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12 公園の中の悪意

 菜苗は、重く暗い鉛をのみこんだ気分になった。タブレットの画面を切り替えると、すまなさそうな顔の女性警察官とアンジーが映る。

「ごめんなさい。私に分かることはないわ」

 菜苗は言った。

「いいえ。ご不快なものを見せて申し訳ないです」

 警察官も謝罪する。

「また警察から、あなたに連絡を差し上げます。あなたのメールアドレスや住所などを、うかがってもよろしいですか?」

「もちろんです」

 菜苗は住所や勤め先の電話番号などを教える。警察官は礼を述べて立ち去った。菜苗は残されたアンジーに、少し気になったことをたずねる。

「あなたは日本語が分かるの?」

 日本語が分からなければ、あの脅迫文は見つけられない。

「はい。少しだけ」

 アンジーは日本語で答えた。が、すぐに英語に切り替える。

「TSUBAKIは日系企業ですので、勉強しました。ヨンハは日本語がぺらぺらですよ。トニオはさっぱりですが」

 アンジーはかすかにほほ笑む。重い話題ばかり続くと、こういうちょっとした会話にほっとする。菜苗は初対面のとき、アンジーは仁史を愛しているのではないかと警戒していた。しかし今では、それは間違いとアンジーの態度から分かっている。

 アンジーは、顔をシリアスなものに戻した。

「菜苗さん。犯人が捕まるまで、あまり外出なさらぬようにお願いします。またガルシアミュージックスクールには、不審物に警戒するように、こちらからも連絡を差し上げます」

「ありがとうございます」

 菜苗は気を引きしめた。アンジーと別れのあいさつをして、通話を切る。菜苗の方からも、職場に、そして友人たちに連絡すべきだ。菜苗の関係者というだけで、被害にあう可能性がある。

 菜苗は、ため息を吐いた。月での友人、知人たちは、菜苗がアイドルだったことを知らない人も多い。彼らに事情を話すのは、気が重かった。

 気分を落ちつけるために、あたたかい紅茶でも飲もう。菜苗はピアノから離れ、キッチンに向かった。犯人が捕まるまで時間がかかるだろう。それまで、精神的にまいるわけにはいかない。

 菜苗は湯沸かしポットに水を注ぎ、スイッチを入れる。マグカップにティーバッグを入れた。また電話がかかってくる。仁史からかもしれない。

 菜苗はピアノに戻り、タブレットを取った。しかし発信者は、菜苗の父だ。地球に帰ってこいという、いつもの用件だろう。菜苗はぐったりと疲れた。

(今はそれどころじゃない。無視しよう。……あ、でも)

 父は、菜苗の唯一の家族だ。彼と彼の会社も被害にあう可能性がある。菜苗がアイドルをやっていたときから、父の名前も会社名も、住所も電話番号もネットにさらされていた。父に身辺に気をつけるように、告げなくてはならない。菜苗は、痛む頭を押さえた。

 タブレットといれたてのお茶を持って、菜苗はダイニングテーブルのいすに座った。紅茶を一口飲んでから、電話に出る。

「お父さん、私は地球に帰らないわ。今日は別の用事があるの」

 ひと息にしゃべる。

「開口一番、何を言うんだ。育ててやった恩を忘れたのか?」

 父は顔をしかめた。彼は外出しているらしい。背後には、どこかの公園が映っている。

「忘れていないわ。けれど私は、あなたのお人形ではないの」

 菜苗は冷静に答える。その後で、違和感を覚えた。地球と月は遠い。なので通話には、二、三秒ほどのタイムラグが生じる。またしょっちゅう通信が切れる。なのに今は、タイムラグがない。その理由はひとつだけだ。信じられない事実に、菜苗はぞっとした。

「まさか月にいるの?」

 父は得意げにほほ笑む。

「お前の家の、そばにある公園にいる」

 言われてみれば、見覚えのある公園だ。

「なんで?」

 菜苗は混乱して問いかける。菜苗は父に住所を教えている。だが地球から月まで、簡単に来られるわけがない。お金もかかるし、時間もかかる。それに何より……。

「お前が地球に帰らないから、迎えに来たんだ。さぁ、宇宙港へ行こう。そして日本へ帰るんだ」

 父はいらいらしながら言う。

「何をバカなことを言っているの。お父さん、会社はどうしたの?」

 菜苗は困惑する。

「一か月間だけ別の人に預けている」

 彼は平然としている。父は一か月後には、もとの生活に戻れると考えているようだ。

「私もお父さんも月の重力に慣れちゃって、地球には帰れないわよ」

 父の軽率な行いに、菜苗は顔が青くなる。小さな会社とはいえ、十名ほどの社員を雇っている。取引先だって多数ある。なのに父は無責任にも、それらを放り出して月へ来たのだ。しかし彼は、菜苗をバカにするように笑った。

「この月面都市から地球周回軌道上の宇宙ステーションまで行き、そこで二週間以上の筋力トレーニングを受けるつもりだ。一か月後には日本に帰れるさ」

「は?」

 菜苗は口をぽかんと開けた。確かに金さえあれば、宇宙ステーションに長期滞在することも、筋力トレーニングを受けることも可能だ。しかし父は零細企業の社長、菜苗はピアノ講師。どこにそんな金がある?

 もしも金があったとしても、トレーニングは過酷だと聞く。二十代の菜苗ならまだしも、父の年齢では厳しいだろう。さらに地球に無事に帰れても、長期間のリハビリが必要となる。

 それとも父は、どこかよくないところから金を借りたのか? 菜苗の芸能界時代のツテをたどれば、暴力団だの何だのとつながれる。菜苗は怖くなった。

「おい、腹が減っている。今からお前の家に行くから、昼飯は和食にしろ」

 父は当たり前のように要求してきた。菜苗はあきれる。

「ひとりでレストランに行ってちょうだい」

 父はかちんときたらしく、不機嫌な顔になった。

「なら金を貸せ。公園まで来い」

 金をたかる親に、菜苗は耳を疑った。

「嫌よ」

「俺を飢え死にさせるつもりか!?」

 彼は急に声を荒げる。

「この薄情女が! 親のことなんか、どうでもいいのだろ。お前は、血も涙もない最低なやつだ!」

 父の罵声に、菜苗は言葉が出てこない。彼は昔から自分勝手だった。だが菜苗が月に行ってから、ますます言動が幼稚になった。

「俺にはお前しかいない。なのにお前は、俺が死んでも悲しまないに決まっている」

 菜苗は、どうすべきか悩んだ。父に金を渡して食事させたとしても、その後は……? まさか彼は、ずっと月にいるつもりか? 滞在費は菜苗が負担するのか。菜苗は背筋が寒くなった。

 だがここで父の怒鳴り声を聞き続けていても、どうにもならない。下手をすれば、父は菜苗のアパートまで乗りこんでくる。菜苗はうつむき、歯をくいしばった。父の機嫌を取り、彼を地球へ帰そう。旅費とリハビリに関しては、何も考えが浮かばないが。

「そこで待っていてちょうだい。五分ほどで迎えに行くわ」

 菜苗は言う。父は、少し満足げな顔になった。菜苗は何も言わずに、通話を切る。ハンドバッグにタブレットを入れて、薄手のコートをはおる。アパートのカギを持って、部屋から出た。のちに菜苗は、この自分の行動を大きく後悔する。仁史はそんな菜苗を、

「君は悪くない。ただお父様を愛していただけだ」

 となぐめるけれど。

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