は自信満々な声で私に言った。あまりに美しい光景に、私は答えの代わりにわあーという歓声をあげながら頷いた。彼は星座を探す方法を教えてあげるといい、空に向かって指を指した。


「春の星座探しは、北斗七星を探すことからはじめればいい。」


「ほくとしちせい?」


聞いたことはあるような名前だったけれども、正確にどんなかたちをしているのかは詳しくわからなかった。私が困った表情で首を傾げると、彼は適当な木の枝を持って地面に絵を描いた。


「こんな感じ。じゃ、直接探してみるとするか。」


私と彼肩を触れ合わせながら夜空を見上げ、北斗七星を探した。彼が先にあそこだ!といいながら指で空を指した。彼が描いたのと全く同じかたちで星たちは浮かんでいた。


「北斗七星の中で、あの星はアルタイルというんだ。」


「どれ?」


「あれ。もっとこっち来てみて。」


ほぼ顔が触れ合うまで彼との距離を縮めると、なんだか体がくすぐったかった。彼は続けて星座を探す方法を教えてくれた。


「で、アルタイルから下へいくと、明るい星が見えるはずだ。あった。あれがうしかい座のアルファ星、アルクトゥルスだ。」


聞き慣れない名前に、いってみようとしたが舌を噛んでしまった。彼はにっこりと笑いもう一度ゆっくり星の名前を教えてくれた。


「あ、る、く、とぅ、る、す」


「アルクトゥルス。」


なんだか魔法の呪文みたいな名前だね、と素直な感想を述べると、彼はははっと笑いそうだね、と答えてくれた。


 しばらくの間、私たちは星を眺めていた。虫の鳴き声が、会話の空白を埋めてくれた。集中して夜空を見上げていた彼は、腕時計をみてはあっ、と声をあげた。


「もう12時だ。そろそろ帰らないと。」


今まで日が変わる時間まで起きていたことは新年を迎える時のことぐらいで、はじめて外で新しい一日を迎えたという感覚が不思議に感じられた。


 そうやって彼は次の日もその次の日も公園に現れ私に星座を探す方法を教えてくれた。親の喧嘩も、学校での寂しさも彼といれば忘れられた。そんな時間が永遠に続くのだろうと、子供の私は勝手に信じていた。


「多分一緒に星見るのはさ、明日で最後になると思う。」


春が本格的に訪れ晴れる頃、彼は星を見ながら私にそう言った。その言葉が何を意味するかを飲み込むのには、少し時間がかかった。


「なんで?」


「引っ越しすることになったんだ。」


「そうなんだ…」


そう言ったものの、納得しづらかった。彼がいなくなれば、星を一緒に見られなくなれば、私はどうやって過ごせばいいだろうか。泣きたかったけど、彼の前で弱いところを見せたくはなかったので我慢した。代わりと言ってはなんだけど、私は彼の手を折るかのようにぎゅっと握りしめた。私の気持ちが伝わったのか、彼も手を握り返してくれた。私を横目に見ながら、彼は口を開けた。


「なぁ、星見るの、楽しかった?」


うん。とっても。できる限り感情を隠しながら淡々と言った。


「よかった。はじめてお前を見たときにさ、全部なくした顔をしていたから、忘れにくいものを一つ作ってやりたかった。」


確かに、それは正解だった。私から多くのものを諦めさせた人々も、この思い出だけは手を出せなかった。


「明日さ、プレゼントを一つやるよ。何があっても明日は絶対来るんだぞ?」


彼は逸らした視線を再び私に向けながらそう言った。そして、小指を差し出した。彼の小指に私の小指をかけると、彼は私ならば一生作れなさそうな笑顔で返してくれた。


「こんな時間までなにしてたんだ。」


12時を過ぎて家に帰ったらいつもは酔っ払っているはずのお父さんが、その日は門番のように立っていた。酒臭いお父さんの後ろに、嵐が来たかのような家の光景が目に入った。何も言わずに顔を背けると、お父さんは私の髪を掴み頬を叩いた。涙が漏れそうだったけれど、必死に堪えた。それがなお気に食わなかったのか、彼は私を蹴り飛ばしては私の髪を掴んだままトイレまで引っ張ってその中に私を投げておき、外から鍵を閉めた。明日までここから出るな、と父はそう言い残してトイレから遠ざけてしまった。トイレに閉じこまれるのがはじめてというわけではなかった。でも、明日まで出られなければ、彼とはの約束は守れない。そう思うと、それまで堪えてきた涙が一気に流れた。さよならもちゃんと言わずに、私の大切な思い出はそうやって結末を迎えてしまった。


今になっては彼の顔はぼやけてよく思い出せない。ただ、彼が世界で一番眩しい笑顔の持ち主であったことを微かに覚えている。その笑顔は私のすべての苦痛を消し払ってくれるし、幸せな夜を過ごせるようにしてくれて、その子についての思い出はどんどん美化される一方だった。いつからだろう、私は顔も名前も知らない彼のことを好きになった。今までも、もし会えたら絶対気づけると信じて、苦しみだけのこの人生を一日、もう一日耐え続けはじめた。その思い出一つだけを掴み、やっと生きていくのである。長く息を吐くと煙のようにふらふらと散り去っていった。あと2年。と独り言を呟いた。私が20歳になれば、この地獄みたいなところから抜け出してやろう。誰も私を知らないところで、はじめからやり直すために。


古いアパートの廊下をこっそり歩いてドアを開けた。家の電気も入ってないし、なんの音もしないから両親は寝ているか、どこか出ていったんだろうと思った。しかし、私の予想とは裏腹にドアを開けた瞬間見えたのは一人でテーブルに座り酒を飲んでる父の姿であった。


「こんな時間までなにやってんだ。」


その言葉から酒の臭いが感じられた。


「宿題。」


なるべく短く答えて部屋に入ろうとしたが、父が菫、と本当に久々に私の名前を呼ばれた。普段なら名前すら呼ばない父の様子に違和感を感じ振り返ると、父は手招きをした。テーブルに座り父と向かい合ったが、すぐ視線を逸らした。そんな私を見て、父はふん、と鼻であしらいもう一口酒を飲んだ。


「お前は父さんと母さん、どっちと生きたいんだ?」


別に期待して聞いたわけではなさそうだったけれど、父の口から出た質問の割には非常に正常的な質問だったので少し慌ててしまった。割れた「俺もお前の母もお前をまともに育てられなかったことはすまない。」


瞬間、自分の耳を疑ってしまった。そんなことをいうような父ではない。もし心中でも考えているんだろうかな。そんなことまで浮かんでしまって父の顔を察しようとしたが、父を見るだけでも気が狂いそうだったので、やめることにした。父はそんな私を気にもせず続いて言った。


「これからも多分お前をまともに育てられないだろうと思って、お前を施設に任せることにした。」


というのが、私と父との最後の会話だった。会話と呼ぶにはいささか一方的な気もするが。それを最後に、私が親と話し合うことなどもう二度となかった。


暗くてよく見えないせいで、あっちこっち手探りながら狭い部屋の中に入った私は、さっき父が言ってた言葉の意味を考えていた。施設に任せることにした、ということはもう嫌なことだらけのこの家から出られるということを意味するのかな。ふと、私はこの家でどんな存在だったのだろうか、という疑問が沸いた。やっぱり面倒な重荷に過ぎなかったのかな。そんなことを思いながら天井を見上げた。そこには、家庭が壊れる前の頃に親と一緒に張った蛍光の星のステッカーが剥がれそうになっていた。多分、あの頃の私は今の私より愛されたんだろう。未来の自分がこの家から追い出されることなど、想像もできずに、他の子供と何の変わらない心配のない日々を過ごしていたんだろう。あの頃には戻れないのかな。まるで苦々しい薬を飲んだような気分になってしまって、もう寝ることにした。暖房がよく効かない部屋だったので、体をできる限り丸めて目を閉じた。


 朝、腰の痛みを感じながら目覚めた。起きて伸びをする途中、机の上におかれたメモが目に入り目をこすってメモを持ち上げた。内容は青少年保護センターの住所と、今日の午後の9時までは行かなければならない、ということだけだった。それだけで、あんまり実感が沸かなかった。カップ麺で適当に朝飯を済ませ、荷物をまとめて外に出ると、街は夜の間降った雪で覆われて銀世界を広げていた。世界のほとんどが白い雪で覆われて、まるでよくできたスノーボールみたかった。吹いてくる風に雪が飛び散り光った。そんな感想を抱いて歩く途中自分も知らないうちに足が止まった。街と同じく雪で覆われた公園の様子が普段とは少し違った。近寄ってみると、工事中というテープが公園を私の思い出と断絶させていた。それまで漠然と抱いていた思い出のあの子と再会できるという期待もテープが貼られ、保っていた感情が一瞬で崩れてしまった。工事中の子供公園で泣いている女子高生なんて、どんだけおかしくみえるだろう。ということは自分も承知の上で、歯を食いしばり涙を止めようとしたが無駄だった。私の涙は冷たい冬風に止むことなく凍えていた。泣き崩れた私は、雪のせいで服が濡れることも気にせずそこらへんのベンチに座り込んだ。涙の跡が乾かないうちに、誰かが遠くで立って私を見つめていたことは気付かずに。


3。翔

この町に来るのは本当に久しぶりのことだった。隣町とは言え、なんの変哲も無い町だからこれまで寄ったことは一度もなかった。弱10年ぶりの町だったけれど、見る限りでは何一つ変わらない町は自分を待っているかのようだった。久々に町を見て回りたい気もしたが、俺は幼い頃の思い出を探してこの町に来たんじゃない。ここに住む頃はあったかも知らなかったけれど、俺が行かなければならない青少年センターがこの辺にあるらしい。予約した時間まであと少しだったので急がなくちゃならなかったかせれど、寄ってみたいところがひとつだけあった。今はやめたけど、子供の頃は一人で星を見るのが好きだった。俺だけの知っている秘密基地に唯一足を踏み入れたあの子を思い返しながら到着したところは、工事中の子供公園だった。今あの子はどんな生き方をしているんだろう。名前も顔も思い出せないけれど、その歳に相応しくない悲しい目だけが朧かに浮かんだ。その瞳に再び光が戻る頃、私は彼女と別れてしまった。さよならもまともに言えずに。


もし、俺が今偶然あの子とすれ違ったら、俺はその子だと気づくのだろうか?という疑問は日々が過ぎるにつれ薄れていった。人間というのは、誰しも一つや二つ、そんな子供の頃の思い出を持ったまま生きていくものだから。俺の思い出もそんなに特別だとは思わない。それは、多くの花が咲いている花畑の一本の花のように、目立つことも大きな意味を持つこともなく萎んでしまった。それでも、時々「期待しない」という誓いが揺らぐ日には、自分も知らないうちに骨張ったあの思い出を日が沈んで街灯がその光を代わるまで眺めてしまう。


そんな思いに浸っていると、風が吹き、何かが触れたような気がした。下を向くとメモに見える紙くずが置かれていた。持ち上げたらなんらかの住所が書かれていて、俺と同い年に見える女の子が俺をじっと見ていた。


「これ、君の?」


彼女に髪を差し出したら、彼女はそれを遠慮がちな態度で俺の手から取った。そして消えそうな声でありがとうございます、といって俺から離れていった。


そういえば、あの住所どこかで見たような…確か、俺が今向かってるセンターの住所だったような気がする。ということは、彼女も俺と同じく心の中のどこかが壊れているのだろうか。と相応しくもない憐憫を感じた。しかしすぐ首を横に振っていつもの自分に戻った。まあ、彼女のどこが壊れていようが、どうせ俺とは関係のないことだ。大体、誰が誰を心配すると言うんだ。大きなお世話だ。そう思った俺はセンターに向かう足を急かした。


 終業式の日、雪のせいで少しじめじめとした雰囲気の教室には、先生の最後の訓話が続いていた。少し寂しそうな顔でさようならを告げる先生を後にした俺は、こんな時間なら誰もいないだろう、と思える時間帯にもう一度教室に向かった。


 特に理由があったわけではなかった。誰かに会おうとしたわけでもなくて、強いていうなら誰とも会いたくなかったから学校に行った。生き生きとした生徒でいつも活気溢れる学校は、いつでも大きな悩みや不安を忘れて笑い飛ばせる場所としてほとんどの生徒の記憶の中に残るだろう。しかし、一人ぼっちの俺には、もう学校は楽しい場所ではなかった。いつも、騒がしい雑音の中で一人で寂しさを噛み砕いた場所だった。だから、とでもいうべきだろうか。誰もいない、静寂に包まれた学校に、一度だけ来てみたかった。


 誰もいない学校は確かに寒かった。生徒で満ちた教室はどんなに寒い天気だろうと、いつの間にかほかほかとした空気を帯びていた。そんな温もりは、きっと温度計では測れない暖かさであろう。そんな温もりの消えた空間で、俺はその日の朝まで自分の席だったところに座り、両手を固く結んで机の上に置き、透明な空に流れる雲をただ見つめていた。俺はこの教室で一体何を得たんだろう。何の存在だったんだろう。こんな感想を分かち合える友達一人すらいないことに気づいてしまった。寂しくない。怖くない。慣れてるから。自分に繰り返し暗示をかけてみても、心はすでに涙を流していた。捨てられたカッターが目に入ったのは、その時だった。


 


 その日の夜、皿洗いをしていた途中、俺の袖が濡れるのを見た母が袖を捲くるせいで手首の傷をばれてしまった。赤い糸のような傷が重ねているのをみた両親は、偶然できた傷という俺の言葉を聞き流し、次の日にすぐセンターに電話をかけた。俺がこうなったのは全部自分たちの責任だと、親はそういった。明白に自分一人で沈んでいたのにもかかわらずに。俺は両親に相談の日程を告げられ、その日まで大人でも子供でもない曖昧なこの瞬間を無気力に過ごしていた。


 降り積もった雪があっちこっち踏まれアスファルト色に染まった道を歩き、ようやくセンターについた。相談の先生が出した設問の数百の項目にチェックをし、相談を受けた。先生はいい人だったかも知れないけれど、誰に相談を受けようが、別に役には立たないだろうと勝手に思い込んでいた俺は適当な感じで相談に臨んだ。今すぐにでも帰りたかった。親にとぼけてゲーセンでもいくか、という考えが頭の中をいっぱいに満たす頃、相談室のドアが開け、一人の女の子がひそかに頭を突き出して中を覗いた。よく見ると、さっき紙を拾ってくれたあの子だった。彼女はそっと頭を突き出したまま、俺と先生を見つめていた。10分後に来てくれる?という先生の言葉に、彼女は無言で頷いてはドアを閉めた。それを聞いた俺は、後10分でいいか、とほっとしていた。相談が終わり開放感を満喫しながらドアを開けるとずっとドアの前で待っていた彼女が驚きながらドアから離れた。挨拶すべきなのか、一瞬迷ったけど、彼女がすぐ相談室に入ってしまったせいで結局俺はふらふらとセンターを出た。人より駄目な人間だ、と判明されたような気分になり、実はみんな俺みたいに生きているんじゃないかな、というボロボロになった期待を捨てて憂鬱な気分で家に向かった。


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