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19 未来へのしらべ―乙女の祈り(reprise)―

 菜苗の恋人は、律儀でまじめで正直だ。最高と胸を張って言えるピアノが完成するまで、菜苗とプライベートでは会わないつもりかもしれない。実は仕事では、ある程度は顔を合わせている。さらに友人のメイに、仁史と距離を置くことにしたと話すと、

「あなた、バカなの?」

 彼女は目を丸くした後で、はっきりと言った。

 けれどこのやり取りは、菜苗と仁史に必要だった。菜苗は仁史を憎んでいた。けれど彼の幼さゆえに、その気持ちにふたをしていた。月で再会してからは、彼の優しさゆえに、またふたをした。だからふたを開けなければ、菜苗は仁史と向き合えない。

(お父さんとは、いろいろあった)

 菜苗と父はこれ以上はないほど、汚い言葉をぶつけあった。けれど裁判所の人たちが、ふたりの間にうまく入ってくれた。またカウンセラーや精神科医の世話にもなり、最終的には示談が成立した。

 父は日本に帰ることになった。旅費とトレーニング代は、正人が負担することになった。そもそも正人が父をそそのかして、月へ来させたらしい。

 父はもう月に来ることができない。犯罪をおかした者として、入国が許可されないのだ。さらに父から菜苗への連絡も禁じられている。菜苗から連絡する分には自由なので、いつか菜苗は父にメールを送るかもしれない。

 TSUBAKIコーポレーション本社研究所の防音室で、菜苗は試作品のピアノでお気に入りの曲を弾いていた。

「七年間、仁史とよりを戻さないつもり?」

 ピアノのそばに立っているメイが、心配そうにたずねる。

「分からない」

 菜苗は鍵盤をたたきながら、気楽に答える。

「また『分からない』なの?」

 メイはあきれている。それから、ちょっとちがう方を見た。菜苗はロマンチックな曲を、気持ちよく弾き終える。そしてメイに向かって笑った。

「私の恋人は、月でピアノを売っているの。だからプロポーズには、真っ赤なバラではなく最高級のピアノが必要なのよ」

「婚約指輪の方が、安いにちがいないわ」

 メイは肩をすくめた。次にドアの方に向かって、楽しげに話しかける。

「あなたの恋人はこんなことを言っていますけれど、いいのですか?」

 メイの言葉に驚いて、菜苗は振り返った。ドアを開けたまま、仁史が優しくほほ笑んで立っている。

「いいのです。ピアノがないのに求婚した私は、うかつ者でした」

 彼はなかなかに、おおらかで度量がある。メイがあきれたように、そして感心したように笑う。仁史はドアを閉めて、菜苗に向かって言った。

「菜苗。君の音色が落ち着いてよかった」

 離れていても、彼はちゃんと分かっている。父のことで菜苗が傷つき、心身ともに疲れていたことを。けれどちょっとずつ、菜苗は心の平静さを取り戻した。そしてそれは仁史も同じだっただろう。彼は、友人と思っていた正人に裏切られたのだ。

「今さらだけど、人類は月でも音楽をかなでるのね」

 菜苗は笑った。

「今ならアコースティックピアノは、無重力でも弾ける」

 仁史は得意げに笑って、菜苗に近づいてきた。菜苗はいすから立ちあがって、彼に手を伸ばす。遠慮も気負いもない、ごく自然に体が動いた。メイは菜苗にウインクして、部屋から出ていく。

「愛している」

 仁史が口にするその一言で、すべてが氷解する。いや、菜苗はまだ結婚を恐れているから、何もかもが解けるわけではないけれど。菜苗はひさしぶりに彼と抱きあって、触れるだけのキスをする。仁史は菜苗の体をそっと離した。

「僕たちは婚約していたときに、もっと本音をぶつけあうべきだった」

 彼はとても後悔しているようだった。けれど菜苗は苦笑して首を振る。

「本音をぶつけるには、あなたは幼すぎた」

 仁史はすまなさそうに微笑した。それから、頼もしくしゃべる。

「今の僕はもう大人だ。君の本音を、ピアノの音色以外からも聞かせてほしい」

「私もあなたを愛している。けれど私はしつこいから、しょっちゅう過去を思い出して、あなたを責めるわ」

「構わないよ」

 仁史はおうように笑った。彼は今、過去の過ちも、菜苗の憎しみもすべて受け入れている。菜苗もほほ笑んだ。

「ならば過去のつぐないとして、TSUBAKIブランドの最高級のピアノをちょうだい」

 地球でも月でも宇宙空間でも、愛をささやくためには楽器が必要だから。ふたり仲よく並んでピアノを弾くように、菜苗と仁史は口づけを交わし合う。

 彼に会うために、地球から月へやってきた。その距離、約四十万キロメートル。けれどここにもピアノがあるなら、きっと菜苗はやっていける。仁史もやっていける。そしていつか菜苗は、仁史の作ったピアノでわが子と演奏するのだ。

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