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16 密室の中で

「え? ……ですが、私は娘と帰ります。あなたとは、そういう約束でした」

 正人の言葉に、父は困っている。

「恨むなら、仁史を恨め。婚約者失踪の情報を知っていただけで、俺を犯人扱いしやがって」

 正人は苦々しげに言った。正人は仁史と知り合いらしい。そして仁史は、正人が犯人と気づいている。そのことは菜苗を勇気づけた。

「親父は俺を信じてくれたし、警察も俺の味方をした。だがいつまでも、シラを切りとおせるわけがない」

 正人はあせっている。菜苗は、無能な警察を恨んだ。

「約束がちがいます。ならばせめて、あなたが菜苗と結婚してください」

 父は情けなさそうにお願いした。菜苗はあきれて父を見る。正人も嫌そうに顔をしかめた。彼は菜苗のファンではないらしい。

「ひとりで帰ってくれ。旅費は出す」

「困ります」

 正人は、もう会話は終わりと父から視線を外した。父はしょぼくれている。正人は初めて、菜苗と対峙した。不機嫌な顔をしている。体も大きいし、力もありそうだ。

 菜苗は震えそうになる体を、おのれの意志で震えないようにした。正人は菜苗を手に入れるためではなく、仁史をおどすために菜苗を誘拐したのだろう。

「君は家にかえす。ただし条件がある」

 菜苗は慎重にうなずいて、続きを促した。

「俺のことはしゃべるな。君の誘拐は、君の父親だけの犯行だ」

 自身の安全のために、誘拐犯には従順な態度で接すべきだ。菜苗はそう判断した。

「はい。約束します」

 安全な場所まで逃げた後で、正人を告発すればいい。シラを切られる可能性もあるが、今はこの回答がベストだ。菜苗は息をつめて、正人の反応を見る。

 正人はほっとしていた。菜苗は過去に、ドラマや映画にも出演していた。そんな菜苗から見ると、正人はポーカーフェイスができないようだ。今の彼の望みは、自己保身のみだろう。むしろ一刻も早く菜苗を家に帰し、無関係を装いたい。しかし、

「こんないい女を、何もせずに帰すのですか?」

 玄関やベランダを守っていた三人の男たちが、口を開いた。さっきまで感情も意志もないように無表情だったのに、今や残酷な肉食獣の笑みを浮かべている。目はなめまわすように菜苗を見て、菜苗はぞっとしてシングルベッドから立ち上がった。

「女にこちらの言うことを聞かせたかったら、何をすればいいか、お分かりでしょう?」

「私たちでやりますよ。あなたは無関係だ。そこで見ていればいい」

 男たちはにたにたと笑い、菜苗に近づいてくる。菜苗は恐怖し、逃げ道を探した。こいつらは本気だ。おどしじゃない。父は顔を青ざめさせて、おろおろするばかり。正人は迷っているようだ。

「はやく私を家に帰さないと、警察が来るわよ」

 菜苗は正人に訴えた。だが悲しいほどに声が震えている。正人は小声で何かを言って、へらへらと笑った。男たちが勝利を確信して、口もとをゆがめる。

「やめてくれ!」

 父が上ずった声を上げて、男たちのひとりに背後から抱きつく。そのとき、

「菜苗! 返事してくれ!」

「警察だ、動くな!」

 玄関の方から声と、複数の足音がする。菜苗が驚いて顔を向けると、仁史が飛びこんできた。彼はまっすぐに菜苗のもとへ向かい、菜苗を守るように抱きしめた。

 二人の険しい顔をした警察官とトニオが続いてやってくる。はっと気づいて視線をやると、ベランダの窓は開いて、三人の男たちは逃げている。父はあごを手で押さえて、痛そうにしていた。正人はうろたえて、立ちつくしている。

「よかった、よかった」

 仁史は菜苗の髪をなでて、つぶやく。彼の体は汗くさく、手はかすかに震えていた。

「無事でよかったです」

 トニオが涙目で、菜苗に言った。菜苗は安堵のあまり、大声を出して泣きわめきたかった。だが、こらえた。まだ事件は終わっていない。

 仁史の父親ぐらいの年齢の、スーツ姿の男性が歩いてリビングにやってきた。彼はつらそうな顔をしている。その彼の後ろには、三人の警察官が続く。正人は両目を泳がせて、

「なぜ?」

 と、つぶやく。仁史は菜苗を離すと、正人と向きあった。静かな調子でしゃべる。

「菜苗の失踪を伝えるために、菜苗のお父様に電話を差し上げたんだ。けれど電話に出ない。メールで連絡しても返答はない。おかしく思って、日本の会社に電話したら」

 仁史は、菜苗の父を見て苦笑した。父はぼう然としている。

「『社長は今、月面です。家出中の娘さんを迎えに行ったそうです。TSUBAKIの御曹司の正人さんが協力してくれています』と、あきれ調子に教えてくれた」

 その瞬間、正人の顔が真っ赤になった。体がわなわなと震えている。

「僕は警察と君のお父さん、――宮部社長に、再び君が犯人と主張した。さすがに今回は、警察も社長も折れてくれた。この場所を探し当てたのは、君のお父さんだ」

 仁史が同情めいた視線を、つらそうな様子の壮年男性にやる。彼が正人の父親の、宮部社長だろう。彼は足取り重く、正人に近づく。

「なぜこんなことをした?」

 彼の目は赤く、泣いた後かもしれない。対して正人は、気楽そうに笑った。

「俺は何もしていない。菜苗さんに会いたいというお父さんのために、このマンションを貸しただけさ」

 いけしゃあしゃあと言う正人を、菜苗はにらみつけた。正人の父はうなだれた。

「重要参考人のひとりとして、署の方へご同行願えますか?」

 警察官が厳しい顔で、正人にたずねる。彼はもちろんと快諾した。ただ正人の顔色は悪い。ごまかしきれないと分かっているのだろう。いつの間にか、警察官は十人ほどに増えていた。そのひとりに、父はどなりつけている。

「なぜ私が警察に行かなくてはならない!? これは家族の問題だ、他人が口をはさむな。しかもお前は外国人じゃないか!」

 菜苗は頭が痛くなった。たとえ人から薄情な娘と指さされても、もう父とは関わりたくない。親子の縁を切りたい。仁史が悲しそうな顔をして、菜苗を再び抱き寄せた。そして優しく話しかける。

「ここからは警察の仕事だ。君はもう休んでいい。僕の家に行こう」

 菜苗はうなずいて、そっと目を閉じた。

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