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03 第三月面地底都市

 菜苗が今、生活する第三月面地底都市は六年前に完成したばかりだ。都市内は若い人が多く、活気にあふれている。

 菜苗は日本にいるときに、住居付きの就職先、――ガルシアミュージックスクールを見つけていた。メールで連絡を取り、内定ももらっていた。前職と同じ、ピアノ講師だ。第三都市は今、ベビーラッシュで、乳幼児向けの音楽教室がたくさんあるのだ。

(ピアノさえあれば、私は職に困らない。英語にもだいぶ慣れた)

 菜苗の新生活は順調で、今、困っていることと言えば父親だけだ。父からは、日本に帰れというメールがしょっちゅう来る。しかし菜苗は無視していた。そして父には電話で、二度と仁史に連絡するなと念を押した。

 三から五才児向けの集団レッスンが終わった後、菜苗はひとり教室に残り、気持ちよくピアノを弾いていた。大人向けの個人レッスンは、夕方の六時から始まる。だからそれまでの時間つぶしだ。一曲が終わると、

「ブラボー!」

 背後から陽気な声がした。振り返ると、同僚のピアノ講師であるメイが、拍手をしている。彼女とは、同世代同性、同じアジア系ということで、すぐに親しくなった。

「Thank you.」

 菜苗はほほ笑む。

「卵も牛乳もバターも、ほとんど手に入らない。つまりスイーツに関してはひさんなこの都市に、新しいケーキショップが開店しました」

 彼女はおどけて、ニュースキャスターのようにしゃべる。月面で、牛や鶏などの家畜を育てるのは難しい。結果として、肉や卵や乳製品はほとんど手に入らないのだ。

「しかもガルシアミュージックスクールのそばに。どんなものか、食べにいかない?」

 メイは楽しそうに誘う。

「腰が抜けるほどに値段の高いケーキ? それとも卵も牛乳もバターも使っていない、安くてまずいケーキ?」

 菜苗はたずねる。第三月面都市では、ほぼその二択だ。料理上手な人ならば、安くておいしいものを作れるかもしれない。が、できたてほやほやのこの街には、優秀な菓子職人はほとんどいない。

「さぁ?」

 メイはお気楽に、首をすくめる。

「メイが毒味をしてから、誘ってよ」

 菜苗はさっくりと断った。メイは顔をくしゃっとして笑う。

「いつも思うけれど、菜苗は慎重よね。月面移住だって、ちゃんと仕事と住居を見つけてから来たのでしょ?」

「もちろん。着の身着のままで月に来る人たちの気が知れないわ」

 今は宇宙移民ラッシュだ。人生一発逆転をねらって、月面に来る人たちもいる。

「大きな期待をして月に来て、すぐにホームシックになる人たちもいるしね。食事がまずい、野菜ばかりで肉がない、タバコが吸えない、地底都市で閉塞感がある」

 メイは天井を仰いで、ため息を吐いた。菜苗も苦笑する。

 月面都市は密閉された空間なので、タバコは吸えない。香水も禁止されている。さらに上を見ても空はなく、都市の天井があるだけだ。そしてその天井のはるか上、――月面地表上に宇宙港がある。港は地底都市と、長いエレベータでつながっている。

 つまり仁史は結構な時間と金をかけて宇宙港まで移動し、菜苗を出迎えた。なのに菜苗の態度は、そっけなかったのかもしれない。菜苗はぼんやりと考えこんだ後で、気分を変えた。メイに向かって、

「ねぇ、次の発表会で連弾しない? 私は、二人で弾くのが好きなの」

 ミュージックスクールの発表会は基本的に、生徒たちが練習の成果を披露(ひろう)するものだ。だが講師も、何か演奏しなくてはならない。

「いいよ。何にする?」

 そのとき、ジャズ風にアレンジされた「ドレミのうた」が流れてきた。ピアノの上に置かれた、菜苗の小型タブレットコンピュータからだ。

「ごめん。何かメールが来たみたい」

 菜苗はいすから立ち上がって、タブレットを取る。メイは余計なせんさくをしない性格で、さっと菜苗から離れた。部屋の別の隅で、ギターを取って弾き始める。彼女はギターやウクレレも演奏できる。

 菜苗がメールを見ると、差出人は仁史だった。菜苗は驚く。彼とは宇宙港のホテルでそっけなく別れたきり、何もなかった。つまり約一か月間、おとさたがなかった。

 どのような用件だろう。菜苗はちょっとどきどきして、メールを読む。読んだ後で、頭を抱えた。この微妙な内容は何だろう?

「どうしたの?」

 メイがふしぎそうに、声をかけてくる。菜苗は、話すべきかいなか悩んだ。が、結局話すことにした。誰かを頼りたい気分だった。

「昔、家族ぐるみでお付き合いしていた男性がいて、……男性と言っても、そのとき彼は子どもで」

 菜苗の要領を得ない説明に、メイは首をかしげる。

「実は婚約していたのだけど」

「子どもと?」

 メイはまゆをひそめた。

「うん。父の仕事の都合というか、政略結婚みたいなもので」

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