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07 月の女神

 菜苗は仁史とともにタクシーに乗る。車内で、仁史はさきほどの四人について説明した。さらに今、手がけている無重力ピアノについても教える。彼はよい仲間に恵まれて、仕事も順調そうだ。閑職に追いやられたというのは、デマだろう。

「月に来てから、TSUBAKIのアコースティックピアノは弾かれましたか?」

 仁史はたずねる。

「はい。私の勤める音楽教室では、教室内のピアノはほぼTSUBAKIのものです。経営者がTSUBAKIのファンなのです」

 菜苗はほほ笑んだ。経営者がTSUBAKIのファンなのは、ただの偶然だった。仁史はうれしそうに目を細める。

「ありがとうございます。それでピアノの弾き心地は、どうですか? 地球で弾くときと、ちがいはありますか?」

 地球と月では、重力がちがう。だから地球対応と月対応ピアノは、微妙にちがうのだ。

「月に来て、初めてピアノを弾いたときは、多少の違和感を覚えました。しかし今はありません。弾き心地の違和感よりも、湿度のちがいによる音の変化の方が、私には大きかったです」

「そうですね。月面都市はどこも乾燥しています。さらに季節なんてないから、常に一定の温湿度。ピアノを含め楽器には、月の方がいい環境かもしれません」

 仁史はにこにこ笑う。彼は本当に楽器が好きだ。彼の家には、ピアノやバイオリンはもちろん、ギターやウクレレ、タンバリンに小太鼓にシンバルまであった。防音設備も完璧だった。

「実は、月対応アコースティックピアノを最初に開発したのは、わが社です」

「存じています」

 菜苗はうなずいた。

「また、わが社は、月対応アコースティックピアノのシェアナンバーワンでもあります。ですが今は、ほかの会社もピアノを作っています。そして、わが社のピアノはまだ改良の余地があります」

 仁史は窓の外を見た。菜苗も目をやると、ギターケースを背負った若い男女が、街を歩いている。十代の学生のようで、楽しそうにしゃべっている。

「これからさき、月ではどんどん人口が増えます。新しい月面都市が、次から次へと建設されています。娯楽、教養のための楽器はもっと売れるでしょう」

 仁史は、街の景色を眺めながら言った。完成したばかりのこの都市は、建物も道もとてもきれいだ。今はひょろひょろしている小さな街路樹たちも、十年後には太く立派になるだろう。

「私はもっといいものを作りたい。月でも宇宙でも、すべての人が音楽を楽しめるものを」

 仁史の声が静かな熱を帯びる。こんな真剣さは、日本にいたときの彼にはなかった。菜苗と別れたとき、彼はまだ十八才の学生だった。仁史は菜苗の方を向いて、にこっと笑う。

「よかったら、あなたの勤める教室の経営者を僕に紹介してください。開発中の商品のモニターをお願いするかもしれません」

 意外な申し出に、菜苗は驚いた。

「はい。メールで事情を話します」

 しかし楽器メーカーに勤める人間ならば、当然のお願いだろう。ましてや菜苗は、経営者はTSUBAKIのファンと教えた。仕事熱心で、一人前の社会人である仁史が、経営者とつながりを持ちたいと思うのは当たり前だ。

 菜苗はバッグから、小型タブレットコンピュータを取り出した。タッチパネルで、メールを作成する。菜苗の上司、――ガルシアミュージックスクールの経営者も、TSUBAKIの人間とつながれたことを喜ぶだろう。

 菜苗の心は、急速に仁史に傾いていった。せき止められていた川の水が解放されたみたいに。仁史が大人になったから。あるいは、強制されていた婚約がなくなったから。もしくは、仁史が御曹司でなくなったから。理由は分からない。

 けれど今、菜苗は仁史にひかれている。ならば、確かめなければならないことがある。菜苗はメールを送信すると、タブレットをバッグにしまった。自分の両手をしっかりと組む。これからするのは、勇気のいる質問だ。

「仁史さん」

 彼の顔を見つめる。

「あなたには今、恋人はいますか?」

「え?」

 仁史は驚いて、菜苗を見た。

「いないです。……菜苗さんこそ、……あの」

 ほおを真っ赤にして、目を泳がせる。気持ちが素直に顔に出るところは、仁史は変わっていない。菜苗はふんわりとほほ笑んだ。

「いないです。どうか私を婚約者ではなく、恋人にしてください」

 三年前と同じ関係には戻りたくない。復縁は望んでいない。菜苗は、新しい関係を望んでいる。仁史を愛し、仁史から愛される恋人になりたい。彼は目を丸くして、耳まで赤くして、口をぱくぱくさせた。

「でも私は、あなたにふさわしくないです。お金もありませんし、今住んでいる邸宅も、今月末には手放す予定です」

「私こそ、貯蓄を使い果たして無一文です。住んでいる場所だって、賃貸の集合住宅ですよ」

 菜苗は笑った。菜苗は、会社が社宅として提供しているアパートに住んでいる。

「あなたにはお金などなくても、あなた自身に価値があります」

「仁史さんだって、そうでしょう?」

 彼はまだ混乱しているようだった。菜苗から言い寄られると、まったく予想していなかったのだろう。

「今さら恋人にしてほしいは、無理なお願いですか?」

 菜苗は少し不安になった。婚約を解消してから、もう三年もたっている。仁史は、ぶんぶんと首を振る。菜苗の心に、安堵が広がった。と、同時に友人であるメイのことを思い出す。

「すみません。ちょっとの間、待ってください。友人にメールを送りたいです」

 メイは菜苗に仁史の家に行くように勧めたが、その一方で菜苗の身を案じていた。なので、護身用スタンガンを貸したのだ。もうスタンガンは必要ないとメールを送って、彼女を安心させたい。

 菜苗は再び、バッグからタブレットを取りだす。するといきなり、仁史に横から抱きつかれた。

「愛しています」

 ふりしぼったような声と、あたたかい力強い腕。

「あなたは私の女神です」

 菜苗はタブレットを車のシートに置くと、仁史を抱きしめ返した。

「私もあなたを愛しています。私はあなたに会うために、月へ来ました」

 空を見上げれば、そこにある。けれど、ものすごく遠い場所にあって、容易に行くことはできない。月が上がるたびに、菜苗は仁史を思い出す。ならば月へ行くべきだと思った。

 そして今、菜苗は月に、仁史の腕の中にいる。彼に請われるままに目を閉じて、初めての口づけを交わした。

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