Episode 5:路地裏の花
――そこは、光と活気のるつぼのような街だった。
両端にそびえ立つ、天を衝くように高い建物の群々。左右の建物を繋ぐように頭上に張り巡らされた鉄製の橋。ところどころに赤い紙を貼ったカンテラのような物体や、建物の壁面を彩る管状のランプのような装置の中には、月融けの灯にも負けない色とりどりの光が充満して、辺りを煌々と照らしている。
正面に伸びる道や頭上の鉄橋を行き交う人々は、皆ヘンリエッタが見たことのない服装をしているし、地上にあるいくつかの出店からはヘンリエッタの知らない食べ物の匂いが漂ってくる。
店主の呼び込みの声、客の雑談、行き交う人々の会話。こんなに賑やかなことはブリオングロードでは年に一度の祭りの時くらいだ。
それに――なんといっても一番驚いたのは見上げた建物のその先。
地下のはずなのに空があるのだ。しかもその空は黒に薄い紫や、青や、白を混ぜたような、何とも言えない美しい色に染まっていた。
「ようこそ、『暁 闇 街』へ」
「暁闇街……?」
その言葉に首を傾げるヘンリエッタに、ナイトレイはそう、と頷き、ゆっくりと歩き出す。
「ここは地下の街。陰の刻にしか入れない街。
何故地下なのに空があるのか、いつからここがあるのか、なぜ影獣がいないのか。それは誰も知らない、わからない。
でも、この世界には時々こういう場所がある。地下じゃなくても、どこかのアパルトメントの屋上だったり、誰も入ろうとしない空き地の、立ち入り禁止の立て札の向こうだったり。
ここは入り組んでるから迷いやすい。気を付けて」
その言葉に頷き、ヘンリエッタは歩きながら辺りを見回す。
そういえば、彼の言う通り先ほどまで何百と湧いて出てきた影獣をここでは全く見かけない。
「あの空の色、夜が明ける前のあの色が、影獣を抑制しているのかもしれない」
「貴方は、”夜明け”を知っているの……?」
“夜明け”。その言葉にヘンリエッタは目を丸くする。
夜が明けるだなんてお伽話だ。実在するものじゃない。それなのに彼は、まるで夜明けを見たことがあるように話す。その様子にヘンリエッタは少しだけ違和感を覚えた。
「……一度だけ見たことがあるよ。その後すぐにカーテンは閉まってしまったから、朝とか昼とか、それは知らないけれど」
淡々としたナイトレイの言葉に、思わず感嘆の息を吐く。
「夜明けって、本当に存在するのね……」
夜が明けた世界。その世界はきっと、ガス灯なんてかすんでしまうくらい明るいのだろう。
想像するだけでわくわくして、心が浮き立つようだ。童話の王子様とか、魔女とか、そういったものと実際に出会ったような気分だった。
そんな夢見心地のまま歩いて数分、はっと気づいて視線を正面に戻すと、そこにナイトレイの姿はなかった。
「あ、あれ……」
原色の人いきれの中であの漆黒の長身はとても目立つから、見落とすはずがない。
――はぐれてしまったのだ。ヘンリエッタはぞっと蒼褪めた。
はぐれないように、迷わないように気を付けてと、あれほど言い含められていたのに。早く探さなければ彼に迷惑をかけてしまう。
焦りからやみくもに駆け出そうとするが、小柄なヘンリエッタはすぐに人波に飲まれ、あらぬ方向へと流されていく。
そのまま抗うこともできず流され続け、ふと気が付くとヘンリエッタはどこかの路地裏に立っていた。
生ごみと下水の饐えた匂い。表通りとは逆にどんよりとして薄暗く、時折視界の隅をドブネズミが横切っていく。
ここは危険だ、そう察知し、通りへと踵を返そうとするヘンリエッタの前に、突如数人の男が現れた。
ねっとりと嘗め回すような下卑た視線と、壁際に追い詰めようとする仕草。投げかけられる言語はヘンリエッタの知らないものだったが、その態度や風貌から明らかに人攫い――もしくはもっと悪い何か――だろうと感じ取れた。
すぐさま逃げようとするも、後ろは壁、前は男達が包囲していてとても逃げられそうにない。なにより、足が竦んでしまっている。
男達はしばらく言い争っていたかと思うと、リーダー格と思しき男が何事かを捲し立て、ヘンリエッタの腕を乱暴につかんだ。
「や、やめて……!」
必死に抵抗するも、ヘンリエッタの力では到底振り払えるはずも無く、男達はどこかへ歩き出そうとする。
闇の中でも、影獣を見た時も、こんなに不安で恐ろしいことは無かった。それはきっと隣にナイトレイがいたからで――自分は、彼がいなければ何もできないのだ。
悔しくて、不甲斐無くて、思わず唇を強く噛む。
こんなところで立ち止まっている場合ではないのに、早くナイトレイを、クラリッサを見つけなければ。
血が滲むほどに唇を噛みしめ、意を決して目の前にいる男のすねを思いっきり蹴り飛ばす。
腕の拘束が緩んだのを感じ取り、全速力で奥の道へと駆け出した。
背後から怒号が飛び交い、男たちの荒々しい足音が聞こえてくる。
後は振り返らずに走り続ける。たとえうまくいかなくても、何もせずに終わってしまうことは絶対に嫌だった。自分は何もできない、何もしていない。だから何か、一つでも自分自身で為さなければ――!
じわじわと目元に熱が集まり、その熱が雫になって零れ落ちていく。胸が刺すように痛くて、足ももつれはじめる。焦る心を裏切るように体は限界を訴えていて、背後からは男達の罵声がどんどん近づいてくる。
「っあ……!」
何かにつっかえる感覚と、少しの浮遊感。
足元のゴミに躓いて転びそうになる直前、ヘンリエッタは柔らかい布と、花のような甘い香りに包まれた。
2018/09/10
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