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02 元御曹司の追い出し部屋

 仁史の元婚約者は、とても美しい女性だ。黒真珠のように輝く瞳に、つやのある長い黒髪。すらりと背は高く、普通に歩いているだけで目立つ。

 五才のときからモデルとして活躍して、十才のときにはアイドルグループの一員として、かわいらしい歌や踊りを披露(ひろう)していた。十五才のときにはソロデビューを果たし、人気絶頂期にもかかわらず十六才で引退した。

「分からない、本当に分からない」

 TSUBAKI(つばき)コーポレーション本社の一室、――製品開発サポート課室で、仁史は頭を抱えていた。

「何がですか?」

 そばにいるのは、仁史のはとこで唯一の部下でもある義則(よしのり)だ。部下とは言っても、義則の方が一回り年上で、仕事のキャリアはずっと長い。

 二十一才の仁史は、父の経営していたTSUBAKIコーポレーションに入社したばかりだ。これから後継者として育てられるはずだった。

 が、父は旅客宇宙船に乗っているときに、宇宙ゴミ(スペースデブリ)衝突事故により急死。乗客ほぼ全員が死亡するという悲惨な事故だった。仁史と母は父の死を悲しみ、毎日泣き暮らしていた。するといつの間にか、仁史はマーケティング戦略部から昇進という形で追いだされていた。

(へ? なんで?)

 と、とまどっているうちに、仁史は新設された製品開発サポート課の課長になった。サポート課は、製品開発一課と二課を手助けする部署らしい。しかし実際には、仕事はない。つまり、元御曹司である仁史の追い出し部屋だ。

 また父の急死により、会社の役員は約半数が入れ替わった。そして今の役員たちの方が、優秀と評判だ。仁史の父は、人の話を聞かない独裁者でもあった。

(情けないよな。でも、もっと情けないのは僕だ)

 仁史の友人たちは、半分以上が仁史のそばから去った。一年以上付き合っていた恋人にも振られた。つまり仁史には、社長の息子という価値しかなかったらしい。

「会社のことですか? 昨日もお話したように、TSUBAKIにこだわるよりも、転職した方がいいと思いますよ」

 義則は冷静に言う。

「いや、そのことではなくて」

 仁史は否定した。確かに仁史は、転職を考えている。月は今、好景気だ。仁史は若く健康で、学歴も高い。すぐに新しい仕事が見つかるだろう。

 けれどTSUBAKIは、愛着のある会社だ。TSUBAKIは、楽器以外の製品も作って売っているが、基本的には楽器メーカーだ。

 仁史は、音楽も楽器も好きだ。同じ楽器メーカー、つまり競合他社への転職も考えたが、ふんぎりがつかない。しかし今、悩んでいるのは、それではない。

「実は僕には、婚約者がいたんだ。その女性が二日前に、僕に会いに日本から来た」

 意外な話だったのだろう、義則は目を丸くする。

「つまり、資産家の娘さんが押しかけてきたのですか?」

 大企業の御曹司と資産家の娘、よくあるパターンの婚約だろう。しかし仁史と菜苗の場合は異なる。

「ちがう。彼女の父親は、小さな会社を経営している。彼女自身は、ピアノ講師として働いている」

「ピアノの先生ですか」

 義則は意味深につぶやく。TSUBAKIの主力製品は、ピアノだ。すなわちピアノ講師は、何かと仲よくしたいお客様だ。

「しかしそれで、よく旅費が出せましたね」

 昔に比べればましとはいえ、宇宙旅行は金がかかる。

「ホテルでそれとなく聞いてみたが、今までの貯蓄を使い果たしたそうだ。ただ、この都市での新しい勤め先は決まっている。だから生活に困ることはないと言っていた」

「今までの生活を捨てて、月面移住ですか?」

「あぁ」

「思いきったことをしますね」

 月に来て、月の低重力に慣れると、地球には戻れなくなる。地球の高重力に、体が耐えられなくなるのだ。ただし筋力トレーニングを毎日かかさずにやれば、地球に戻れる。が、それをやれるだけの金と時間のある人はまれだ。

 つまり菜苗は今までの人生を捨てて、仁史に会いに来た。ふと見ると、義則がにやにやしている。

「情熱的に愛されていますね。よりを戻してあげたら、どうですか?」

「彼女はよりを戻したいと思っていない。僕は彼女に」

 嫌われていると言おうとして、仁史は悲しくなって、うなだれた。仁史は、菜苗は復縁を望んでいるのかもしれない、とちょっとだけうぬぼれていた。が、菜苗の答は、NOだった。予想していた答だったが、仁史はショックを受けて涙ぐんだ。

「余計なお世話と思いますが、なぜ婚約を解消したのですか? いや、それ以前に、いつ婚約していたのですか?」

「僕が地球にいたときだ」

「地球に、……え?」

 義則の顔は引きつった。

「婚約したとき、僕は十一才で、菜苗さんは十六才だった。彼女はアイドルで、僕は彼女の大ファンだった」

 仁史は、居心地の悪い思いで答える。仁史は小学生のときに、高校生のアイドルと婚約していたのだ。

「アイドルオタクだったのですか?」

「あぁ。今でも歌えるし、踊れるし、ピアノでもバイオリンでも弾ける」

 義則の顔は、よりいっそう引きつる。

「当時、僕の父は大企業のトップで、彼女の父は零細企業のトップだった。具体的にどんなことがあったかは分からない。だが父は僕のために、菜苗さんの人生を買った」

 自虐的な言い方をする仁史に、義則は顔をしかめた。婚約していたとき、菜苗はとても優しく、仁史の姉のようにふるまっていた。仁史の前では、婚約を嫌がるそぶりは見せなかった。だから最初、仁史は、菜苗も婚約に喜んでいると思っていた。

 けれど菜苗は、仁史の家に来るといつもピアノを弾いていた。自身のいらだちをぶつけるように、表に出せない悲しみを語らせるように。アイドルをやめたのは自分が疲れたからと言っていたが、実際はどうだか分からない。

(僕は父に、婚約を解消したいと言うべきだった)

 しかし仁史は、菜苗が好きだった。彼女を、ほかの男性に取られたくなかった。菜苗は魅力的な女性で、婚約が解消されたらすぐに恋人ができそうだった。婚約中でも、さまざまな男性から言い寄られていることが感じ取れた。

 だから仁史は、菜苗が影で涙していると分かっていても、婚約者として彼女を拘束し続けた。そんなひきょうな仁史を、菜苗は責めなかった。

「家族みんなで月に行くことになったとき、僕はやっと菜苗さんを解放した。だがそのとき菜苗さんは、すでに二十三才だった。僕はまだ学生だったけれど、菜苗さんは社会人だった」

 菜苗は、十六才から二十三才までの七年間を無駄にした。歌手や役者として大成しても、おかしくなかった人なのに。

「菜苗さんはもう、僕たち家族に関わりたくないだろう。なのになぜ、僕に会いにきたのだろう?」

 しかも仁史は今、大企業の御曹司ではない。閑職に追いやられて、会社からも追い出されそうな身の上だ。三日前、そんな仁史のもとに菜苗の父からメールが来た。本文は完全に恨み節だった。

 ――三年前に、あなたと菜苗の婚約が解消されたとき、私はそれを惜しく思いました。しかし今はちがいます。あのときに、あなたとの縁が切れてよかった。

 なのになぜ、菜苗を月へ呼び寄せたのですか? 菜苗は自分の意志で、あなたに会いに行くと言っていました。ですが、あなたが何かしたのでしょう。菜苗と連絡を取り合っていたのですか?

 仁史はメールを読み、あごが外れるほどに驚いた。

(菜苗さんが僕に会うために、月に来る!? なんで?)

 仁史と菜苗は、連絡先はたがいに知っている。けれど仁史が月に来てから、連絡など取っていない。仁史は動揺しつつ、メールの続きを読んだ。

 ――菜苗を日本へ帰してください。今のあなたには、あの美しい娘と結婚できるだけの価値はありません。

 確かに今の仁史は、菜苗にふさわしくない。そしてメールの末尾には、菜苗の乗る宇宙船の便名が書かれていた。だから仁史は宇宙港で菜苗を出迎えて、彼女に帰国を勧めた。けれど断られた。

「分からない」

 仁史は困惑してつぶやく。

「菜苗さんは、よりを戻したいのでしょう? それくらいしか、私には思いつきません」

「彼女の青春を奪ったのは僕だ。そんなことはありえない」

「ならば復讐(ふくしゅう)ですか?」

「彼女は、そういうことはしない」

 義則は、ちょっと黙って仁史を見た後で、

「菜苗さんの気持ちはひとまず置いといて、あなたは彼女をどう思っているのですか?」

 仁史は再度、頭を抱えた。

「急な話すぎて、分からない」

 三年ぶりに会った菜苗は、驚くほどに美しかった。宇宙旅行で疲れていたが、父をなくした仁史を気づかうような女性だった。

 仁史は恋人と別れたばかりで、しかもあまりいい別れ方ではなかった。恋人は御曹司でなくなった仁史に失望し、仁史は金目当てだった恋人にがっかりした。

 だから仁史は簡単に、菜苗にほれなおした。菜苗は男性に、金目当てに言いよらない。しかし仁史には、菜苗に恋する資格はない。だから、分からないとしか答えられない。そのくせ、彼女に会いたい。仁史は、そんなしょうもない男なのだ。

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