My friend, shadow
影の話ではありますが、暗い話ではありません。
大学の夏休みの終わり際、私は久しぶりに実家に帰ることになった。
お盆に帰省することができなかったから、もう今年は帰らなくてもいいかな。どうせあと半年後、年末には会うんだし……なんて思ってゴロゴロしながら毎日を過ごしていたら、母から怒りの電話が来た。
『顔ぐらい見せなさい!』
今思えば多分あの時は、怠惰に脳みそを犯されていた。だって仕方ないじゃん。ゴロゴロできる長期休みなんて、学生のあいだにしか味わえないんだからさ。
でもまぁ、母の言葉は最もだった。
久々に自分よりもずっと年上の人間に怒られて驚くと同時に、なんとなく懐かしさも思い出した。私はその日のうちに慌てて荷物をまとめて、次の日には家を出ていた。
もはや市営バスに乗ることもかなりの時間ぶりに思える。降車ボタンを押すのはいつだって少しドキドキする。
『次、降ります』、機械的な女性の声が、人気の少ないバスの中に響く。しばらくしてバスは家の近くの停留所に止まった。
二百三十円ぴったりの硬貨を中折れの財布の小銭入れから出して、お金を投入する。バスの運転手のおじさん――私がこのバスを毎日利用していた頃の運転手は白髪のおじいさんと、顔の濃いおじさんだったけど、この人は初めて見る――にお礼を言って、キャリーケースを持ち上げてバスから降りた。
停留所のベンチの前で大きく伸びをしていると、私以外にも数人の乗客が降りてきた。みんなお年寄りなのを見て「このあたりもここまで少子高齢化が進んだのか」なんてことを思ったのも一瞬、今の時間を思い出す。
時間帯はお昼すぎ、早くに出てきた甲斐があって、まだ空が真っ青なうちに帰ってこられた。
停留所からは歩きである。
『え?明日?帰って来いとはいったけど明日?時間はいつぐらい?え……お昼!?……お父さん、明日もちろん仕事よね』
怒りの電話を聞いて、すぐに考えを改め、少しあとにもう一度電話をかけるとこうなった。
今回は私が全面的に悪いから仕方がないけれど、本来なら私が地元に帰ってきた際は父が駅まで迎えに来てくれる(今年のお正月はそうだった)。だが、よく考えなくても今日は平日。大学生の私は夏休みだけど、普通の人はもういつも通りの生活に戻っている頃だ。
後先考えず出発を決める。私が無計画なんてのはいつものことである。
九月の中旬とはいえ、まだ夏の暑さは抜けきっていない。夜は涼しくなっても、日中は少し動いただけで見るみる間に汗が吹き出てくる。
一応バイトはしているものの、仕事柄上あまり動くことはないから体力の問題にぶちあたることはない。
超文化系の私が普段から運動することなんて勿論ありえないし、夏休みはゴロゴロ過ごしただけの有様だ。唯一身に覚えのある運動といえば、友達と訪れた旅行先で、帰りの新幹線に乗り遅れそうになった時の全力疾走ぐらいか。あの猛ダッシュの筋肉痛はひどかった。
くだらないことを考えながら歩く。
運動と言えるかさえ怪しいこの程度の動きで、あっという間に額に髪の毛がべったりくっついた。ああ、髪も切りたいんだ、そろそろ。
「ちょっとぉ、電話してよ」
汗だくで家について、インターホンを鳴らして十数秒、扉が開いて私は久しぶりに自分の家の玄関に入った。
「ごめん忘れてた」
すっかり失念していた連絡の電話、最後にしたのは電車に乗る前だ。
キャリーケースを離して壁に立てかけ、靴を脱ぐ。妙にお洒落な靴じゃなくて履き慣れたスニーカーにしたのは賢かった。
「おかえり」
「ただいま」
半年ぶりに見る母の様子は何も変わりはない。母が老けないのは、母がいつも趣味に勤しんでいるからだ。半年前と比べて何も様子が変わらないところを見るに、つまりそういうことだろう。
靴を揃える時に、他の靴の数を見ると、母のものらしい履きつぶした靴しかない。
「平日だからお父さんも叶人もいないわよ」
……そう、すぐに忘れてしまう。今日は平日だった。
家に上がってもエアコンはついていなかったが、日差しさえなければ気温はたいしたことない。洗面所で顔と手を洗って、タオルで水気を取るだけでずいぶんすっきりした。汗をかいたことに変わりはないが、実家に帰ってきて早々お風呂に入るのもなんだか変な感じがしたので、一度リビングへ。
扉を開けてリビングを見渡しても何も変化なし。ここまで今まで通りだと、なにか物足りないぐらいだ。テレビ、エアコン、立てかけられた掃除機、父のオーディオ……何をとっても前と同じ。
キッチンを覗いても、オーブンレンジもトースターも同じもの。
流しで手を洗っていた母に尋ねる。
「あれー、何も買い換えてないの?」
「みんなまだ現役だし、買い換えるなんてまだまだ先の話よ」
呆れたように言われて笑う。
「だって久しぶりの実家だよ?変化欲しいじゃん」
せっかく帰ってきても、何も変化がないんじゃあ面白くない。棚に飾られた母のハンドメイドの小物の種類も変わっていなかったので、リビングのこの様子を見るに半年前……正月に私が家を発った時と何も変わっていないように見える。
「変化って、そんなこと言ったってねぇ……」
水を止めた母が、タオルで手を拭きながらふと思い出したように「あ」と声を上げた。
そして私を見ると嬉しそうに顔を緩ませた。
「叶人に彼女が出来た」
「えっ?マジ?」
冷蔵庫にひっついていた、母が昔にもらったどこかのよく分からないお土産のキャラクターのマグネットで遊んでいた手を止めて、母に食いつく。
「だれ?いつ?学校の子?」
こんな面白いことに食いつかずにいられるか。
「全然教えてくれないのよ。同級生らしいんだけど……」 母がつまらなさそうに(年甲斐もなく)口を尖らせた。
「海春、ちょっと聞き出しといてよね」
そして意地悪そうに笑いながら私に任務を与える。返事はもちろん了解だ。
しかしそれにしても。
「アイツに彼女ができるなんてね……」
思い出すのは可愛げのない弟。ただいま高校二年生。三つも年が離れていたら仲がいいんじゃないのなんて一人っ子の友達は言うが、決してそんなことはない。
いや、仲が悪いわけじゃないんだけどさ。少なくとも仲良しこよしではない。
アイツは、弟は、とにかく生意気なのだ。そんな奴に彼女が出来た!
「ほんとにね」
安心したような、心配なような、複雑な顔を見せる母を見て、私はまた笑った。
◇
「お母さんの部屋掃除した時に出てきた海春の物っぽいの、部屋に置いといたから」
なぜ母の部屋に私の物が置いてあるのか謎だったけれど、自分の部屋の扉を開いて、四つ足の背の低い丸テーブル机の上に置かれているいくつかの物を見たらすぐに納得できた。
手に抱えられるぐらいのサイズの犬のぬいぐるみは自分の部屋に友達を招いたときに部屋に置いてあったら恥ずかしいから母の部屋に置いた物だ。同じ理由で置かれた子どもの頃の玩具もある。
そしてそのぬいぐるみと玩具のとなりには、読まなくなった本が数冊。これは母が読みたいと言ったから貸したものだろうと、少々呆れながらどんな本を読んでいたかなと、手にとったとき、一番下にノート……いや、日記帳があった。
「……」
鮮明に思い出せる、日記の内容。私は、右手に持っていた数冊の小説をまた机の上に置き、代わりにその日記帳を手に取った。
今時百円ショップにも売っていないぐらいページ数も少なく、非常に薄い日記帳。
【クロ と 河の家日記】
幼い文字が表紙にマジックペンで記されている。幼い……と言っても、これを書いたのは、ちょうど十年前、十歳頃だったか。
私はベッドに腰掛けた。部屋は私が一人暮らしを始めるにあたって綺麗に掃除した時のままだ。母が定期的に部屋主のいない私の部屋を掃除してくれてるのは知っていた。
壁に背をつけて、ゆっくりページを開いてみる。
◆
8月27日(日)
外に遊びに行っていたわたしは、帰り道に、おかしな生き物を見つけました。
学校のじゅぎょうで見た生物図かんにも、たぶんのっていない生き物だと思います。
なんだかさみしそうだったのと、道ばたで一人でいてかわいそうだったので、わたしはそのおかしな生き物をつれて家に帰りました。お母さんはこまった顔をしたけれど、お父さんの後おしもあって、うちの家で飼うことにしました。
全身まっくろな生き物だったので、名前は『クロ』にしました。
お父さんが言うにも、めずらしい見たことのない生き物だということで、お父さんのすすめもあって、これから日記をつけようと思います。
◆
『クロ』。
昔、十年前、この家で飼っていた、不思議な生き物の名前だ。クロにまつわる話は、どんなことであれ、繊細に、鮮明に、思い出すことができる。
クロとの思い出は、私にとってあまりにも強烈で、絶対に忘れることのできない永遠のものだ。あの子がいたから、今の私があるといっても過言ではない。
子どもの頃にペット――この言い方は好きじゃない――を飼っていると、人格の形成になんたらかんたらとは言ったものだけど、あながち間違いでないように思う。
ただ私の家にいたのが、犬や猫ではなくて『クロ』というそれまでに一度も見たことのない、今後見ることもないだろう生き物だったというだけで。きっと我が家に来たのがクロじゃなくて、普通の柴犬でも、アメリカンショートヘアでも、私に良い影響を与えていたことは確かだろう。
でも、そんなことはどうだっていいぐらい私は『クロ』が好きだった。今だって好きだ。
出かけた時にペットショップに寄って、中を覗くことがある。ケージの中の犬や猫を見て可愛いとは思うけれど、決して心は揺さぶられない。それぐらい、クロは特別なのだ。この特別は、他の生き物だったら植えつけられることはなかっただろうと私は思う。
我が家に来たのがクロだったから良かったと、胸を張って言えるだろう。
パラパラと日記帳をめくって確認すると、書かれているのは約三ヶ月分といったところだろうか。
ふいに襲ってきた虚無感。私は一度日記帳を置いて、息を整えた。
少しだけ、記憶を遡る。思い出。そう、あれは、クロとの出逢い――。
◇
あの日私は、近所の友達と近くの公園で遊びに外へ出かけていた。夏休みプラス日曜日で人が多かったが、ボール遊びだの男子を交えての鬼ごっこだのをしたのが懐かしい。
そしてクロと出逢ったのは、その帰り道。友達と別れて、私は一人で住宅街を歩いていた。空はあかね色に染まっていて、少しずつ暗くなっていくのが怖くて。気付いたら私は、走り出していた。
あの頃の私は暗いのが一番怖かった。夜寝るときはいつも電気をバッチリつけていたし、夜に雷が落ちて停電になんかなったらパニックだ。遊園地のお化け屋敷もダメだった。とにかく暗いのが怖かった。
暗くなる前に帰ろうと急いで走って。家まであともうしばらくというところで、私の目に、“それ”は留まった。
「なんだろ」
私は走る速度を緩めて、“それ”の近くに寄った。
“それ”は電信柱の傍で、縮こまっていた。真っ黒ななにか。生き物だ。黒い生き物。
最初は子犬かなと思った。あるいは子猫かなとも。でもすぐにそれは違うとわかった。
「……?」
黒い生き物は近づいてくる私を見つけると、より一層体を縮こまらせた。私を見て怯えていたのだ。
「なんの生き物かな?」
屈んで顔を近づける。黒い生き物は、じっと瞳の中に私を捉えながら、警戒心露わにじりじりと後退していた。でも野良猫みたいに素早く逃げ出すわけではなかった。
「…………」
その場でしばらく黒い生き物と私は見つめ合っていたが、私は――今思えばなぜそうしたのかなんて分からないけれど――黒い生き物に向かって手を伸ばした。そして、子犬でも抱き上げるみたいに得体の知れない生き物をひょいと抱き上げた。
ひんやりするような冷たさが一瞬肌の上を走る。でも生き物のぬくもりのある不思議な感触。体を覆っている眺めの黒い毛はスルスルしていた。体の形は犬にも猫にも見えたけど、抱き上げて見ればそれはやっぱり私が今までどこでも見たことのない形をしていた。
胴体は長く、足は短い。しかも鼻面が長くスラッとしているので、一見ダックスフンドのようだが、それも違う。
鼻の脇にある瞳が毛の隙間から覗き、それは体毛のように真っ黒だが光を帯びていて丸っこい。
お尻の部分から生えた黒い尻尾は細長く、そして強い芯が通っているようで硬かった。
足の数は四つ、前足と後ろ足。
ここまではあらかた普通の生き物のようだが、最も違う点。黒い生き物の毛。体毛の黒色が生きているみたいにうねっていた。うねっている、とは毛自体がうねっているのではなく、“毛の色”である黒色に、時おり浮いた油みたいな、太陽の写真を撮った時のレンズフレアみたいなものが浮き出てくるのだ。その形容し難いくすんだ虹色みたいなものが、黒い生き物の体毛の上を、うねりながら揺れていく。
黒い生き物は私が抱き上げても嫌がらなかった。持ち上げて、またしばらく見つめ合う。自分の心臓の鼓動が響くのと、抱き上げた黒い生き物の鼓動が両手から伝わってくるのを感じた。
「一人なの?」
黒い生き物の瞳が光る。ただただ黒い生き物から表情を読み取るなんて難しいことのようだが、なぜかその時の私は黒い生き物の気持ちがわかったような気がした。
さみしさ。そういったものが伝わってきたのは、私があの生き物をどうするかを既に心に決めていたからなのかもしれない。
「決めた」
齢十歳にして私は既に変わり者だったと思う。
「うちに連れて帰る!」
私が笑いかけても、言葉がわからないんだろう。黒い生き物は一度首をかしげて、あくびをするだけだった。
「いけません」
「なんでぇー!?」
結局暗くなる前に家に帰ることは出来たが、変な生き物を連れ帰ってきた私を母は家にあげようとしなかった。
玄関前を掃除していた母に「拾ってきた!」と言うと、母は目をひん剥いて突き放すみたいに言ったのだ。
「生き物は飼わないの!それにどこから拾ってきたの!?」
腰に手を当てて怒る母。私は、黒い生き物を胸に抱いたまま、声を張る。
「でもひとりぼっちでかわいそうだったんだもん!」
私は、強情だった。そして母もまたそうだった。これはどう考えたって遺伝だろう。譲らないと決めたら絶対に譲らないのが、私たち母娘だった。
母はじとーっとした目で私の胸の中の黒い生き物を睨んだ。黒い生き物は居心地悪そうに私の腕の中で蠢いた。
「というかなんの生き物なのよ!犬?猫?そんなよく分からない生き物家にあげちゃダメよ!絶対!」
「犬でも猫でも拾ってきたらダメって言うクセに!」
実際は犬も猫も拾って帰ってきたことはないが、母がそう言いそうなのは知っている。
私たちがこうなったら、止められるのは一人しかいない。
「どうした、大きい声出して」
私の味方であり、母の味方。父だ。
「お母さんが!」
「海春が!」
お互いに指を差し合う娘と妻を見て、父は呆れたように、人のいい顔で笑った。
「なにがあったか、ちゃんと説明しなさい」
玄関の前。私が説明を終えると、うんうんと頷きながら話を聞いてくれていた父が「なるほど」と声を漏らした。
そして体の向きを変えて、不満そうにしている母に問いかける。
「加奈子はどう思うんだ?」
父は昔から母のことを名前で呼び続けていた。母も父のことを名前で呼ぶ事があったが、それは私や弟のいない時。母は父のことを子供の前では「お父さん」と呼んでいたけれど、父は私たちがいようといまいとお構いなしだった。
「私は……生き物は飼いたくない。昔はよく飼っていたけど、別れの辛さを知っているから、嫌だわ」
父は母の言葉を聞いて、また「なるほど」とつぶやいた。
父はいつも我が家の調整係だった。私と母の口論を諌めるのはいつも父だった。
そして父があいだに入ってくれるおかげで、いつも私は母の考えを、他人の考えを正しく知ることができる。
この時もそうだった。母の考えなんて、全く理解していなかったから、母の答えを聞いたときはなんだか頭から冷水でもかけられたような気分だった。
「父さんは、飼うことに賛成かな」
生き物の面倒を見ることの大変さや、身近にいる命の尊さが知れると父は言った。
「別れが辛いのはどんなものだって同じだよ。それが人であろうとなかろうと、感じてしまうんだから。海春は賢い子だし、分かっているよな?」
私が「うん」と返事すると、父はもう一度母へ顔を向けた。
「どうかな?」
一瞬考えた母だったが、私の顔と父の顔、そして私の腕の中の黒い生き物を順番に見て、頷いた。
「……分かった」
「じゃあ、名前は『クロ』ね!」
小学校一年生の弟が、ぼんやりした顔で、フローリングの上に敷いたバスタオルの上をぽてぽて歩く黒い生き物――名前が決まったので『クロ』だ――を眺めていた。
この頃の弟はまだ素直でかわいげがあった……いや、これは別に思い出さなくていいか。
クロの毛の色は相変わらずうねっていたし、毛は長く尻尾は細く硬い。家の中に連れてこられて最初は落ち着いていなかったようだが、しばらく経つと家の中の雰囲気にも慣れてきたようだった。
犬のような猫のような不思議な生き物を前にして、父がうーんと唸る。
「飼うとは言ったものの、これ、なんの生き物なんだ」
父は外で見たときクロのことをずっと犬かなにかだと思っていたらしい。残念だが、クロは犬ではない。
鼻先をくんくんしながら、クロは私の手のひらに鼻を押し当てた。ひやりとした感覚が手のお腹に走る。
あれは、クロの感触。ジェル状の保冷剤みたいな感触が染み込んだあとに、続けてやってくる温かみ。
◇
「お昼ご飯できたわよ」
一階から聞こえてくる母の声に現実に引き戻される。そうだ、お昼食べてないって言ったんだった。
私はベッドから降りて、日記帳を机の上に置いた。続きはまたあとで読もう。
「美味しい~」
「大げさね。湯掻いただけでしょ」
冷たいそうめんをすする私の顔を見て不満げに言う母の顔は言葉の中身と違ってどこか嬉しそうだった。
確かにそうめんは麺をゆがくだけで出来るという私の得意料理であるが、自分でやったのとはやっぱり違う。人が作ってくれたご飯は美味しいものだ。
「お中元にもらったそうめんが残ってたんだけど、作る時間がなかったから良かったわ」
「えー?余ってたんだったら送ってくれたらよかったのに!」
一週間前にスーパーで買っちゃったし!こんなことなら確認しておけばよかったと今更悔やむ。ひとり暮らしの学生生活、不用意な出費は避けたいのに。……一昨日買った服は、もちろん無駄な出費ではない。
「お盆の時に帰ってきたら持って帰らせようと思っていたのよ」
涼しい顔で言う母に少しムッとする。お盆には帰って来られなかったけれど、今はもう帰ってきたんだからこれ以上お小言はごめんだ。
……と言っても、この程度の言葉でいちいち怒ってもいられない。私はすぐに気持ちを落ち着けて、話題を変えることにした。
「お父さんと叶人は何時ぐらいに帰ってくるの?」
「お父さんは今日は分からないけど、七時ぐらい?叶人はもうちょっと早いかな」
叶人は高校に入ってから部活を始めていた。
中学の時はバスケ部に入って、一年で辞めた。集団行動とか上下関係が嫌いだとかなんとかいうのが理由だった。そこは私も理解できたので、必要以上にその話を聞こうとは思わなかったし、いじってやることもしなかった。我ながら良い姉である。
でも高校に入って、叶人は今度はテニス部に入った。それを聞いたときは一体どういう風の吹き回しかと思ったけど、アイツが言うには「運動がしたくなった」らしい。
今もしっかり続けているみたいで、ああちゃんとしてるんだなと安心する。少なくとも中学の頃よりはよっぽど大人になっているみたいだった。
「どうしたの?二人に会いたいの?」
少し顔を引きつらせて答える。違う、違う。確かに大事な家族ではあるけれど。
「二人が帰ってきた時が夕飯の時間ってことでしょ?」
「なによー、さっきは『美味しい』って言ったのに、ゆがいただけのそうめんじゃ不満?」
もちろん、普段からお世話になっているそうめんに不満などあるはずがない。
「違うってば!お母さんの手料理が楽しみなだけだよ」
私が答えると、母は満更でもなさそうに「そーお?」とニヤついた。ちょろい。
だが私の言葉は本心から出たものだ。母の手料理は絶品。母が昔にレストラン――本格フレンチ~とかじゃなくて、もっと家庭的な料理を出すレストラン――の厨房で働いていたという経験は、主婦になっても活きた。そして染み込んだ料理の腕は今なお健在というわけである。
……少なくとも私には、その遺伝子は引き継がれてはいないけど。
「じゃあ今日何食べたい?」
「唐揚げ……って何て答えるかは知ってたでしょ」
「バレてた」
母の数ある料理レパートリーの中でも、私は唐揚げが大好きだった。
私にとって特別な日には必ず唐揚げが出た。今日の夕飯は何が食べたいかと言われたら必ず唐揚げと答えるぐらいに。
そのせいで、外でご飯を食べるとき、一品ものの唐揚げなんかは絶対に頼めなくなった。母お手製以外の唐揚げは唐揚げとして認められない!
ちなみに頑固なところも母親似である。
「材料あるの?」
「あ……」
母は思い出したように食事の手を止めて立ち上がり、キッチンへ行った。
そしてすぐに戻ってきて、首を横に振った。
「ない。どうしよう」
「じゃあ買ってくる。ついでだから他にも買って来といてほしいものメモしてよ」
そのあいだに用意しとくからさ。お盆に帰れなかった分の親孝行だ。
「ほんと?助かる」
「任せて」
ガラスの器に残っていたつゆの中のそうめんをつるつる吸って、私は立ち上がった。
◆
8月31日(木)
夏休みは今日で終わり!なごりおしいけど、楽しい一か月間でした。
クロがうちに来て5日がすぎました。
クロもとても私たちの家になれたみたいで、私もとてもうれしいです。
犬やねことはまったくちがうけど、私や私の家族にもよくなついてかわいいです。
散歩はいまのところ私と、仕事帰りのおとうさんとで、日がくれてから行っています。たまにかなともついて来るけど、ほとんど私とお父さんです。
明日からは学校。学校のみんなには、クロのことはナイショにするように、お父さんに言われました。気をつけようと思います。
◆
家を出る前、自室に一度戻って服を着替えた時についでに見てきた日記の内容だ。
クロは人懐こくて、私たち家族にすぐに馴染んだ。特に私には拾ってきた本人であるからか、よく懐いてくれた。
最初こそ距離を置いていた母もすぐにクロにメロメロになった。私たち家族になにか重大な欠陥があったわけではないが、でもクロがいることで家族仲はさらに良くなったように思う。
そういえばクロの性別は結局わからなかった。だからクロが“彼”なのか“彼女”なのかは知ることができない。そもそもあんな不思議な生き物に性別なんてないのかもしれない。
頼まれた買い物の帰り道。
ずらずら文字が書き連なったメモは今、レジ袋の中に詰められている。
二年ぶりに行ったスーパーは依然変わりなく人がいて、むしろライバル店のスーパーが壊れたことによって前見たときよりも盛況していた。世の中が不況なんて嘘みたいだ。
「容赦ないの……嫌いじゃない……」
痛いぐらい手に食い込んでくるレジ袋。女に頼むとは思えない量の容赦ない注文。牛乳、油、醤油とか液体物がいっぱいで重たい。
本当は帰りにコンビニに寄ってアイなんて買おうとか思ってたけど甘かった。
バカみたいに重たいレジ袋を両手持ち、さらに頭上には強い日差し。地獄だ。
暑さや重さを忘れるために考え事をした。クロのことを考えよう。この道はいつも散歩コースだった。
◇
「首輪、やっぱりダメだね」
私は、父とクロ一緒に夜の住宅街を歩いていた。
クロは首輪をしていなかったが、私たちの側にぴったりくっついてきた。
我が家にやってきたクロは想像を遥かに越える不思議な生き物だった。
父が仕事帰りに買ってきた犬用の首輪を首にかけようとすると、するりとすり抜けた。首に繋がらない……というか、当たらないのだ。これだとリードが繋げない。
そして大事なことに、食べ物もダメだった。どんな食事――例えばドッグフードだとか、母の作ったご飯とか――も、食べようとしないし、仮に口の中に入れても、ぽとんとあごの下からすり抜けてしまう。そもそも、お腹が減らないらしいと気づくのに時間はかからなかった。
つまるところクロは、自分の中に何かを取り込んだり、また身につけたりすることができないようだった(でも机にぶつかったり、壁に寄りかかったりはできるみたいだし、私や家族がなでたり抱いたりすることはできた)。
散歩に連れて行こうということになったのは、クロがやってきて三日目のこと。
クロの存在がテレビなどに知られたら大騒ぎになることは確実だろう。だからご近所さんの目に付く日中は散歩せずに、日が沈んでから散歩に行くことにしたのだ。
「……!」
歩いているとき、前方から人がやってきた。緊張が走る。時刻はもう七時を過ぎていて外は暗いけれど、街灯もあるから言うほど暗くない。
向こうから見たら普通の犬に見える?
でも、リードがないから怪しく見られるかも?少なくとも放し飼いの犬と散歩している人がいたら、私はじーっと見てしまう自信がある。
前から走ってくる人は、耳にイヤホンをしていて、ジャージ姿だ。日が落ちたあとに運動をする人なのだろう。
父が一瞬ぎこちない歩き方になる。私は、なんだか顔を上げていられなくなって、下を見た。クロが目に入った。
「え……」
思わず声が出てしまった。クロが私の視界から消えた。上手くどこかに隠れた?
イヤホンをした人は、私たちに軽く会釈すると、そのまま私たちが来た方向へ向かって走っていった。
「く、クロ?」
おそるおそる呼びかける。父も辺りをきょろきょろ見回した。
街灯の下、暗闇の中へ消えたクロ。
嫌な予感。どこかへ逃げてしまったんじゃないだろうか?
「あ!」
だがそんな心配はすぐに吹き飛んだ。
クロが暗い闇の中からゆらりと湧き出るみたいに突如現れたのだ。その時の、私たち親子の驚きと言ったら!
私たちが呆然としていると、クロはまるで「大丈夫だよ」とでも言うように、私に体をひっつけた。
「影に……溶けた……」
クロはやっぱり、とてもじゃないけど私たちには到底計り知れないような不思議な生き物だった。
この日からも、クロの散歩は決まって夜になった。日記にあったように、私と父が主に散歩の役だった。
今思えば、父は仕事で疲れているのに、よく散歩なんてしてくれていたなと思う。小学生の子ども一人に夜散歩行かせるわけにいかないとは言え、父は一つも嫌な顔をしなかったのだから。
さて、この日は夏休み最終日だった。
夕飯後、父は私と叶人を呼ぶと、クロを前にして言った。
「クロのことは友だちにも、誰にも言っちゃいけないぞ」
なんで?と不思議そうにする弟。私は父の言葉の訳が分かっていた。
「クロはちょっと不思議な生き物だろ?クロの話を誰かにしたら、クロがどこか遠くへ連れて行かれちゃうんだ。
叶人、クロがいなくなって欲しくないだろ?」
叶人はこくこくと頷いた。
「じゃあ誰にもクロのことを言っちゃダメだ」
クロのことは誰にも言っちゃいけない。それは私たち家族の約束になった。
私も叶人も、クロのことが好きだったので、その約束を破らないわけがなかった。我が家に来てたった五日のあいだに、クロはすっかり私たち家族の一員になっていたのだった。
学校へ行く準備……ランドセルに夏休みの宿題と筆箱、れんらくノートを詰めて、ふたを閉じた。
「…………」
誰にも言っちゃいけないことなのは分かっていたけれど、仲のいい友だちに秘密をつくるようなのは正直少し嫌な気持ちがあの時の私にはあった。
それに、あの頃はまだ小学生だ。ほかの子が知らないものを知っている、誰も飼ったことのないような不思議な生き物がうちにいるなんてワクワク感、誰かに言いたいと思ってしまうのも無理はないだろう。
でも、案外あの頃の私は冷静で賢かった。他人に自分の秘密を共有する喜びよりも、クロのことを取れたのだから。
当のクロはといえば、家の中に専用のスペースを設けてもらっていた。
リビングの一角に、犬小屋とその中にはクッションが。父が首輪と一緒にペットショップで買って帰ってきてくれたものだ。
クロも随分その空間が気に入ったようで、そこが自分だけの空間だと理解した時はぴょんぴょん跳ねて喜んでいた。父も満足気だった。
そしてクロはその中に自分のお気に入りのものを持って入った。私があげた古いぬいぐるみや、父が買って帰ってきたおもちゃ。母が捨てようとしたなにかキラキラしたものはこぞって欲しがった。この小屋はクロの秘密基地だったのだ。
私にも自分の部屋があったけど、ちょっと狭めの自分だけの空間とか羨ましいなとか思ったりしてたな、あの時。
「クロ!」
私が呼ぶと、クロは駆け足で私によってくる。そしてうねる色の髪をなでてあげると、気持ちよさそうに目をつむった。
「明日から、私学校だからね。ちょっと構ってあげられなくなるかも。でも帰ってきたら遊んであげるから」
ぱちくり、上目遣いの真ん丸な目。クロが私の言葉を理解しているかは定かではないけれど、賢い生き物なのは確かだった。
カレンダーを見て、明日からはこの五日感とまるで違う日になるぞと私は覚悟した。
◇
「げっ」
買い物を終え、無事に家に着こうかというとき、後ろから声がかけられた。……いや、かけられたというべきじゃないか。
振り向くと、そこには自転車にまたがった弟、叶人の姿があった。
「なんでこんな時期に帰ってきてんの」
叶人は見るからにマイナス方向全開の顔をして――そこまで嫌そうな顔することないと思うんだけど――私に言う。
持ってきていたタオルで汗を拭った。
「さぁ、なんでだろ。帰ってきたんだから喜んでよ」
「嫌だよ。姉ちゃんうるさいもん」
「はぁ?うるさくないし、どちらかというとあんたの方がうるさいし」
とにかく可愛げのない弟だった。まぁ慣れたし、ちょっと前よりはこれでもマシになったんだけど。
私が三つ上の大人な思考を繰り広げていると、叶人がぐいと手を伸ばして私のレジ袋を取り上げて、そして自転車のかごの上に乗せた。
「あれ」
持ってくれるのか。
「優しいじゃん」
「先行ってる」
弟は面倒くさそうに言うと、また自転車を漕ぎ出した。家はすぐそこだから、距離的にはそう遠くないとは言え、すぐに距離が開く。照れ屋め。
「まぁ、多少は成長しているってことかな」
私は偉そうにつぶやくと、片側だけになったレジ袋を両手で掴んでまた歩き出した。
九月に入っても日中は外は未だに太陽光線アツアツで、微塵も秋の気配なんて感じられない。あのマンホールの上なんて、目玉焼きが作れそうだ。例年並みの気温だと天気予報は言っていたけど、ちょっと前までは十年に一度の残暑とか言ってなかったっけ。
ふと顔を上げて、遠くに行った弟の後ろ姿を見て思い出した。
……、そういえばアイツ彼女が出来たとか言ってたな。それか、成長の原因は。
「はいはいありがとうお疲れ様」
家に入ってキッチンまでレジ袋を運び、なんだか適当な母のねぎらいの言葉を受け取った。
服に汗が染み込んで嫌な感じだ。
時間を確認すると午後三時と三十分。ゆっくり買い物してゆっくり帰ってきたとは言え、時間が過ぎることの早いこと。
すでに自分の部屋にこもってしまったらしい弟は、私の代わりに運んでくれたもう片方のレジ袋を無造作にリビングの入口に置いていっていた。適当なヤツめ。
でも、三時過ぎって……。
「叶人、帰って来るの早くない?」
高校ってもっと終わるの遅かったよな、むしろ部活なんてしてたらもっと遅くなるんじゃないだろうか。
「今日は五限目までで、クラブはないんだって」
「ふーん」
そんなこともあるものなのか。運動部のことはよく分からないけれど、まぁ世の中にはゆるい運動部だってあるだろう。
リビング入口のレジ袋を持ち上げる。中身は醤油、牛乳、油と液体物のオンパレード。私よくこんなもの持って歩いてこられたな。
レジ袋の運搬を終えて、さすがに体の汗に耐え切れなくなってきた。本当なら実家に着いた時点でシャワーを浴びたかったけど、まあ買い物に行ったことを加味すると後回しにして良かったか。
「じゃあ、汗流してくるから」
「はいはーい」
間の伸びた返事が切れる前に、私はすでにキッチンから出て、リビングのドアを開けていた。
◆
9月14日(木)
学校が始まって、二週間がたちました。
友だちのあゆむは、なかなかするどいので、私がかくし事をしていることに気づきそうでこわいです。
歩夢ちゃんはいい子なので教えてあげたいのはやまやまですが、ここはお父さんとの約束を守るためにがまんです。
私が家に帰ってくると、クロはいきおいよく私にとびついてきます。毎日感動の再会しているみたい。
お母さんによると、クロは私が学校へ行ってる間、落ち着きがなくずっとそわそわしているそうです。かわいい!
クロについての発見ですが、どうやら自分の小屋の中に入っているときは、暗いところにとけているみたいです。散歩に行ったとき、知らない人が来たら暗いところにかくれるのと同じようにです。クロが暗い所へとけるのは、自分を守るためだけじゃないのかな?
まだまだ知らないこと分からないことがあるけど、ゆっくり知っていけたらいいな。
◆
今まで家にいた存在が突然何時間も家にいなくなる状態というのは、クロにとって普通に怖いことだったのではないだろうか。自分を放ってどこかに行ってしまったんじゃないだろうか、私がクロの立場ならそう考えてしまうかもしれない。
ささっとシャワーを浴びて、使い古されたドライヤーでしっかり髪を乾かしてからひとり暮らしのアパートから持ってきた部屋着に着替えた。ぐいーっと足を動かしてみる。うん、こっちの方が動きやすくていい。
せっかく実家に帰ってきたんだから、羽を伸ばさないとね。急な来客も、宅急便も対応しなくていいのは楽チンだ。その上家事労働も全部やる必要はないし、ご飯も出てくると来た。
脱衣所から部屋に戻った私は、ゆったりベッドに寝転がりながらまた日記帳を読んでいた。
ちなみに今日はもうなにもしないぞという強い決意をしている。おつかいに行ってあれだけの労働をしたらもう充分だろう。
頭の横に置いていた携帯がブーンと低い音を立てて、ベッドのマットレスを震わせた。頭のすぐ横でブルブル言うのでうるさい。マナーモードにしていたから着信音は鳴らなかった。振動の短さからしてメッセージらしい。
「誰だー」
体の向きを変えて、うっすら光る液晶(省電力のために明るさは低めに設定しているのだ)にタッチする。
「お」
噂をすれば影とはよく言ったものだが、まさかこのタイミングで連絡が来るなんて。
メッセージの送り主は小学校時代からの同級生だ。まさに今日記の中に出てきた、「歩夢」という子である。
なんというぴったりなタイミングだろう。まるで示し合わせたみたいだ。
「『こっちに来てるんだったら久々に遊ぶ?』……か。そうか、前に『実家帰る~』とか送ったような……」
小学校時代から交流がある友だちというのはそう多くないが、歩夢は小中高と同じ学校に通って、しかも九年、いや十二年間ずっとつるんでいたという腐れ縁的なアレがある数少ない友だちだ。
大学こそ違うところへ行ったけど、この緩い関係は今も続いている。
歩夢は物静かで大人しい。ものの考え方が少し変わっていて、妙に達観しているというか……たまに核心を突いたことを言ったりするので驚かされる。そしてやけに鋭いので、嘘やごまかしがとにかく通じない。
時に手厳しいことも言ったりするけれど、私のことをよくわかってくれていて、いつも助けになってくれていた。
具体的な例は多すぎてもはや覚えていないレベルだが、とにかく彼女は私の良き理解者だ。
大学に通い始めてから、会うことはかなり減ったけど、たまに遊びに行ったりご飯に行ったりと今でもきちんと繋りがあった。
「えーっと……あ、し、た……と」
明日空いているか、聞いておこう。送信ボタンを押した。
一度携帯を握ってしまうと離せなくなってしまうのは悪い癖だと自分でも気づきながら、ついついいじってしまう。気付いたら一時間なんてザラである。
これ以上時間を無駄にはしたくないので(実家でゴロゴロすることを時間の無駄だと言われたらそれまでだ)すぐに携帯を放り出して、体勢をゴローンと変えて仰向きになった。
ふと気付いたら天井を眺めながら、またクロのことを思い出していた。
クロが我が家に来たことで、友だちとはうちの家で遊べなくなってしまった。私としてはそれについて別になんとも思わなかったけど、今思えば周りの子は不思議に思っていたのかもしれない。
◇
「海春!今日は遊ばないの?」
「今日は用事あるから!」
学校の友だちに別れを告げて、まだ外も明るいうちに、私は家へと急いでいた。
そういえば、友だちからの誘いも断ることが多くなってたな、この頃。それぐらい家にいるクロのことが気になって気になって仕方がなかったんだよね。
転けそうになるのを気にもせず走れば、赤いランドセルが大きく上下して中の教科書たちもシェイクされる。
私の中にあったのは早く家に帰って、早くクロに会いたいという気持ちだけだ。
「ただいま!」
家の扉を開けて、大きな声で帰りを告げれば、すぐに家の奥からクロがパタパタ走ってくる。
私がおおきく腕を広げると、クロは私の胸の中に飛び込んでくる。そして受け止めるようにぎゅっと抱きしめて、私たちは数時間ぶりの感動の再会を堪能するのだ。これ、毎日続いていたんだよね。
クロは声を発さない。だから”おかえり”はボディランゲージだけだ。
胸のあたりに一瞬ひんやりが広がって、それからクロの温かみが伝わってくる。
「おかえり、もう帰ってきたの?」
クロのあとを追うようにして、母も私の出迎えに出てくる。
叶人や父が帰ってきた時もクロは出迎えに飛び出ていくが、私の出迎えの時は段違いのスピードらしい。その日も相変わらずの勢いで、母は笑っていた。
「クロに会いたくて早く帰ってきた!」
「クロも早く会いたかったみたいよ」
私に頬ずりするクロが、愛おしくて仕方がなかった。
「遊ぶ前に宿題ね」
母は、適当さと厳しさの混ぜ方が上手かった。アメとムチの扱いが上手いというべきか。
でもあの頃の私からすると、ムチ状態の母は鬼だ。遊ぶのを後回しにして、先に宿題をやれと言うなんて!
当時は小学四年生、今まで簡単だった授業も、得手不得手が見えてくる。それと同時に宿題の煩雑さもひどくなるばかりだ。これからずっと宿題の難易度は右肩上がりだと考えると子供心ながら頭が痛かった。
「海春はお勉強してるから、遊ぶのは後でね~」
私が渋々漢字のワークに向かい合って、やたらと画数の多い文字を書かされているころ、クロはダイニングテーブルに腰掛ける母に何やら言われていた。
クロは母の言葉を不思議そうに目をぱちくりさせながら聞くと、それを理解したのか私にひっついてこずにその場にじっとしていた。
人の言葉をきちんと理解できるというのは不可解な点でもあった。クロは私たちの言葉一言一句の意味を理解しているように思えたのだ。聞き分けのない獣であって欲しかったわけではないが、よく考えればそれは驚異的なことだった。
世の中には――人の言うことがわかるという意味で、だが――賢い生き物がいるが、ここまで精細に言葉を理解してくれる生き物なんていうのはそういないだろう。
私は恨み言を口の中でぶつぶつ噛み砕きながら、ただひたすら修行僧の如き無心さで、4Bの鉛筆を走らせていた。つるつるした紙の上の薄い青の四角形に、いろいろな文字が詰め込まれていく。箱の中に旅行用の荷物か何かを詰めていると思えば、四角形の中に文字を入れる作業も楽になったような気がした。多分。
そういえばその日叶人は友だちの家に遊びに行っていたらしい。一年生は気楽で何も考えなくていいよなぁ、なんて弟を羨ましがっていた小学四年生当時の私。……悲しいかな、過去とは常に楽そうに見えるものである。少なくとも今の私は、高校時代の方が楽しかったし。高校時代の私に聞けば中学時代の方が楽しかったと答えるだろう。いつだって人はそういうものだ。
……過去の私への指摘なんて野暮なことはともかく、漢字の宿題を終えた私は、算数の宿題にとりかかっていた。
小さい頃から算数は割と得意だったから、簡単に問題を解いてしまう。掛け算割り算もどんと来い、といった感じである。
中学で出会った英語に惚れ込んで、今は外国語系の大学に通っているけど、高校の時も数学は好きだった。証明はキライだけど。
「……」
サクッと算数を斃してわら半紙のプリントを紙のファイルにしまう。一応連絡ノートを確認。よし、宿題は全部終わりだ。
「終わったー!」
私が歓喜のガッツポーズを掲げると、すぐにクロがやってきた。口には骨の形をした固い布地のおもちゃをくわえている。
「お待たせぇ~!」
飛びついてくるクロを撫で回して、骨のおもちゃを掴む。そしてそれを投げると、クロはすごい勢いでおもちゃを追いかけた。
この頃の私は、クロさえいればいいという感じだった。学校の友達よりも、確実にクロを優先していた。
小学生とはいえ、一応最低限の“付き合い”みたいなものはあったから、そういったものには参加するようにしていたとはいえ、クロがうちにくる以前と比べれば明らかに学校の友達と遊ぶ時間は激減していただろう。
それを問題と思わなかった私は、果たして正しかったのだろうか。過去の自分の行動に疑問を呈すのは野暮だと分かっていても、どうしても思い返してしまうことがある。
今の私は、過去の私と一緒だ。私はずっと私でい続けた。だからもし私が過去に戻ったとしても、例え避けたいような出来事が起こる道だろうと、きっと同じ道を通るんだろうと思う。
私と遊ぶクロ。私がおもちゃを触る手を止めると、じっと下から覗き込んできた。黒い瞳。全てを見透かすみたいな真っ黒な瞳。
私はクロの頭を撫でた。冷たさのあとにやってくる生き物の温かさ。体毛は黒く、そして時おり薄い虹色の塊みたいなものが、風が強い日の雲みたいにクロの体毛の上を流れた。
◇
「姉ちゃん?」
ベッドに寝転がっていると突然私の部屋の扉が開いて、叶人が顔を覗かせた。
「ちょっとノックぐらいしてよ!」
びっくりして大きな声が出た。私が、着替えていたりしたらどうするつもりだったんだ。私は別に構わないけど、気まずいのはお前だぞ。
「……トントン」
弟は、開けた扉を右の手の甲で叩いた。な、舐められとる……完全に……。
最早怒るのもバカバカしいので、私はとりあえず体を起こしてベッドの上に座った。弟はすでに部屋の中に入ってきている。
「で、なによ」
閉じた日記は私の横に置いておいた。「これなに?」
机の上の私の古き良き思い出にも手が伸びていく。どれもこれも大したものじゃないけど、私が使っていた古い物を人にまじまじ見られるのは変な感じだ。
「お母さんの部屋に置いてあった私のものだって」
「へー。それも?」
目ざとい弟は私の脇の日記帳もすぐに発見した。
「あー……うん。そうよ」
見せてよと手で示されて、一瞬迷ったが手渡した。
別にやましいことが書かれているわけでもないし、書いてるのはクロの話だけだ。ざっと見返した感じ、俗に言う黒歴史ではないという確証があった。
「クロ!懐かしい。なんか、家にいたなぁ」
叶人はその場に立ちながら、ぱらぱら日記帳をめくった。
「覚えてるんだ」
「まぁね。あんな真っ黒な生き物どこにもいないし」
あの頃叶人はまだ六歳ぐらいだったけど、さすがに覚えてるものは覚えてるんだな。
「あんな変な生き物、どこかに持っていけば大金貰えたろうなぁ」
「ちょっと!ロクでもないこと言わないでよ」
「あっ」
立ち上がって叶人の手から日記帳を取り上げた。
この日記帳を少しでも読んだ上でのその発言……私はため息をついた。まぁ、コイツは昔からこういうヤツだとは言え、それでもムカつく。
「で、何の用?」
意識しなくても声に怒りのトーンがこもる。用事がないなら出て行ってと、暗に匂わせながら尋ねると、叶人は急に真面目な顔になった。
「相談があるんだ」
「相談ン~?」
まだちょっぴり怒っているからか、我ながら間抜けな声が出た。叶人は頷くと――なんだか言いにくそうに体を少し揺すって、視線をあちこちに向けていた――意を決したように息をついた。
「女を怒らせとき、どうやって仲直りすると思う?」
…………。
思わず黙ってしまった。それも口を開けて。
「あ、いやこれは友だちの話で、俺には関係ないんだけど」
慌てて付け足すがもう遅い。私は――自分でもわかるぐらい――ニヘラァと笑うと、腰に手を当てて足を組んだ。
「あぁ……トモダチね……はいはいなるほどね、ふーん……」
余裕たっぷりのお姉さんモードに切り替わる私。この場では、私が上手である。
弟は私の見え見えの変化に気づかないふりをして、どうしたらいいか教えてよ、と手を合わせた。
クロについてロクでもないことを言った仕返しに、ちょっぴり意地悪をしかけてやろう。
「相手の子は、どんな子なの?」
一応、言っておくが私は別に恋愛のスペシャリストではない。
私の第一の問いかけの真意は、すぐに叶人にも伝わったようで、叶人は恨めしそうに私を見た。
どうしたの?とわざと目をパチパチしながら聞いてやると、一瞬すごく鬱陶しそうな顔をしたが、背に腹は変えられないといった様子で仕方なさそうに話し始めた。
「なんか部活のマネージャーやってるらしくて、すごいマジメでいい子なんだってさ。その彼氏と違ってわりと頭もいいんだって」
どうやら最後まで友だちの話として通すようだ。
マネージャーか。マネージャーをやっている子は私の周りの友だちにもいたけど……。どうかな。
「それで、どんな性格の子なの」
「だからマジメで。冗談にもよく笑ってくれるし……くれるらしいし、勉強とかも教えてくれるんだって。友だちも多くて、根が明るい感じ」
こういった問題は、正直どうにも本人を見ないことには始まらないと思うが、そうは行かないだろう。
私も別に率先して弟の彼女に会いたいとは思わ……ないことはないが、今はそういう問題じゃない。
「何して怒らせたの?」
「あー」
私の問いに顔をそらした叶人は、まるで苦虫を丁寧に歯で磨り潰したみたいな顔をした。
そんなに大事なのか。真面目半分、面白さ半分というのがいまのところの私の感想である。
「他の子と、遊びに出かけた……んだって」
ああ……なるほど。他の女の子とどこかへ遊びに行ったのがバレたというわけか。
「それで、その子は?」
「『他の子と遊ぶのは別にいいけど、私に秘密にするのはやめてほしい』って」
ははーん。私は顎に手を当てた。事情聴取でもしてる気分だった。
「でもそれだけだと怒ってるって感じじゃないよね」
どちらかというとそれはまだ“お願い”のレベルに思える。
「そうかなぁ。怒ってるように見えたんだけど……」
って言ってた、弟はすぐに付け足した。惜しい。
「他の人はわからないよ?でも私が同じことを言うなら、相手にチャンスをあげる時かな。別に好きじゃなかったら呆れて何も言わないと思う。『そういうヤツだったんだ~』ってね。私はそう思うね」
なかなか素敵なアドバイスだったのではないだろうか? 「私は」と付け加えるのがポイントだ。他人の考えなんてわかるわけもない。
まあでも弟が困ってるなら一肌脱いでやるかということで、今回は真面目に考えて答えてやった。
「で、なんで彼女を差し置いて他の子と遊びに行ったの」
その相手の子は、聞いた感じだと別になにか問題がある風ではない。それとも言ってないだけで重大な欠点がある子なのか。
ああ、顔の話を聞いてなかった。叶人から見てその子は何点なのか聞いてやろうかなどと、我ながら性悪な質問を考えていたら、叶人が「はー」と大きく息をついた。
「そもそも遊びに行ったっていうのも誤解なんだよ」
誤解?
「誤解というと……」
「遊びに行ったんじゃなくて、その彼女のためにプレゼントを買いに行くのに女友達について来てもらっただけで……。何あげたらいいか分からなかった……んだって」
私は、ベッドに仰向けに倒れて、顔を抑えた。
「姉ちゃん?」
かわいい!
叫びそうになったのを、ぐっとこらえて、もう一度起き上がった。
「あ、そうなんだ……へー……」
「これってちゃんと説明したほうがいいんかな」
ゆっくり頷いた。そりゃそうだ。誤解は解かないと。でもその前に。
顔を覆っていた手を離して、息を吸い込む。
「叶人」
「……なに」
気持ちはわかるけど、やっぱり彼女以外の女の子と、彼女に何も言わずに出かけるのはマズイだろう。
みんながみんな嫌に思うわけではないと思うけど、普通は良い感情は抱かないはずだ。
「……次は姉ちゃんに相談しな」
「……分かった」
珍しく素直な弟だった。
◆
10月17日(火)
大へんです。クロのことがあゆむに、ばれそうになりました。 やっぱりするどい。おそるべしです。
なんとか今日はごまかすことが出来たけど、次はそうはいきません。あゆむは私がかくしごとをしていることに気づいちゃったみたい。
今日、お父さんが帰ってきたらそうだんしてみたいと思います。ドキドキです。
クロは私のヒヤヒヤを知ることはたぶんないんだろうな。今私が自分の部屋でこの日記を書いているあいだも、私の足元でクロがうろついています。
きのうの散歩は、いつもとちがうコースにしてみましたが、クロは気に入ったみたい。今日の散歩も楽しみです。
そろそろお父さんが帰ってくるかな。どうなったかは明日の日記で書きます。
◆
そうか、この時点で歩夢に話すことになったのか、と思い出す。
日記帳は毎日毎日続けていて、私は別に三日坊主というわけじゃないけど、日記を書いたりしない人種だからここまで続けられていたことが驚きだ。
それぐらいクロのことはきちんとやろうと思っていたということなんだろう。クロの散歩をサボった日は一度もなかったはずだ。
自分が拾ってきた以上自分がきちんと面倒を見る、というスタンスがあったことは間違いないけど、それ以上に「クロが好き」という前提があってこそだったんだろうな。
弟が自分の部屋に帰って、私はまた一人の時間を過ごしていた。日記を置いて、少し本棚の整理何かをしていたら、ハマっていた漫画に手を出してしまって、気付いたら三冊読んでた。
「しまった」
時計を見たらもう五時を回っていた。ああ、マンガ……マンガのせいで、時間が……。でもいっか。こんな時間の使い方も悪くない。
いつの間にか届いていた歩夢からのメッセージに『了解!』とテキトーな絵文字をつけて、送信。明日遊ぶことになった。
外が暗くなってきて、私は立ち上がって部屋の電気を点けた。二度、照明が瞬いて部屋の中に白い灯りが灯る。よくあんな暗いところでマンガなんて読めていたな。
取り出してきたマンガを元の位置に戻して、大きく伸びをした。
ほんの気まぐれだけど、せっかく実家に帰ってきたし、夕飯の準備の手伝いもしようかな。
階段を降りてる途中で母がキッチンで作業をしている音が聞こえてきた。食器が当たる音、水の流れる音。
リビングのドアを開けて、母に声をかける。
「なにか手伝おうか?」
「あら」
親孝行してくれるの?向こうから尋ねられて「そうそう」とテキトーに返事。
「じゃあ野菜切ってくれる?」
キッチンへ入ると、母はからあげの準備をしていた。ビニール袋の中に入った鶏肉が置かれている。いつも通り何かで漬け込んでいるみたいだった。
冷蔵庫を指さされて、言われた通り野菜室から野菜を取り出す。と言ってもキャベツとトマトだけだけど。
包丁を握るのは久しぶりな気がした。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ」
笑って答えたけど、正直ちょっと怖い。最近野菜を食べるにしても、レタスとか洗って千切るものだけで済ませていたし、普通に最後に包丁を使ったときのことを覚えていない。やばい。
母は油の準備を始めていた。IHクッキングヒーター。何年か前に、キッチン周りは大改修された。おかげで母もお大喜びだった。
お椀状の鍋に、金色の油。
そちらに気を取られないように、まな板を取り出した。ふぅ、と息を吐いて、ゆっくりと包丁の刃をキャベツに入れる。千切り、千切りだぞ、私。これだとぶつ切りだ。よし、思い出せ。
その時、私の携帯が鳴った。思わず息を吐き出す。いつの間にか息を止めてたみたいだ。
「休憩……」
「ちょっと!何もしてないじゃない」
「ちょっとだけ……」
「そろそろお父さん帰ってくるから、机の上片付けといて」
「はいはーい」
布巾を持ってリビングに戻り、ダイニングテーブルの椅子に座る。携帯を見ると、歩夢からまたメッセージが届いていた。
『明日はちょっと話したいことがあるから覚悟してて』
……か、覚悟……。なんだろう、彼氏でもできたんだろうか。
あの子はかなり変わってる(私が歩夢にそう言うと、そっくりそのまま同じことを言われるのだが)とはいえ、今回は少し驚く。突然変なこと言ってももう動じないつもりでいたけど、こんなマジな雰囲気のこと言われるのは初めてかも。まぁ、聞いてみたら大した話じゃないかもしれないけどさ。
でもなんて返したものか。『楽しみにしてる』とかでいいのか。いいのか?
うだうだ悩んでいると、ふとさきほどの日記の内容を思い出した。
歩夢はクロのことを知っている数少ない一人。どういう経緯で教えることになったんだっけ。
◇
「歩夢!」
歩夢と私が出会ったのは、小学校二年生の時。その時は教室の真ん中の席に座っているだけの、いつも大人しい女の子という印象しかなかった。彼女と仲良くなったのは、二年生の二学期、何かの授業――図工だったかな?――で一緒に工作した時からだ。
彼女は十歳にもならない年齢であるにも関わらず、なんだか随分大人びていて賢かった。一見ぼんやりしているだけの女の子だが、発言や行動はいつも一貫していて、その年にして自分自身のブレない芯がある“強い子”だった。
私はまあ昔からバカだったので、彼女の頭の良さにバッチリ気付くワケは無い。彼女と初めて喋って思ったのは、彼女の言葉の選び方や話し方が何故か心地よかったということ。そう思ったときには、一番仲のいい友だちになっていた。
休み時間、その日は朝に話すタイミングがなかったから、一時間目の授業が終わった後に話しかけた。
みんな休み時間が始まった途端、仲良しの子のところに集まるとか、運動場へ出て走り回るだとかをしていたけど、歩夢は違った。教室の中でぽつんと、ぼんやり何も書かれていない黒板を、頬杖をついて眺めていた。
「歩夢」
「どうしたの?」
もう一度呼びかけると、不思議そうな顔をして歩夢が振り向いた。茶色い瞳のタレ目が私を捉える。
「歩夢、秘密守れる?」
「……守れるけど……」
怪訝な顔。私は構わず続けた。
「今日、遊べる?」
「……遊べるけど……」
けど何?とまでは言わなかったが、その疑問は彼女の顔に書いてあった。
「歩夢に見せたいことがあるの」
歩夢は何かを得心したみたいに頷くと、そのことについてはもう何も聞かず、宿題やってきたかどうか、みたいなたわいもない話に話題が移った。
「歩夢ちゃんっていうと、あの……ちょっと大人しい真面目そうな子?」
クロのことがバレそうだ。そう仕事から帰ってきたばかりの父に玄関で伝えると、父は難しい顔をした。
足元にはクロ。父の帰りの出迎えも、さすがに素早い。
「おかえり~」
叶人も遅れてリビングから出てきた。父は靴を脱いで、駆けてくる叶人の頭を撫でた。
「ただいま」
靴を玄関の端に寄せてから、一度リビングに入って母にも「ただいま」と告げてから、手を洗いに洗面所へ向かう。
私とクロも、そのあとを追った。
「私何も言ってないよ?」
念のため、自分の身の潔白を証明。父は笑った。
「分かってるよ。海春が言わないのは分かってる。
……でもバレそうなんだろ?」
「そうなの!どうしたらいい?」
授業参観の時や、休みの日にうちに遊びに来た時に、父は歩夢の顔や雰囲気を見ていたので、彼女のことを知っていた。
「あの子なら、問題ないと思う。海春は?」
意見を求められて、すぐに頷いた。
「あの子なら絶対大丈夫。秘密なら誰にも言わない。自信ある」
私が鼻息荒く答えるのを聞いて、父はまた笑った。海春がそこまで言うなら、大丈夫だ。
そういう経緯で許可が降りた。ドキドキを抑えて、その日の夜は眠るに眠れなかった。まるで、遠足の前日みたいに。
「なんでそんなに嬉しそうなの?」
直接私の家に来ることになり、歩夢と一緒に帰り道を歩く。普段は一人なので、誰かいるというそれだけで新鮮だった。
そして何より、今まで誰にも言わなかった秘密をようやく言うことができるというのが何より大きい。
「なんでだろうねぇ」
歩夢の質問には答えずに、ニコニコ笑って誤魔化す。歩夢はまたもや不思議そうな顔をしたが、気にしない。
国語の授業で出てきた物語のことなんかを話しながら歩いていたらすぐにうちの家についた。先導して前を行く。そういえば、うちの家に人が来るのも久しぶりということになるんだなと思った。
「ただいま~」
ドアを開けて、いつものただいまを。駆けてくる音。爪が床に当たってカチャカチャ言う音。
「おじゃまします」
私の後ろに続いて、玄関に入った歩夢も、その音に気がついたようだ。
足音の正体はなんだと尋ねるみたいに一度私を見たが、すぐに奥から現れたクロに気付いた。
「クロ、ただいま!」
「……!?」
私が腕を広げると、いつものように胸の中に飛び込んでくるクロ。歩夢の視線を感じる。凝視。
遅れて母が出てくる。
「おかえり」
「ただいま!」
「こん……にちは……」
戸惑い混じりの歩夢の挨拶に母も「こんにちは!」と返して、そして私の腕の中に収まるクロを見た。
「歩夢ちゃん、いろいろ不思議かもしれないけど、とりあえず上がって行きなさい」
お菓子とジュースの用意はしているから、母は言った。昨日に歩夢を連れてくるかもしれないと言っていたので準備はバッチリである。
一度クロを床に降ろした。靴を脱いで上がる。歩夢もそれに習ったが、目はずっとクロに釘付けだ。
そんなに不思議なのかと、私は一瞬変な感じがしたが、よく考えれば歩夢の反応は至極当然なものだった。だって、こんな意味の分からない生き物を初めて見たら、誰だってじっと見てしまうだろう。
「じゃあごゆっくり~」
「ありがとうございます」
私の部屋に案内して、歩夢は部屋を出ていく母に礼を言った。
部屋の中には私とクロ、そして歩夢。私はベッドの上に座っていて、クロは私の膝の上に乗っかってくつろいでいる。歩夢は机の前のクッションに座っていた。
運ばれてきたお菓子には目もくれず、じっとクロを見つめる歩夢。
「この子がその秘密なの」
いつもリアクションの薄い歩夢が、見たことがないぐらいに驚いているのを見て、私も変な感じがした。
「これは、なに?」
ようやく喋った言葉がそれだった。
歩夢の言葉に反応してか、クロが体を起こす。そして歩夢の顔を少しだけ見て、興味はないといった様子でまた顔をそらした。
「何、なのかは分からないの。でも見たら分かるとおり犬でもないし猫でもないし……」
「飼ってるの?」
「うん」
「いつから?」
「夏休みの、終わりぐらい」
私が答えると、歩夢は――少し唇を噛んで、なにか一瞬思案して――「ふぅん」と言った。
「かわいいね」
「でしょ?」
頭をなでると、クロが気持ちよさそうに体を動かした。目はつむったままだ。
人が来ていても、一切動じずに平常運転という発見。少しは興味を持ったり怖がったりしそうなものだけど。そこも犬や猫と違うということなんだろうか。
「触ってもいい?」
いいよ、と抱く向きを変える。立ち上がってそっとクロに手を伸ばす歩夢。
珍しく興味津々。あまり見ない歩夢の姿だった。十年経ってからも友だちでいるけれど、この時ほどぐいぐい来る歩夢は、多分あんまり見ることはなかったはず。
「わ」
そして細い白い右手でクロに触れる。
一瞬の冷たさと、そのあとの温もり。歩夢もそれを感じたようだ。
「変なの……」
触った手をじっと見て、それからまたクロを見て、交互に二つを見て首をかしげた。
私は笑って「不思議だよね」というと、歩夢と同じようにクロを撫でた。
「で、この子のことは言っちゃいけないんだ」
「うん。ここまで珍しい生き物だと誰かが悪いこと考えるかもしれないでしょ?売ったりとか。
あと、連れて行かれて実験とかされたりしたら、絶対嫌だし」
そういうのは許せないし、絶対嫌だという考えはずっと変わらないままだ。
私の言葉を聞いて、歩夢は「誰にも言わないよ」と約束してくれた。
「よかった。誰にも言っちゃいけないってお父さんに言われてたから。でも歩夢には言ってもいいってお父さんが。だから、言ったの」
「そうなんだ」
何故か歩夢は意外といった様子で目を丸くした。自分の真面目さに気づいていないのだろうか。確かに、考えてみれば十年間そういう感じだったな。自分が正しいとはおもってないけど、無意識に正しいことをしているというか。
「誰にも言っちゃダメだからね」
「……分かった」
そうして歩夢も、私の秘密を共有する数少ない一人になった。その後も、私の家に来て私とクロと一緒に遊んだりした。家に呼べる子は実質歩夢だけだったが、友だち誰ひとりにも言えない状況に比べれば、天国みたいなものだった。
もともと良かった仲は、これを機にさらに深まった気がする(歩夢もそう思っているかどうかはともかくとして)。私たちは、秘密を介してもっと仲良くなったんだ。なんだか思うところがあった。秘密は弱点だし、弱点を人に知ってもらうというのは、信頼の証なんだろうなと私は思っているから、あの時点で私は歩夢を信頼していたんだ。あれは間違いではなく大成功だったと胸を張って言えるのは誇らしいことだ。
◇
「ただいま~」
私がぼんやりしながら机の上を拭いていると、玄関から声がした。父が帰ってきた。
鍵をカチャカチャ鳴らして、所定の場所に置く音。そしてリビングの扉が開いた。
「おかえり!」
「おかえり、海春」
父は繰り返した。これじゃどっちが帰ってきたのか分からない。いや、どちらも帰ってきたのか。
キッチンから顔を覗かせる母。
「おかえり」「ただいま」ここはいつものやりとりだ。安心感がある。
「今日は迎えに行ってやれなくてごめんな」
ネクタイを外しながら父が言った。ブリーフケースは床に置かれている。同じ会社に勤務を続けて何十年、それってすごいなと、この年になってようやく思う。
「いいよ、急に決めたし。そんなことよりお父さん今日の晩御飯何か分かる?」
「唐揚げだろ?」
間髪いれずに父は答えを当てた。
「海春が帰ってくるんだからな、そりゃ唐揚げだろう」
やっぱりバレていた。
帰宅して、仕事の書類の整理やスーツを着替えたりして、父がリビングに戻ってきたら、夕飯までもう少しになっていた。
「学校はどう?」
お決まりの質問。これは、私が一人暮らしをして家を離れているからとかじゃなくて、小学校の頃からずっと聞き続けられてきた質問だ。
さすがに毎日聞かれるわけじゃなかったけど、半年間も喋ってないと話したいことはたくさんある。
いや、進級の報告の時に連絡したし、それ以降もたまに電話はかかってきてたか。まぁ直接会ったのは、半年前以来ということだ。
「二回になって授業取れる幅が広がってさ。おかげさまでやりたいことやれてる。グループ実習も楽しいし」
「そうかそうか。大学は楽しいもんなぁ」
父は宙を眺めた。
そういえば、私には反抗期がなかった気がする。周りが「親ウザイ」だの「縁切りたい」だの物騒なことを言っている時も、別に私は親に対してそこまで悪い感情を抱くことはなかったかな。
そりゃ母に対してとか、苛つくこととかはあったけど、困らせるレベルの反発はした覚えがまるでない。弟の叶人は絶賛反抗期だけど、よそに比べたらかわいい方だろうし、うちの両親の育て方にも、やっぱり見習うべきところはたくさんある。
ま、私自身が出来た人間だったから、っていうのもあったんだろうけどさ。
……ないな。それはない。それぐらい分かる。
「海春の学業について不安に思うところはないから、好きにしたらいいよ」
「本当に助かるよ、そういう言葉……」
「やりたいことをやらせる」という父の考えは昔から一貫している。私が無茶を言わない性格だったっていうのも大きいと思うけど、それでも無茶は聞いてくれている。母は慎重なところが多い分、バランスは取れてると思う。
大学の周りの子が親の話をしているのを聞くと、みんなそれぞれ苦労していることを聞けるし、私が恵まれた家庭環境にあることもよく分かる。もちろん、ただ“ハッピーだった”だけで済ませるつもりはないし、ちゃんと恩は返さないとね。
「バイトはまだ居酒屋?」
「居酒屋はかなり前にやめたよ。酔っぱらいの相手がダメだった。あとタバコも」
「まー、仕方ないか。確かに海春には向いてなかったかもな」
「大きい声出さなきゃいけなかったし」
「苦手だもんな」
いい経験になったんじゃないのか、父は机の上に置かれていた麦茶をコップに注いだ。
「今は?」
「近くの会館みたいなところで受付みたいなことしてる」
“みたいな”が重なりすぎて自分でもよく分からない。ちょっと謎だけど、終業も遅くないし、給料もこっちで働くよりは断然悪くない。
「へえ。学生も採ってくれるんだな」
麦茶を飲み干す。私も同じようにコップに注いだ。
「外国の人がよく来るから、今までの積み重ねが実践できてすごくいいんだよね」」
あ、私なんかデキる感じあるな、今。このコメントは賢そうだ。
「父さんは、仕事どうなの?」
切り替えした私の質問も、お決まりの質問だった。
最初は学校で起きたことが何もないときに、反撃のつもりで始めた質問だったけどいつしかこれも私のお決まりになっていた。
「前まで新人だった奴が、さらに新人な奴に指導していたのを見て、なんだか感慨深かったな。ちょっと前まで、ちょっとしたことでパニクってたのに、いつの間にか成長してるんだもん」
「子育てみたいな?」
父は笑った。
「そこまで大げさじゃないけど、遠くはないかもなぁ。どっちかっていうと、親戚の子どもでも見てる気分かな」
「へぇー」
私たちが会話をしていると、母がキッチンからまた顔を出した。あ、手伝いのことすっかり忘れてた。キャベツの千切り……。
「海春!叶人起こしてきて」
あの子多分また寝てるから、母はそれだけ言うとまた作業に戻った。
そして今の今まで弟の存在を忘れていたことに気付く。私に相談したあと部屋に戻ったんだったな、姿を見ないと思った。
帰宅後自室にこもったりすることが多くなった叶人に、ご飯ができたと告げに行くのも、そういえば私の役目だった。
父さんは叶人に彼女が出来たことを知っているんだろうか。私に彼氏が出来たときの慌てっぷりは我が家史に残るオモシロ事件だと思うけど、さすがに我が子に恋人が出来ることが二回目ともなればもう動揺しないだろう。しかも、息子だし。
「叶人ぉー、ごはんー、できたってよー」
階段を登りながら、なんだか久々の時間に自分がぴったり溶け込んでいることに気づいて、ちょっと嬉しくなった。
◆
10月31日(火)
今日はあゆむがうちに来ました。クロもかなりあゆむになれたみたいです。私が帰ってきた時ほどじゃないけど、あゆむがうちに来たらかなり喜ぶようになりました。二人とも仲良くなってきてうれしいです。
そういえば、クロについてまた新たな発見がありました。
散歩している時に発見したのですが、クロは私のカゲにも入ることができるみたいです。今までは物のカゲに入るばかりだったけど……。
きのうの散歩の時に、街灯だらけの場所で人が来たときのことでした。私のカゲにすっと入り込んで、びっくりした!
よく考えれば、カゲに入れるのだから私のカゲだろうと他の物のカゲだろうと関係ないだろうに、ようやく気付けました。
あと、散歩の時に少し変な人に会いました。お父さんは「ふつうの人じゃない?」と言ってましたが、私にはそんなふうには見えませんでした。
あの人は、なにか、変です。クロのことをまるで知っているかのような感じがありました。気のせいだといいんだけど……。
◆
自分の部屋に戻った私は、また少しだけ日記を読みすすめていた。
この日の日記に出てくる“あの人”っていうのは、一体誰だったろう。クロにまつわる話は事細やかに覚えていると言ったけど、やっぱり一部前言撤回。この“あの人”とやらについては一つも記憶が無い。
覚えていないってことは、大したことないってことなのかな。私はこの人のことを怪しんでいるけど、父はそう思わなかったようだし。
私はまた日記帳を置いて、ふと先ほど食べたばかりの唐揚げの味を思い出した。
一家団欒、久しぶりの四人家族での食事を終えて、私は大満足だった。
久々の唐揚げは、やっぱり美味しくて、まだ口の中に旨味が残っているみたいだ。ジューシー、カリカリ、もうこれ以外の唐揚げは偽物だと思うほかないだろう。
「ごちそうさま……」
食事を終えたらすぐさま叶人は自分の部屋へ戻ってしまった。別によく知らないけど、こんなものなんだろうな。
ごちそうさまってちゃんと言えるだけ偉いと思うよ、私は。
さて叶人がいなくなったあとは、テレビも点けずに父と母と三人でいくつかの話をした。学校や仕事場の話じゃなくて、今あの映画がやけに流行っているだとか、そういう話だ。
「あれ、そんなに面白いの?アニメでしょ?」
「日本での興行収入がトップ10に入ったんだったっけ?」
私もまだ見ていない(今度の休みに大学の友だちと見に行く予定だ)ので、内容はよく知らないけど、ここまで評判になるにはそれなりの理由が必要なはずだ。
「私、見に行くよ、今度」
「ほら、海春も見るんだってさ」
父は見たいらしかった。母は渋面のままだったが、父の言葉にまたも懐柔されている。我が家ではよく見る光景だ。
「アニメには興味ないけど、ここまで評判になるんなら、ちょっと気になるかなぁ」
母の思考のそれが私と全く一緒で笑った。
「じゃあ次の休みに行こう。映画館で映画なんて久しぶりじゃないか」
父はとても嬉しそうだった。
そのあとも気になる世間話をいくつかして、ちょっとした議論なんかを挟みつつ(我ながら真面目だと思う)、あとは、私も自分の部屋に戻ったのだった。
横になって日記をぱらぱらめくると断続的に風が顔に吹き付けた。
“あの人”、“あの人”……おかしいなあ。ここまで覚えていないのはやっぱりおかしい。気になる。今更気にしたってどうしようもないけど……。
一度、“あの人”のことは頭の隅へ追いやって、私はもう一度日記のそのページを見た。
十月三十一日。ここでハロウィンの日だったか。
私が書き込んだ日記の残りページ数を数えると、もうあとわずかだ。それはつまり、日記の終わりを意味していた。約、二十ページ弱。日付に換算すれば三週間足らず。Xデイは、遠くない。
日記を読み進める度、気分が落ち込む。
やっぱり、気分転換のために、クロの違うことを考えることにした。
◇
クロを一度だけ、日中に外へ連れて行ったことがあった。
あれはいつだったかの日曜日。多分、十一月の初旬だったかな。十月末ではなかった。日記のもまだ出てないし、そうだろう。
父の運転する車に乗り込んで、母が助手席、私と叶人が後部座席。私と弟のあいだに、クロが鎮座(その堂々さたるや!)していた。
日が出ている明るいうちに外へ出られることをクロが喜ぶかどうかは定かではなかったけど、嫌な素振りは見せなかった。でも、喜んでいたのかどうかは正直なところ分からない。
クロを外へ連れて行こうということを言い出したのは、叶人だった。
「たまにはお日様のもとにあててあげたいな」
私にとって弟のそれはすごく真っ当な意見だった。クロは私たちの家に来る前は、人目など気にせず、一人で日没前も歩いていたんだ。
その日あたりの散歩で、クロが私たちの影にも隠れられることが分かっていたので、父も賛成した。
「じゃあせっかくだから、家で作ったお弁当を外で食べよう」
母もノリノリで、私たち家族は満場一致でクロを外へ連れて行く作戦を決行することになったのである。
車の道で、何か問題が起きることもなく、無事に少し遠くの公園にたどり着けた。
父によるとその公園は“穴場”らしく、少し肌寒くなってきた季節だったのも相まって、人の数はそう多くなかった。駐車場に止められた車の数もまばらだ。
まず私が車から降りて、反対側のドアから叶人も降りた。私が「おいで」と言うと、クロも車から降りてきた。
「さ、行こう」
父は荷物を持って、母は叶人と手を繋いで、私はクロを誘導しながら(しなくてもついていきてくれるけど)、公園の中へと入っていった。
ほどよい木の下で、レジャーシートを敷いた。
「クロ、走り回ってもいいよ」
でも人に見つからないようにね。私がそう言うと、クロはどことなく頷くような仕草を見せて、そしてピューっと走りに行った。叶人も最初はそれについていっていたが、すぐに疲れてしまって泣き言をあげていた。
私は母と、持ってきたバドミントンのセットを取り出して軽い打ち合いをし始めた。二人とも運動神経はお察しだったので、まあ驚くほどラリーは続かず、まるで素振り大会でもしているみたいだったのを覚えている。
「あー!」
あらぬ方向へ飛んでいくシャトル。
「下手くそだー」
……叶人の笑い声がムカついたことも、覚えている。
クロはというと、バドミントンが物珍しかったのか、ひとしきり走り終えあとは、じっと父の隣に座って私たちの素振り大会の様子を観戦していた。
「僕がやる!」
言い出した弟にラケットを渡して交代。私は持ってきていたフリスビーを取り出して、クロを呼んだ。
「クロ!行こう!」
ちなみに、その前に何度か夜の散歩の時に近所の公園でフリスビーを試してみたけど、クロはキャッチすることができなかった。どうやら食事と同じ判定らしかった。
だからそのフリスビーは私が楽しむようである。
適当にフリスビーを投げて(何故かこれだけは上手かった)、そして飛んでく円盤をクロと一緒に追いかける。なんでもない、遊びだけど、おかしくておかしくて仕方なかった。向かい風を受けて進めなくなったフリスビーになんとか追いついて、芝生の上に滑り込んでキャッチすると、クロも私の上に滑り込んできた。
「ちょっとぉ!」
私が笑いながら文句を言うと、クロは逃げるみたいに私たちのシートの敷かれた木の下に駆けていった。
そしてみんなで木の下で食事を摂って、くつろいだ。あの時食べた母が作るツナサンドは、生涯のうちでも忘れられない味にランクインするだろう。
私たちは、幸せだった。
クロも多分、幸せだったと思う。
◇
多分、あの時の写真も残っているだろう。父のデジカメで、母が私たちを写しまくっているのも覚えているし、探せばどこかにあるはずだ。
「はぁ……」
楽しかったな。なんだか、思い返すだけでため息が出る。
ぱらぱら日記をめくる。その日の記述は、いつも以上に大変楽しそうだった。でも、多分疲れていたんだろう。いつもより無茶苦茶に短くて、簡潔な文章だった。
『11月5日(日)
今日は、私のこれからの人生の中でもトップレベルに最高で楽しい日だったと思う。私は、幸せだ!』
公園に行ったとか、初めてクロを日中に外に出したとか、そう言った話は一切あらず、ただこれだけ。でも、この文章から感じられる幸福感を、私は今も文字越しにひしひしと感じることができる。
「楽しかったもんなぁ」
感慨深い。私は、またため息をついた。
日記の残りは、あともう少しだった。できることなら、これ以上は読み進めたくない。
結末は、もちろん覚えている。絶対に、忘れられない、結末。
考えるだけで目頭が熱くなる。抗いようのない哀しみ、私は、下唇をぎゅっと噛んだ。
「なんでかなぁ」
また、日記を放り出した。壁を背にするようにしてもたれかかっていたけど、それをやめてまたベッドに横になる。仰向け、天井が見えた。白い天井、白い照明。
十年前、私はあの時も……。
もう一度、日記を手に取った。今度はベッドの上じゃなくて、きちんと部屋の中にある椅子に座った。
別に、読む必要はないのだろう。何かに行き詰まっているわけでもないし、何かのヒントが欲しいわけでもない。感慨に耽りたいわけでもないし、もちろん悲しみに身を浸したいわけでもない。
でも今は読まなければいけない気がした。
覚悟を決めた。最後の日付に向かって、一枚ずつ、一枚ずつ、ページをめくる……。
一日一日の感想、クロの様子が記された日記帳。こんなことがあった、あんなことがあった。そんなことを見つけた……。
最後の日まで、もうあと一枚。ページをめくれば、最後の日が蘇るのだ。
私は、息を吸って、そして吐いて、まるで世界の命運を懸けた勝負に挑むような心持ちで、ページを、めくった。
◆
11月 17 日 (金
◆
ページをめくった手が震える。
十一月十七日の文字も同じようにふらふら揺れていた。きっと震える手を抑えながら書いたんだろう。そして、私は日付以外に何も書く事ができなかった。その日付にも、インクの滲みが残っていた。
どうしてあんな結果になったのか、理解できなかった。
部屋の中は静かだった。隣の部屋で叶人がゴトゴト物音を立てた。下の階から母が食器を洗っている音がする。
鼓動が早まる。
そう、クロのことなら思い出せる。クロのことなら、鮮明に覚えている。
出逢いも、別れも。
どちらも私にとって、絶対に欠けることのない記憶。
私がこの日記を書いたのは、突然あの出来事が起きてから一日経った次の日のこと。頭の整理、気持ちの整理、たった一日でつくはずなんてなかった。書かないと、と思ったんだ。
でも、私は何も書けなかった。何も書く事ができなかった。それは多分当たり前だろう。私は、驚きと悲しみのど真ん中にいたんだ。
十一月十六日、あの日クロに起こったことは、説明のつけようがない。ただ、言えるのは……。
◇
「お父さん!!」
大きい声を出すのは、昔から嫌いだった。理由は簡単。面倒だから。
母が言うには赤ちゃんの時から、泣き声も小さくて、家の中で音楽なんてかけようものなら、それだけで私の声が聞き取りにくくなるぐらいだったという。
もともと声も小さかったし、 十年間大きい声を出さなくてもいい環境で生きてきた。「腹から声を出す」なんて言い方があるけど、それの意味なんて分からなかった。
それで支障をきたすことなんてなかったし、これからも大きな声なんてあげるつもりもなかった。
でも、その日は違った。
「お父さん!!」
父を呼ぶ私の声は、多分今までの十年間で最も大きなものだったと思う。私自身、自分の喉……いや、お腹からそんな声が出るなんて思いもしなかった。
「クロが!」
日課になっていた夜の散歩を終えたあと、私はいつものようにクロとリビングで遊ぼうとした。でもその日は母が何やら作業をしていたので、何か言われる前にクロと一緒に二階に上がり、私の部屋で遊ぶことになった。
私とクロは、私の部屋で二人になった。
しばらくは一緒におもちゃで遊んでいたけど、ある程度遊ぶとクロも疲れてきたのか、目元がとろんとしてきた。これもいつものことで、遊び疲れたらクロは眠そうにする。その日も、そうだと思った。
「クロ、眠たいの?」
私が尋ねると、クロは頷いた。
黒い影のような体を動かして、顔を床につける。尻尾がメトロノームみたいに同じ感覚で左右にゆらゆら揺れている。
私は読みかけの児童小説を一冊手にとって、クロを呼んだ。
「じゃあおいで、ここで寝なよ」
足を崩して座る。女の子座りというやつだ。膝の上をポンポン叩くと、クロは眠そうに目をしぱしぱ瞬かせながら、私の膝の上に乗っかかった。冷たさとその後の温もりが染み込んでくる。
クロが眠りにつくまで私はクロの頭を撫でてあげていた。
そこまでは、よくある光景だった。私の膝の上で眠るクロ。それを起こさないように、そっと机の上に置いた本を読む。
十歳ながらにそんな風変わりな幸せの感じ方を覚えていた。
だが、その幸せに、突如異変が訪れた。
「え……?」
膝の上に滴る何かの違和感。冷たい。
文字を送る手を止めて、視線を落とした。
「え?え?え?」
見たままの光景、私の膝の上で眠りについているはずのクロ。その身体が、とろとろと、溶けていた。私の膝の上に滴ったのは、クロの身体の一部。黒い、身体の一部だった。
パニック、だった。動揺して、どうしたらいいかわからず、一瞬のうちに頭の中が真っ白になった。クロの身体が、溶けているのだ。何が何やら、私は無茶苦茶に怖くなって、クロを揺らした。
「クロ?クロ?」
でも、確かな反応はなかった。いつもなら、揺らせばすぐに起きていたのに、死んでいるみたいに目を開けない。わずかに身体は上下しているので、息はあるはずだった。
「お父さん!!」
気づいたときには叫んでいた。
「お父さん!!」
今まで出したことのないような大声は、私の家の中に響き渡った。顔から血の気が引いていくのを感じた。体を動かすことができなかった。立ち上がったら、クロが溶けるのがもっと早くなりそうな気がして。
すぐに、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。父と母、二人。叶人はその時、もう眠りについていた。
「海春!?」
開けっ放しだったドア、廊下から血相を変えた両親が飛び込んでくる。今までに聞いたことの無いような娘の大声、驚かないわけがない。
「クロが……!」
涙目だった。目の奥がギュッとした。口元がワナワナ震えて、異様なまでに汗をかいていた。
「どうしたの!?」
両親が私の両側に駆け寄る。そして膝の上にいる、溶けていくクロを見て、顔色をサッと変えた。
「……!」
「溶け……!?」
父が、すぐに私の前にあった四脚のテーブルを勢いよくどけた。
「どうしたらいいの!?」
泣きじゃくるみたいな、喚き。ただとにかく怖かった。私が叫ぶあいだも、クロは私の上で溶けていく。いつの間にか私の膝の上は、真っ黒な何かに染まっていた。冷たい冷たい液体みたいな、粘度の高い液体みたいな何か。
「大丈夫だ」
父は、明らかに動揺していたが、それでも、じっと私の目を見て、目を見て、目の奥を見て、言い切った。
「大丈夫だから」
母が私の手を握った。力強く、握り締められた。細い手が、私の手を抑えるみたいにぎゅっと。
混乱していたのはみんなそうだったけど、二人の言葉と手が、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、私を冷静にさせた。
息をした。気付いたら、肩を上下するぐらいすごい呼吸をしていたんだ。落ち着かないと、と思った。大きく息を吸い吐き出した。
「下に運ぶか?」
父が母に聞く。私は、首を横に振った。
「動かしたらダメだと思う」
もっと溶けちゃう。確証はないが、確信めいたものがあった。私の言葉を聞いて、母は頷いた。
「私も、ここがいいと思う」
「でもどうしよう」
私たちが顔を合わせている間にも、クロは溶ける。
どうしたらいいかなんて、その場の誰にも分かるはずなかった。
クロの体がわずかながらに上下する。尻尾も、少しだけ動いている。やっぱりまだ息はある。真っ黒な目は開いていない。でも、どこか、表情だって見えないのに、言葉も唸り声も何もないのに、苦しそうに見えた。
その時、また何かの直感があった。声が聞こえたとか、そういうわけじゃないけど、そうするべきだと思った。
「お父さん、電気消して」
「分かった」
クロは、暗闇の中に溶ける。自分の小屋の中に入ったときは暗闇に入る。外で危なさそうだと感じても同じだ。クロは、暗闇が好きなんだ。
この部屋を暗くしたら、何かよくなるかもしれないと思った。少なくとも、クロの苦しみが和らげられる気がした。全部が直感だった。
パチッ。白い電気が消えて、私が眠りにつく時と同じように部屋の中が真っ暗になる。
そう、私が眠る時と同じように。
「あ」
暗くなるとクロの身体の動きが直接私の皮膚に、染み込んでくるようだった。ゆっくりと上下する、鼓動が、そのうねりが私に伝わってくる。
途端になぜか、ふわふわとした何か言いようのない安心感みたいなものが私の中に染み込んできた。
膝の上を覆っていたドロドロした粘度の高い液体が、いつの間にか消えていた。闇に溶けたんだ。私の膝の上にあるのは、クロの身体だけになった。
そっと右手を差し出してクロの頭を撫でた。
部屋の中は真っ暗で、何も見えなかったけれど、クロが気持ちよさそうにするのが見える気がした。
クロが私の体に寄りかかってきた。
「……クロ」
そして、いつも私が帰ってきたら出迎えてくれるみたいに、私にぎゅっと体を押し付けた。まるで、私に願っているみたいだった。抱きしめて、と。
手が、震える。
私は。
「クロ……ッ!」
ギュッと。
いつもみたいに、抱きしめた。
頬に、クロの顔が当たる。ひんやりとした感触。氷みたいなびりびりした冷たさが、私の頬に染み入って。そして、その冷たさを拭い取るようなじんわりとした温かみが伝わってきた。それは私の頬だけでなく、私の身体、私の心まですべてを包んだ。
「ねえ、クロ」
問いかける。
「……どこかに……行っちゃうの?」
クロの尻尾が私に手に触れた。
「まだ、全然、だよ?」
視界が滲んだ。
「うちに来て、全然、時間、経ってないよ?」
でも暗いから、そんなこと関係なかった。
「もっと、傍にいてよ」
クロの鼓動が聞こえた。
「もっと一緒に、いてよ……!」
穏やかな音だった。
「お願い……だからぁ……」
クロは、また力強く私の顔にぐいぐいと自分の顔を押し当ててきた。それが、クロの返事だった。
『さよなら』なのか、『ごめんね』なのか、『またね』なのか。そんなこと、分かるわけないじゃん。
勝手だよ。いきなり、いなくなるなんてさ。
私の、胸の中から、感触が消えた。
強く抱きしめていた分だけの力が、私に返ってくる。私の両腕が、私の体を打ちつけた。
今までそこにあったものが、忽然と消えた。跡形なく。形残らず、闇に消えた。影に消えた。この部屋全体が影だった。
胸が空く。
ぽっかりと、穴が開く。
埋めようのない穴が開く。
「クロ」
目の前が、滲んだ。暗いから関係ないけど、暗闇の中にクロの毛の上に浮かんでいた模様みたいなものが見えた気がした。
◇
父がもう一度電気をつけたときには、ややっぱりもう影も形も残っていなかった。クロは何もかも、何も残さずいなくなっていた。
クロが消えた。もう戻って来ない。突然、突き放されたみたいに、私は呆然とした。
放心して肩を抱いて固まったままの私を両親はそっと抱きしめた。
『今日はもう寝なさい』と言われて、私はそれに従った。その日の晩は、傍に二人ともいてくれた。
二人がいてくれても、一睡もできなかった。目が冴えて、何も考えがつかず、ただひたすらクロのことが頭の中に浮かんでは消えるのを繰り返していた。
ぽろぽろ涙がこぼれ出したのは、私のベッドの傍にいた両親が眠気に負けて眠りについたときぐらいだっただろうか。涙を目に溜めるだけじゃなくて、ようやく流せたのは、その時だった。
そのあと涙は、堰を切ったように流れ出てきた。一晩中泣き明かした。
目がパンパンに腫れるまで、延々と泣き続けた。涙が涸れるぐらいまで泣くっていうのは、ああいうことなんだろう。
体調不良を理由にして次の日の学校は休むことになった。ある意味体調不良ではあったけど、どちらかというと精神面でのダメージが大きすぎて、それが体調にまで影響を及ぼしたというべきだろう。
十一月十七日はベッドの上で一日を過ごした。何も手に着かない、無気力が私を襲う。
学校から帰ってきた叶人には両親が「クロは遠くで引き取ってもらうことにした」と説明した。叶人も納得できなかったみたいだけど、次第にそう信じた。
今、こうやってあの日――十一月十六日――の事を思い返してみても、涙が浮かんでくる。
私のこの部屋で、私のこの胸の中で、クロは消えたのだ。そして二度と戻らなかった。考えるだけで胸が痛くなる。思い出したくないぐらい、辛い記憶。でもいつも心の中に置いておきたい、大切な記憶だ。
日記を置いた。私がこの日記を母の部屋のどこか覚えてもいない場所に押し付けたのは、クロの事を思い出すのがもう辛かったからなのかもしれない。
でも、まだ気になることがあった。クロが突然消えた理由は分からないままで、その理由を探すのはきっと無謀な事――それまでのクロの行動も雰囲気も何も異変はなかったし、理由があるなんて思いたくなかったんだ――だろうと私は勝手に思っているけど、まだ、疑問があるじゃないか。
十月三十一日の日記に出てきた“あの人”だ。私が不思議に思った人。何かクロに関係があるんじゃないかと、あの時の私は睨んでいた。
でもやっぱりその“あの人”とやらの記憶は一切残っておらず……。思い出そうにも、なかなか思い出せない。その日の散歩で誰かに会った事は、あった気がするけど、そんな不思議な感じの人に出会っていたら必ず覚えているだろう……。
私がうんうん頭を悩ませていると、ふと、突然、頭の中の何かの栓が抜けたみたいに、ドバッと記憶が蘇えってきた。
□
『別れというのは、突然やって来るものです』
若い男の人の声。
姿も蘇る。人の良さそうな、笑顔と、長身。二十代前半、いや下手したら十代後半?声質はどちらかというと大人っぽいが、顔つきや体はまだ大人っぽくない。
公園、私と父がその人に向かい合っている。クロは私たちの陰に隠れているようだった。
『貴女にも、それは訪れるでしょう』
謎の言葉を発する男の人。落ち着きのある声だった。
その顔は、どこかで見た覚えのあるもの。
これは、あの十月三十一日の記憶なの?
『影の獣はあなたたちを愛しているのですね』
彼は笑って言った。消え入りそうな神秘的な笑い方だった。
こんなこと、覚えていないはずなのに。あまりにもしっくりくる。これは間違いなく私の記憶だ。
『そ……では失礼……ます。私のいも……世話……なっ……』
□
男の人の声は、それ以上思い出せなかった。
不思議な感覚。まるで古い封印でも解かれたみたいな感じ。
そんな人と話した記憶なんて今の今までなかったのに。でも、確かに私の中に残っていた記憶なんだろう。何かのはずみで忘れてしまっていたのか……。それをまた、何かのはずみで思い出した、と?
夢だったのか、現実だったのか。あの人は一体なんだったんだろう。
『影の獣』、あの人はそう言った。もしかしたら、クロを知っている人だったんだろうか?なんで今の今まで忘れていたんだろう?
謎。この人は、何かを知っていたのかな。でもやっぱり今更思い出してもどうしようもない。すでにこれは十年前の記憶。彼がクロのことを知っていたとして、今から彼を見つけ出すことなんて不可能だろうし……。
何者かどうかよりも、なぜこのタイミングでそれを思い出したのかが分からない。
『影の獣はあなたたちを愛している』
その言葉の持つ魔力は、謎や疑問に覆いかぶさって、それらの持つエネルギーを、消し去ってしまうような気がした。
何に悩んでいたのか、もはや何を思い出したのかすら曖昧になってきた。せっかく思い出した男の人の顔も、何故かすでにうっすらと消え始めている。
この声は、あの人は、なぜこのタイミングで脳裏に蘇ったんだろう。そもそも、あの人ってなんだったっけ?
私は、ごちゃごちゃになった頭を整理するために一階へ戻った。途中弟の部屋の前を通り過ぎる時に、弟の鼻歌が聞こえてきた。私が泣きそうになったり変な記憶を掘り起こしたりしているときにご機嫌なことである。
「……」
リビングは静かだった。それもそのはず、二人は各々自分の好きな事をしているからだ。
母は何かぬいぐるみみたいなものを編むのに必死だったし、父は本を読むのに必死だった。同じダイニングテーブルに向かい合って座っているのに、なんだか妙な光景だ。
「ん?」
私がリビングに入ってきたことに気付いた父が本を読む手を止めて振り返った。
「どうかしたか?」
「……うん」
私が答えると、母も手を止めた。
笑って胸の前で手を振る。
「そんな、大したことじゃないから二人とも好きなことしててよ」
「なによ、急に」
「……なんとなく、二人の近くにいたくなって」
自分らしくないとわかっていても、勝手にそんなことを口走っていた。
私は二人を見ながらほんの少しだけ、考えることをやめた。
リビングの時計は十年前から同じものだ。静かになったら聞こえる秒針が一刻を指し示す音も、以前から何も変わっていない。
いつの間にか頭の中はまるで結露したガラスの水滴をふき取ったみたいに、スッキリしていた。
◇
9月19日(月)
ねぇ、クロ。
私、もうハタチになりました。
あれからもう十年です。
あなたと出会って、あなたと別れてから、もう十年が経った。
あなたはあなたがいた証も何一つ残さず、真っ暗の中に消えてしまったけれど、私はあなたのことをずっと、ずっと覚えています。
いつどんな時も、あなたのことを忘れたことは無いよ。
あなたは私の友だちで、私の家族。
たった三か月だけの家族で、たった九十日間の友だちだったけど、それでも十分過ぎると私は思います。
あなたについて知らないことは星の数だけある。
でも三か月の間に、あなたについて知れたことは、それと同じぐらいあると思ってる。
あなたは言葉を発せないし、表情だって作れない。だからあなたが何をどう思って、どう考えていたかはどうしたって分からないけれど、あなたも私や私の家族、友だちのことを好きでいてくれたと思いたいな。
ねぇ、クロ。
あなたは元気でやってるの?
私は、元気よ。
あなたがいない生活は、ぽっかり穴が開いたようで、それからの毎日は虚無感との戦いだったけど、月日がそれを少しずつ埋めてくれた。
だから、大丈夫。
もしあなたがあの時、罪悪感や申し訳なさなんてものを感じて、それを今も覚えているのなら、さっさと捨ててしまってね。
でも、これだけは覚えていて。
“私はあなたが大好きだった”
あまりにも突然で、すごく悲しい別れだったけど、私はあなたに出会えて本当に良かったと思っています。
ねぇ、クロ。
十年経って、いまさらだけどさ。
あの時、笑って「さよなら」とか「ありがとう」って言えたら、良かったのにな。
でも、今なら言える。私も大人になったからね。
さよなら。
ありがとう。本当に、ありがとう。
最後まで閲覧ありがとうございました。
次の話も頑張って書きます。