Episode 3:月融けの灯
静まり返った路地に二人分の足音が響く。
一つは硬く鋭いヒールの音、もう一つは小さく軽い少女の靴音。
あの後、ヘンリエッタが泣き止むのを待って青年は何処かへと歩き出した。
「ついてきて」
とただ一言だけ告げて。
どうやら街の郊外に向かおうとしているようだったが、住宅街である中心部付近にしか足を運んだことのないヘンリエッタには行先の見当もつかなかった。
ガス灯は消え、月も星も無く、辺りは漆黒の闇に包まれている。
青年の白いブーツだけが淡く光るように浮かんで、ヘンリエッタはそれを頼りに歩いていた。
目を閉じているような闇と時が止まったかのような静寂の中で、青年と自分の足音だけが響く。あの悪夢に少しだけ似た状況での沈黙に耐え切れず、ヘンリエッタは恐る恐る口を開いた。
「あの……」
「なに?」
足を止めず、視線も向けず、しかし声音だけは優しく青年は問い返す。
拒絶されているわけではないらしい――いや、心の中では彼が自分を拒絶するわけがないとわかりきっているのだが、それはそれ。ヘンリエッタの理性の方が、未だ彼を少しばかり警戒してしまっている。
「な、名前を……訊いていなかったと思って。その、不公平でしょう、貴方だけ知っているのは」
つい、しどろもどろと言葉を紡ぐ。年上の若い男の人と話したことなんてほとんどないんだから仕方ないじゃない、なんて胸中で誰にでもなく言い訳をしながら。
ヘンリエッタの様子などつゆ知らず、青年は少し考え込むそぶりを見せた後、一言だけ返す。
「――ナイトレイ」
「……Knight ley?」
訊き返すヘンリエッタに青年――ナイトレイは首を横に振り、訂正する。
「Night ray」
「それは苗字?」
「そうだよ」
簡潔に答え、ナイトレイは一瞬だけ視線を背後のヘンリエッタへと向ける。
「でも名前はまだ言わない。君が僕のことを思い出したら名乗るよ」
思い出したら、ということは、やはり自分と彼はどこかで会ったことがあるのだろうか。ヘンリエッタは思案するが、まさかこんな人外じみて美しい男の顔を忘れるほどヘンリエッタの記憶力は酷くは無い、と思う。
――しかし、ナイトレイという名は、どこかで聞いたような。
と、急に立ち止まったナイトレイが、突如後ろ手にヘンリエッタの服の袖を引く。
「あれ、見て」
と指差す先は、当然ながら漆黒の闇だ。
ヘンリエッタに見えないだけでナイトレイには何かが見えるのだろうか。そう思った瞬間、その瞳に光の洪水が飛び込んでくる。
漆黒の空に相反するように、地面から光が溢れ出す。
それは地から湧き出る水のように、天へと芽吹く幼い木々の群れのように。
ぽつぽつと地表へ染み出した光はガス灯の柱を伝い、子猫が丸くなるようにくるりとその姿を変え、ガラスの中でふわりと漂う。
同じようなことがそこかしこで起こって、ついには全てのガス灯に色とりどりの灯りが点った。
「わぁ……!」
おとぎ話の中の魔法のような出来事に、思わずヘンリエッタは感嘆の声を漏らす。
それを眺めながら、今は表に出ないで、とナイトレイは呟く。
「月融けの灯。月の刻と陰の刻が切り替わる時に起きる現象だ。人工物にどこからか光が宿って、周囲を照らす。
あの光、見た目は綺麗だけれど、君が触れると火傷をしてしまう。だから、地面の光が収まるまで少し待っていて」
その言葉にこくりと頷き、またヘンリエッタは光の奔流に見入る。
こんなに美しい世界があることを、なぜ自分は――否、なぜ世の人達は知らないのだろう。
彼女の思考に答えるように、ナイトレイは「そこの街灯の下を見て」と指を向ける。ちょうど二人の真正面にある、黄緑の光が点ったガス灯だ。
だいぶ光の収まった白い石畳から、ずるずると何かが這い出して来る。狼のような漆黒の身体から粘性の影を落としながら、きぃきぃと錆びた金属が擦れるのにも似た不快な音を鳴らして。瞬きをするようにその身体中を移動するいくつものぎょろりとした目は、獲物を探すかのように爛々と輝いていた。
「影獣――!」
思わず呟いたヘンリエッタに、ナイトレイは静かに頷く。
「そう。影獣。君達が何よりも恐れる闇の獣。
あれは、ただの闇から現れるんじゃない。月融けの灯が照らす光の、その間隙の闇から現れるんだ」
会話の間にもその数はどんどん増え、路地から見える限りでも片手では足りないほどにまでなっていた。
「ど、どうするの……?」
影獣は月光によってのみ討伐される。人の手による武器では全く歯が立たず、人工の光でも意味はない。月融けの灯も同様らしく、街灯の下であっても気にも留めず蠢いている。
ヘンリエッタには走って逃げる程度の選択肢しか思いつかないが、影獣が見た目通り狼ほどの身体能力を有している可能性を考えると、それは得策とは言えないだろう。
顔を曇らせるヘンリエッタに、ナイトレイは「任せて」と一歩前に進み出る。
「言っただろう。必要な事柄は、全て僕が知っていると」
――ナイトレイ、Night ray、夜の光。
名前は自分で決めていいと言われたから、何時間もベッドの上で悩んでいる。
傍らに本を何冊も積み上げて、ページをぱらぱらとめくって。
カーテンの隙間から床に差し込んでいた――オレンジとか黄色とか緑とか、そういう色の――光は、いつの間にか柔らかな白い光に変わっている。
もうカーテンを開けてもいいだろうか。外に出ても良い時間だろうか。
少しだけそわそわしながら、もう一枚ページをめくる。
と、一つの単語が目に留まった。
うん、決めた。一人で頷いて満足げに本を閉じる。
綺麗な名前だし、由来も悪くない。苗字にもぴったりだ。
明日になったら名前の話をしよう。きっとあの人は褒めてくれる。