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◇
――コン、コン、コン。
なんとなくノックの音に不穏な気配を感じた店主――エリク・グッドウェイは、咄嗟の判断でダリル少年を呼び戻した。営業中の看板が掛けられた店のドアをわざわざノックするなんて、ろくな用件を持ち込まない人物に違いないことがすぐにわかる。しかし、そう、繰り返しになるが、営業中の看板が掛かっているのだ。となれば、ノックを無視するわけにもいかない。エリクは渋々、誠に遺憾ながらも、どうぞと一声かけた。
どうぞの声の後に店へ入ってきたのは三人。一人は面識のある人物だが、残り二人については見たこともない。一人は若い女で、大層美人だ。もう一人は背の高い老人で、中々に渋い洒落者といった雰囲気を醸している。そこまで確認して、エリクはカウンターの下へと潜って隠れた。面識のある人物――メリエル・ウォルトンとばっちり目が合い、彼女がとてつもない怒気を纏っていることをすぐさま察したからである。
「失礼いたします。エリク・グッドウェイ騎士はこちらにいらっしゃいますか?」
女性の声だが、声のトーンはエリクが知っているどの声とも違う。知らない声だった。少なくとも、メリエルのものではないようだ。
掛けられた声に対してとった行動はといえば。エリクはカウンターの陰から手だけを出して、ちょちょい、と手招きをしてダリルをカウンターの内側へ呼ぶ。
「これから言うことをそのまま、そのまま言うんだぞ。そうしたら、弟子にしてやることを考えなくもない」
「ほんとか!? 言う、言うよ!」
エリクはダリル少年に耳打ちをした。
内容を聞いたダリルは一瞬怪訝な顔をする。しかし、弟子入りを考えてもらえるとなればお安い御用とばかりに、次の瞬間には勢い込んだような顔つきになっていた。そして再びカウンターの外へ出ていくと、ダリルは少年期特有のボーイソプラノでこう宣言したのだ。
「僕が、エリク・グッドウェイ騎士です」
店内が静けさに包まれた。カウンターの下に隠れているエリクには窺うことができないが、メリエルが纏っている怒気が膨れ上がったような気配がしたような、そんな気がする。
「……あの、エリク・グッドウェイ騎士は子供ではないですよね……?」
しばらくして、やや警戒しながら、そろりそろりと静寂が破られた。さきほど聞こえたのと同じ声に、少なからぬ困惑の色が混じっている。
子供じゃないやい、というダリル少年の声を尻目になるほど、とはエリクの感想である。つまり、声の主が言っているのは、ダリル少年では若すぎるのではないかということだ。確かに、十かそこらの子供では、騎士になるための要件を満たすことはできない。ならばとエリクは、階段の方に立っているエステラに手招きする。長い付き合いになるエステラは、わざわざ耳打ちするまでもなくその場で頷いた。
「私が、エリク・グッドウェイ騎士であります」
再び静寂が訪れる。訪れた静けさはしかし、予測通りのことでもあった。九分九厘覚悟の上である。二度目の挑戦は、言うなればダメでもともとの挑戦だ。
「エリク・グッドウェイ騎士は女性でもないはずです。――第一、やっぱり聞いているより若いですし」
今度の指摘は、先程よりもいくらか自信に満ちていた。心なしか、少し冷ややかになったような気もする。
さて、どうしたものかとエリクが考えた、その瞬間。膨れあがりきった怒気がついに爆発し、怒声の礫がカウンターの防壁を乗り越え降りかかってきた。
「なにをくだらないことをやっているんだ! 早く出てこい!」
もはやこれまでと、いや、最初から手詰まりだったような気がしなくもないけれど、とにかくエリクは渋々カウンターの陰から出て行くことにした。
「いらっしゃいませ。何か御入り用で?」
リーブラ・カストルムの店主ではなくエリク・グッドウェイ騎士を探しにやってきたのは明白だったが、最後の悪足掻きとばかりにエリクは店主としての応対を試みた。
「御入り用で、ではない! 一体全体、何故こんなところで油を売っているんだ!」
「油? ああ、油ならそちらの壺に入ってますよ」
「やかましい!」
メリエルはぜえぜえと息を荒らげながら、エリクへと詰め寄ってきた。
「召喚令が出ていたはずだ! それをお前っ、当然のように無視しおって……」
「召喚令?」
エリクは首を傾げる。嘘でも冗談でもなく、全く心当たりがないのだ。
「そんなもの届いていたかな、エステラくんや」
「さあ、どうでしょう」
エステラも同じように首を傾げた。見知らぬ人を目の前に、分厚い猫は被ったままだ。店の客ではないがエリク自身への客であるということは、エステラでなくても判断できるだろう。その上実のところ、エステラはメリエルと顔見知りであった。――自身の上司が敬語を使う相手に、粗暴な本性は明かせまい。エステラが丁寧な物腰を保ったままなのは、つまりこういう理由である。
「もし届いていたとしたら、いつものように書簡入れに入れたはずですが」
「ああ、なるほど」
エリクはそれで合点がいった。
「なら、いつものようにそのまま捨てたかな」
「なっ、お前っ、捨てただと!? 何を、何を馬鹿な……っ!」
メリエルは信じがたいものを見聞きしたかのように絶句した。いいや、実際信じがたかったのだろう。メリエルは元来、真面目な人間である。国への忠義も厚い。そのような人物からすれば、国からの書簡を、目を通すことすらせず捨てるなんて考えることすらできないのであろう。そもそもメリエルの性格に言及するまでもなく、国から直々に送られてきた手紙を捨てるなど、普通はしない。普通はしないのだが、エリクにとってはそうとも言えないのである。
「あー、そのですね……。何といいますか、いつもの捨てていい手紙かと思ったんですよ」
「国からの手紙に捨てても良いものなどあるか、馬鹿者っ!」
エリクの言い訳に対して飛んできたのは、メリエルの尤もな言葉である。
「そもそも、いつも捨てているかのようなその口振りは、なんなんだっ!」
「いやだなー、文句ならヴァーノン法務官殿に言ってくださいよ。俺だって、あんなおっさんからのラブレターなんか貰いたかあないんだから」
エリクは溜息と一緒に吐き出すようにそう言った。初老一歩手前のおっさんから送られてくるラブレターは、それが文字通りの恋文という意味のものでないにしても、中々に堪えるのである。
「そんで、今日はどのようなご用向きで? 買い物じゃあないんでしょう?」
話が厄介な方向へ進む前に、エリクは本題へと無理やり突入させることにした。召喚状が出ているということは、大方いつまでもやってこないエリクを引っ張りにやってきたに違いない。だが、そもそも喚ばれてやるような覚えなど、エリクにはないのだ。
「……ああ。待てど暮らせどお前が来ないから、こっちから迎えに来てやったんだ。任務の内容は――」
「――それについては、私から説明致しましょう」
ここで口を挟んだのは、もう一人の女であった。メリエルの剣幕に、怒鳴られている本人でもないのに萎縮していたが、ここへ来てようやく復活したようである。――もう一人、年老いた長躯の男だけが、未だに口を開く素振りを見せない。エリクには老翁がわざと気配を消しているように思え、それがどうにも不気味だった。
「エリク・グッドウェイ騎士。貴方には、私の護衛について頂きたいのです」
エリクは眉を顰めた。国から護衛の依頼が出るほどの人物とは、一体如何ほどの者であろうというのが一つ。そして、なぜそのような人物の護衛といういかにも重要そうな任務が、末端も末端の自分に回ってきたのだろうというのが一つ。それぞれの疑問はしかし、潮の流れに揺蕩う流氷のよう。浮かぶことはできても抗うことの許されぬまま、ただ成り行きに身を任せるしかあるまい。――エリク・グッドウェイという人物は、一方で国からの書簡を平気で捨てるようなことをしながら、必要とあらば権力に阿ることを厭わない人物である。そして、今はまさに黙って権力に屈するべきときなのだ。――さもなければ、そろそろ本気でメリエルに折檻されかねない。
「ふむ、事情は分かりかねますが、国からの命とあらばお受けしないわけにもいきますまい」
普段は平然と断っているのですが、という言葉は当然口には出さなかった。わざわざ火に油を注ぐ必要もない。多少説明が不足していることに不満を覚えなくもないが、そもそも手紙を捨てたのは自分なのだ。なに、流れに身を任せていれば、近い内に疑問も解けるであろう。余計な事をして暗礁に乗り上げさえしなければ、話はスムーズに進んでいくはずなのだ。
散々粘っていた割には意外と簡単に了承したことに驚いたのか、女は一瞬固まった。しかし、次の言葉に固まるのは、エリクの方なのである。
「……う、受けて頂けるのですか。では、よろしくお願いいたします。――ああ、そういえばまだ、名乗ってすらいませんでしたね。私、イヴリン=サン=オースティンと申します。以後どうぞお見知りおきを」
イヴリン=サン=オースティンと名乗った女は、そう言いながら穿いていたスカートの裾を軽くつまんで膝を軽く落として見せた。高貴な身分の者の間での挨拶であったが、無理もない。なにせ、目の前の女はただの女ではなく、――王女であった。
いっそ性質の悪い冗談であってくれと思ったが、メリエルの方にこっそり目を向けてみてもなんの訂正も入らない。生真面目で冗談や嘘の類が下手くそなメリエルの性格を考えるに、目の前にいるオースティンの姓を名乗る女性は、紛れもなく王女様なのだろう。
凍結状態から復帰したエリクは、慌てて跪いた。まさか一国の王女様が突然やってくるとは想定していなかったため、だいぶ失礼な態度を取ってしまっていたエリクの首筋に冷や汗が流れる。なぜ早く教えてくれなかったのかとメリエルに恨み言の一つでも飛ばしてやろうとも思ったが、そも、手紙を捨てたのが自分であることに思い至り、エリクは代わりに溜息をひとつついて、とにもかくにも謝ることに決めた。
「こ、これは大変ご無礼を。まさか、殿下御自ら、こんな辺鄙なところまで御足労なさるとは思いもしませんで……。確か、二番目の王女様であらさられましたか」
「ふむ、左様」
ここへ来て初めて、長躯の老翁が重い口を開いた。能面のように顔色一つ変えないその様が、ずっと感じていた不気味さに拍車をかける。
「そしてこの私が、現国王の叔父にあたる、ローリー=フォン=ボウヤーである」
まさか、王家の血筋を引く人間が同時に目の前に現れるとは。完全に冷静さを失ったエリクは滝のように冷や汗を流しながら、顔色一つ変えない目の前の老人――ロウリー=フォン=ボウヤーと名乗った人物にも臣下の礼を取った。
「その、ローリー殿……」
エリクに取っていた態度とは一転して、メリエルが遠慮がちにローリーに話しかけた。
「その、エリクが混乱しますので、出来ればそういうのはご遠慮頂きたいのですが……」
「ふむ、そうか」
言われたローリーは顔色一つ変えないまま、真顔でエリクに告げる。
「私が王族だというのは冗談だ」
「……は?」
エリクはとりあえず、跪くのをやめることにした。そうしてから、我慢できずにこう叫ぶのだ。
「ややこしいな!」