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タイトルを下書きそのままにしてあげてしまうというミスを犯しましてしまいました・・・。
多少わかりにくい部分があるやもしれませんが後ほど平易な言葉で説明が入る予定ですので雰囲気だけ読み取っていただければ大丈夫です
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紅色の光にイヴの視界全部が覆われた瞬間、全ての音が掻き消える。同時に、浮遊感とも、落下感ともつかない感覚がやってきて、しかしその不思議な感覚を認知して刹那、ゆっくりと視界から光が消え去っていく。
「殿下、お待ちしておりました」
聞こえた声で、聴覚も正常に戻ったことを悟る。不思議な感覚が訪れたのは一息ほどの間であったが、声は先程まで一緒にいた人物たちのどちらとも違うものだった。
女性にしては少しばかり低音気味の凛としたアルトは、イヴの耳になじみ深く、しかし懐かしい声音。光に覆われ、さりとて不思議と焼かれることのなかったイヴの視界に、見知った美しい少女の姿が捉えられる。
「メリー!」
果たしてその少女とは、メリエル・ウォルトンその人だ。資料を渡されたときから心待ちにしており、分からないことだらけで始まった遊学の中において、求めてやまなかった旧友の姿がそこにあった。
イヴは久しぶりに会った友人の姿をしげしげと見つめる。肩口のあたりで綺麗に切り揃えられた藍色の髪は、二人が最後に会った幾年前――およそ五年ほど前から変わっていない。はしばみ色の瞳は昔からやや鋭い印象があったが、旧知の仲であるイヴを前にしてか今は喜色に緩められている。
もちろん、最後にあった五年前から変わっているところもあった。昔よりも上背が伸び、同じくらいだったはずの目線が今ではイヴよりも高い。真っ白だった肌は、少し日に焼けている。そして何より、顔つきが以前よりも引き締まった(幼い頃は二人して丸顔だったというのに!)。軍人として経験を積んでいる最中のメリエルは、厳しい環境に置かれて今まさに精神を磨かれているところなのであろう。とても良い顔つきをしていた。
「殿下、お久しゅうございます。風の噂には聞いておりましたが、……本当に、随分とお美しくなったのですね」
メリエルはイヴの前に進み出ると跪き、右手は胸の前に、左手は剣の鞘に触れながら顔を伏せる。オースティン王国騎士の最敬礼だ。
「楽にしてください。……そんな、堅苦しい言葉遣いはやめて。以前のようにイヴと呼んでくれていいのですよ」
「で、ですが、今や私めも軍属の身。そういうわけにも参りませぬ。……それに」
メリエルはそこで言葉を区切ると、チラリと横合いを見やる。彼女の視線の先には白髪を伸ばし、後ろで一つに括った長身痩躯の老翁――ローリー・ボウヤーがいた。先ほど公爵家邸宅で会った老執事が中背であったのに比べると、かなり背が高い。髪にしても執事が白髪を刈り込んで整えていたのに対し、ローリーは長く伸ばして後ろで纏めている。鼻の下から顎にかけて、短く整えられた灰色の髭を蓄えていた。先ほどの老執事といいこのローリー・ボウヤーといい、オースティン王国では年経た男は髭を整えるのが嗜みになっているのかもしれない。イヴは次に会ったとき父王に髭を伸ばして見ることを勧めてみることにした。
ローリーはイヴが視線を向けるとメリエルと同じように跪く。薄墨の瞳は若人のように爛々(らんらん)と輝いていて、見る者にまだまだ衰えぬ活力を伝えていた。
「殿下、お久しぶりです。……随分大きくなられた」
イヴが楽にするように促すと、ローリーは立ち上がる。
「前にお会いしたときは、こんなに小さかったというのに」
そう言うと、白髪の爺は少し屈んで自分の膝下のあたりに手をやった。前にローリーとイヴが会ったのがいつだったか正確なことは覚えていないが、少なくとも物心ついた後のことだ。無論、そんな小さかったはずはないのだが、本人は至って真面目な顔をしている。
「ローリー殿、その。それは流石に大げさなのでは……」
生来生真面目な性格をしているメリエルが、我慢しきれなかったのかそう指摘する。すると、ローリーは表情一つ変えることなく、顎に手をやりしれっと言った。
「うむ。……もちろん、冗談である」
「メリー、駄目よ。この方は真面目な顔をして適当なんだから。一々まともに相手をしていては疲れ果ててしまうわ」
ローリー・ボウヤーという男は、冗談を言うときが一番真面目な顔つきをしているような人物だ。メリエルには、その辺りのことをもう少しきっちりと忠告しておかねばならないかもしれない。考えながら、イヴは軽く辺りを見渡した。
さきほどまでいた地下室の無機質さとも、また公爵家の応接間の豪奢さともまるで違う。壁は石、床は木でできていて、吊り下げられたランタンの中で揺揺と淡く炎が燃えている。作りは非常に質素ながらも、そこには暖かさがあった。部屋の中にいる人物はイヴ含めて三人。他二人とはメリエルとローリーだ。事前に資料で見たこの二人がいるのにもかかわらず、もう一人遊学についてくるはずの、エリク・グッドウェイなる騎士らしき姿は影すら見当たらない。
そして、特に注意して見渡すでもなく否応なしに視界へ飛び込んできたのは、イヴの足下に描かれた魔法陣である。大きさは公爵邸にあったものよりもずっと小さく、直径にしておよそ二から三ペース(約一メートル五十センチ前後)程しかない。もっとも、公爵邸地下にあった魔法陣が特別大きいのであって、魔法陣と言えば今イヴの足元にあるものくらいの大きさが最もスタンダードだ。
陣の下地を見比べると、公爵邸地下室の床は土が固められただけのものであったが、この場所の床は木の板が打ち付けられていた。よく見ると魔法陣があるところだけ、普通に床板にするには少々大きな板が使われている。一辺が大人が両手を広げたくらいの正方形の木板――つまり、足元にある魔法陣が丁度すっぽり入る大きさの板だ。
魔法陣を描く場所――今回の場合は床であるが、他にも小さなものであれば羊皮紙などに描かれる場合もある――に継ぎ目があると、不都合が起こる。継ぎ目に沿って陣が歪んでしまうと、上手く呪文が発動しない場合があるからだ。もっとも、通常の魔法であれば――例えばただ火をおこすだけのような、緻密な制御のいらない簡単なものであれば――多少歪んだところで大した問題はないのだが、より正確に法を行使したければできるだけ平面に陣を描く必要がある。これについては、魔法陣を用いた魔法について学ぶ上で、ある種常識染みたことですらあった。
つまり、継ぎ目のない場所に描かれたこの魔法陣が、より正確で緻密なコントロールを要する魔法を行使するために描かれたものである、ということでもある。
一瞬で景色を変えたこの魔法、イヴはその正体について、一つの答えを得ていた。
それは、転移魔法。大規模でかつ精密さを要し、なにより今自らに降りかかっている謎のいくつかを説明することのできる魔法だ。
唐突だが、転移魔法を実際に行使するには莫大な魔力が必要になる。
魔法陣を介して発現させる類の魔法は、陣の大きさによって必要な魔力量が決まる(正確にはこの表現は正しくない。例えばお手元のペンと紙で魔法陣を描くことができるとするならば、必要な魔力量は魔法陣そのものの大きさではなく実際にインクが乗っている部分の面積で決まるといえば分かりやすいだろうか)。では陣の大きさは何によって決まるか。発現させる事象がどれだけ実現し難いか――言うなれば、発現難易度というものによって決まる。
発現難易度とは例えば、単純に小さい火を起こすよりも大きな炎を起こす方がより難しくなるし、火を起こすよりも火を飛ばす方が難しいようなことだ。複雑な事象には複雑な模様を描くことが必要であるのは、魔法を知らない人であってもなんとなく理解することができるだろう。
しかし、円の中に出来るだけ複雑な模様を詰めようと思ったところで、自ずと限界が訪れる。徳利には徳利分の酒しか入らない。では、どうするか。
答えは至極簡単だ。陣を大きくすればよいのだ。徳利に入らぬ酒ならば、壷に入れてしまえば良い。
さて、転移の魔法陣――言うなれば転移陣の複雑さといえば、再現して描くことすら難しいほどに複雑怪奇な形をしている。モノを移動させるという性質上、寸分でも狂いがあれば大惨事を起こしかねない。その発現難易度の高さから、巨大で、精緻な魔法陣が求められるのが転移魔法である。
だから、膨大な魔力が必要になるのだ。
膨大な魔力を、巨大で複雑な魔方陣を、並大抵の術者では到底用意できない。それで、全てを納得した。なるほど、あの場では気が付かなかったが、恐らく彼女は――。
イヴが足下の魔方陣を転移陣であると見定めることができたのはなにも魔方陣の巨大さと複雑さのみを根拠にしているのではない。景色が変わったのではなく自らが移動したとすれば、諸氏の発言の内、幾つかを理解することができようからである。“あちら”というのは“遊学先”と等しく、つまり転移先のことを表していたのだということ。そして、『時間がない』という言葉の意味――。
淡く紅の光を放っていた魔法陣が、はたりとその輝きを失った。跡に残るは、鈍くくすんだ鼠色。
「ふむ、中々ギリギリだったようですな。思ったよりも手間取られたようだ」
「……そんなに時間をかけたつもりはありませんけれど。それでも遅かったと言うのなら、次からはしっかり事前に説明をした上、時間に余裕を持つことをお勧めします」
ローリーが魔法陣が力を失い朽ちていく様子を見ながら口にする。イヴは、公爵家邸宅でのことを思い出しながら、少しやけっぱちな気持ちで答えた。イヴからすれば、どちらかと言えばあれよあれよの間に連れてこられた気すらしていたというのに、それをもたついていたと言われては少し言い返してやりたい気持ちにもなったのだ。
光を失った転移陣。多くの転移陣には、言うなれば時間制限のような機構がついている。予め指定された時間にしか発動しないような仕組みになっているのだ。そのような仕掛けがされているのも、やはり転移の魔法が複雑で、精緻なものであるが故。イヴは詳しく知らないのだが、どうやら時間という文字通り刻一刻と変わっていく要素を、ある程度の範囲に固定するためだと聞いたことがある。
そして最後に、足下の魔方陣が公爵家邸宅にあったものよりも小さい理由。転移陣という代物には飛ばす側の魔方陣には膨大な情報量が必要であるが、受け取る側の魔方陣にはそこまで多量の要素は必要ない。そう、送る側受け取る側と分かれて説明した通り、転移陣とはほぼ全てが一方通行である。この理由も、イヴはそこまで深く理解している訳ではなかった。ただやはり、自在に行き来できるよりも一方通行である方が簡単なのだということが主な要因であるらしい。二つの魔方陣で大きさが違うこと。これも転移陣の大きな特徴である。
「それで」
イヴは周りを見渡すのをやめ、改めて二人に向き直る。これまでがどうであったかではなく、これからどうするのかに気持ちを切り替えなければならない。
「今後の予定は、どうなっているのかしら」
「それが……」
メリエルが渋面を作りながら、やや声を低くして言う。
「本日は殿下と私達の顔合わせ程度の予定だったのですが……。ご覧の通り、もう一人の護衛がまだ到着していないのです」
「ええ。確かエリク・グッドウェイという方でしたね」
イヴが確認すると、メリエルはうんと首肯する。短い藍色の髪がはらりと縦に揺れ、イヴにはなんだかそれがメリエルの不満を伝えているように思えた。それが正しいと言わんばかりに、メリエルの渋面はさらに深くなる。イヴは彼女のそういう表情をあまり見たことがなかった。珍しいこともあるものだと思ったが、そも、友人とはいえ仮にも王女であるイヴの目の前で不機嫌な態度をとること自体、そうそうあってはならないのだから、そういうものかと受け止めた。
「それで、その方が今どちらにいるかは分からないの?」
「ええ、ええ。実のところ、見当はついているのです」
意外なことに、メリエルにはそのエリク・グッドウェイという騎士の居場所に心当たりがあるという。
「殿下がご到着召されるまで、あまり時間がありませんでした故。……その、どうしてもお出迎えしたかったですから」
そういうとメリエルは少し照れくさそうにはにかむ。
「だいたいどこにいるか察しはついていますので、殿下が到着し次第私一人で出発しようかと。今すぐ行ってあの馬鹿を引っ張って参りますので、殿下はここでお待ちください」
「待って。その、エリク・グッドウェイという騎士のこと、メリーも知ってるの?」
イヴは驚きの声を挙げる。オースティン王国近衛騎士団第三部隊――通称カエルム、その副団長ルドルフ・エリオットと、王国の法律を一手による引き受ける、オースティン王国最高裁判所――通称ヘリアンサス・アルクス付き高等法務官が一人であるタルコット・ヴァーノン。それに続き、このメリエルまでもがエリク・グッドウェイの名を知っているという。
「少し、出来すぎなのではないかしら。確か彼、王都警備兵団の一兵卒ではなかった?」
「なるほど、ふむ。殿下のいうことも一理ありますが」
ローリーがあごの髭をなぜながら口を挟んだ。口許にはほんのりほくそ笑みが浮かんでいて、イヴはこれからの言葉に対して少し身構えた。
「しかしまあ、なればこその大役なのではないですかな。逆説的に考えれば、出来すぎているからこそ選ばれたのだとも言えまする。物語の主人公の多くが得てして、いっそ理不尽なほどに恵まれた境遇にいるのと同じでしょう。彼らはその境遇にあるからこそ主人公なのです」
「エリク・グッドウェイ騎士もそうであると仰るのね」
構えていた割にはすんなりと入ってきそうになったローリーの言い分にイヴは一瞬なるほど、と納得しかけた。がしかし、騙されてはなるものかと首を横にぞぶんぶん振って、それから少しの皮肉を込めた返事をする。
「できれば、この遊学の主人公は私でありたいのですけれど」
「ええ、そうですとも!」
我慢ならんとばかりにメリエルが声を挙げた。
「主役たる殿下を放って、全くなにをやっているのやら! 引きずってでも必ず連れて参りますゆえ! すぐに!」
「メリー、少し落ち着いて」
とうとう取り繕うことすらしなくなったメリエルを、イヴはどうにか諫めようとする。本人がちょこっと皮肉を言うだけの度胸しかないと言うのに、メリエルは代理とばかりに感情を表にだして憤っていた。こういう状況になるとなぜか、当人自身は怒りにくくなったりするのだけれど。
「それで、大体どこにいるのか分かっているのですって?」
「――すぅ……、はぁぁ……。――ええ、そうです。ですから殿下、繰り返しになり大変申し訳ないのですが、少しこちらでお待ちいただけますでしょうか」
深呼吸をしてなんとか冷静さを取り戻してから、メリエルはイヴに再び同じ願いを告げる。
「お時間は取らせません。すぐに行って、一発ひっぱたいてから引きずってきますのでっ!」
「あら、そう遠くはないのね?」
イヴはメリエルの言葉から判断して言う。
「では、折角ですから私も一緒に行こうかしら」
「――それは、なりませんっ、殿下っ!」
イヴの提案に対し即座に拒絶の意を示すメリエル。その顔には明らかに焦りの色が浮かんでいた。怒ったかと思えば今度は慌てはじめ、なんだか忙しない。
なぜダメなのかと目で促すと、メリエルは訥々と語り始めた。
「その、ヤツは恐らく、その――なんというか、殿下がおいでになるには少々、危険といいますか、あまりよろしくないといいますか。……とにかく、殿下はこちらでお待ちください!」
「へえ、なるほど、そうなの」
メリエルの説明はなんだかあまり要領を得なかったが、すなわちそれは――
「きっと、私がこの遊学で見たかったものの一部がそこにはあるのでしょう。お願い、メリー。できるだけおとなしくしているから、連れて行って!」
――普通、遠ざけられるであろうこと。イヴはそれをこそ見に来たのである。
「いえっ、いえ! 絶対になりませんっ!」
メリエルは必死にとどめようとするが、イヴの心はすでに決まっている。遊学に出てからすぐ、王女である自分から遠ざけたがるようなものを見ることができるとは思っていなかった。色々あったが、これはかなりの幸運なのではないか。イヴの心の中は、そういう気持ちでいっぱいだった。
「どうせそのエリク何某が来なければ予定も進まないのだし、いいじゃない。折角遊学に出てきたのですから、街を歩いてみたいですし」
「ですから、ヤツめならば私が今連れて参りますので、殿下はどうかこちらでお待ちくださいっ!」
「まあ、まあ。お二方とも少し落ち着かれてはいかがかな」
ローリーが落ち着き払った声でそう二人に告げる。
「殿下を危険から遠ざけようとする姿勢はお見事。しかしながら、此度の遊学は殿下が通常では学べないものを学ぶためのものと陛下からもお達しがあったであろう。なに、本当に危険で仕方ないところというのならばやはり止めて頂ければ良いではありませぬか。――して、その場所とは如何に?」
「それは――」