3
◆
――厄介事とは聞いていたが、なるほど。こういう展開は想定してなかったな。
店主は店のカウンター越しに少年を見つめながら、 そのようなことを考えていた。背丈の小さい少年で、亜麻色の髪は柔らかく波打っている。眉までを隠した前髪の下には、胡桃色の瞳が闊達そうに輝いていた。
一方店主の方はと言えば、一種の悲嘆めいた表情を浮かべている。少年の放った言葉は不可解で、なによりも店主が危惧していたような面倒事であった。
「あー、すまんが。もう一回言ってくれないか? よく聞こえなかったんだけど」
店主は一度聞いた少年の言葉が聞き間違いである可能性に一縷の望みを賭け、問い直す。
「だから、その。――俺を、あんたの弟子にしてください!」
刹那に打ち砕かれた希望の残滓と無垢に輝く少年の視線から目を逸らすように、店主は額に手を当てながら天を仰いだ。くすんだ天井には知らない染みが一つ、いつの間にやら増えているような気がした。
◇
【リーブラ・カストルム オースティン王国王都第三支店】は、今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。――目の前の少年さえいなければ、今日もその光景は変わらないはずだった。
しかし閑古鳥がいなくなったとて、待ちに待った客が来たのかと問われればそれは否。どうやらこの少年、鐚の一文ですら店に落とす様子を見せない。少年のあどけない顔立ちを見るに、まだ齢十と少しばかりほどに見える。この年ごろの子供となると、自分で稼ぎを得ているとは思えぬ。つまり、目の前の少年のような特殊な場合を除いたとしても、ここへやってくる子供はお金を落としていくつもりのない冷やかし客か、せいぜい親の手伝いでやってきたお遣いかと言ったところだろう。そも、この少年、先ほど特殊な場合と述べたように、既に客ではなく弟子志願者と名乗ったばかり。この少年相手に商いをするのは、ちょいと無理な相談なようだ。
ならば追い返してしまうが吉なのだが、店主にはそうも簡単に追い返すわけにいかない理由がある。先日、とある騎士と交わした約束の対象が、この少年であるかもしれないからだ。もしそうだとしたら、追い返してしまうと色々と不味いことになる。どう不味いかといえば、具体的には従業員からの軽蔑の視線と、強烈な張り手を貰う羽目になるだろう。
いや、だがまあ、しかし。と、店主は心の中で独白する。何はともあれ、店主の頭に浮かんだ疑問は。
「まずもって、ボクちゃんは一体どこの誰なんだ」
この言葉に尽きる。追い返したいのは山々であるし、この少年が約束の人物であるのか否かや、なぜこのような閑散とした店の主なんぞに弟子入りしたいのかなど、聞きたいこともたくさんある。しかし、何を置いてもまず、少年の身元を明らかにすることが先決だ。
「ボクちゃんじゃない! 俺はダリル。ダリル・ファムドってんだ!」
ダリルと名乗った少年は、少しでも自分を大きく見せようとしているかのようにふんすと胸を反らす。――もし本当にそう試みているとしたら、残念ながらあまり上手くいってはいないのだけれど。
店主はダリル少年に聞きたいことを整理しながら、頭をガシガシと掻いた。そうしてから、ゆっくりと確認するように口を開く。
「あー、そんじゃあダリル。お前さんはなんで、俺に弟子入りしたいなんて思ったんだ? 悪いけど、俺はお前のこと、全然見覚えないんだけども」
そう、実は店主、この少年に弟子入り志願なんぞをされる覚えがない。
店主が問うと、ダリルは視線を下に向けてぽつぽつと話し始める。
「……俺、体が小さいし、頭もあんまりよくなくて。近所のヤツらからいっつも馬鹿にされるんだ。――兄ちゃんを見かけたのは、おとついの昼ごろ、市場でだよ。そこで兄ちゃん、自分よりもずっと大きい男をすっころばしてただろ?」
言われて店主は、つい一昨日の出来事に思いを馳せる。市場というのは、平民街の西側に開かれているもののことだろう。この王都には全部で五つの市が開かれているのだが、店主がおととい訪れた覚えのある市場といったら西市しかない。西市といえば、飲食店の屋台や食料品の出店などがたくさん集っていて、常にいい匂いがすることで有名だ。西市には店主が贔屓にしている屋台があるので、ちょっくら遠出して腹ごしらえをしたのである。
確かに店主は一昨日、その贔屓にしている屋台の前で騒ぎを起こした男を、ちょいとばかりすっ転がしたのだった。とは言っても、別段すごいことをやってのけたわけではない。自分より体が大きいと言ってもそこまではっきりと体格に差があったわけでもなし。更に言うなら、店主にはすっ転ばせることしかできないのだ。相手を転ばせるだけならば、なるほど確かに店主の得意技である。しかし、それ以外はからきしダメで、剣も武術もその道を行く人間の中では平均以下。まともに対面してしまえば、喧嘩に勝てる気がしない。それを知る由もないダリル少年は、あの場で見せた技だけを見て弟子入り志願をしたと、そういったところであろう。店主はそのように考えを巡らせると、少年を説得しようと口を開く。
「まあ、確かにあんときゃ、大の大人を一人ほど転がしたわけだけどさ。俺には武術を教えることなんて、できやしないぞ。見込み違いだから、やめといた方がいいと思うんだけどもよ」
「いや、それだけじゃないんだ!」
店主なりになるべく丁寧な態度で――もちろん、子供のたわごとに応対するにしては、である――他の人に師事するのを勧めようとすると、ダリルは遮るように声を挙げた。
「確かに兄ちゃん、あのあと起き上がったヤロウをまたおんなじようにすっ転ばせて、起き上がったらまた転ばせてで、ちょっとかっこ悪かったけどさ。そうじゃなくて、そのあとだよ、そのあと!」
なんとまあ、どうやら転ばせることしかできないことを看破されていたらしい。ごく自然に店主の心に鋭利な言葉を突き刺しながら、ダリル少年は続ける。
「兄ちゃん、二軒隣のお店でお菓子を買ってたよな? あんとき、お店の人の計算違いをサラっと直してたのを見て、この人だと思ったね。母ちゃんが言ってたんだ。算術が空ですらすらできる人は、ガクってのがあるんだってさ!」
店主はダリルが語るのを聞きながら、菓子屋台のことを思い出していた。あれは、従業員のエステラに土産を買って帰ろうとしたときのことだ。見かけない屋台があったからちょっと寄ってみたはいいものの、どさくさに紛れて値段をふっかけようとしてきたので店主はそれを指摘してやったのだ。おや、間違っていますよ、とまあこんな具合に。
しかし、なにがダリル少年に「この人だ」と思わせしめたのか、いまいち店主には釈然としない。
「あんなあ、俺はこれでも商人だぜ。これくらいの暗算なんて、できなきゃ恥ずかしいってもんだね」
「それでも、そんなに早く勘定ができるのはすげえって! だから、自分よりも大きな相手に勝てて、しかも頭がいい兄ちゃんに弟子入りしたいって思ったんだ」
キラキラと目を輝かせながら言うダリル。つまり、体が小さくて勉強もできないダリル少年にとっては、体が大きい人に勝つための術を持ちつつ、尚且つ頭もそこそこ切れそうな店主が、目標とするのには丁度いいように見えたのだろう。
店主は視線を斜め上に上げて何某かを考えると、
「帰りな」
一言だけ告げた。
なぜ簡単に告げてしまえるか。
ダリルが店主のことを一昨日初めて見かけたというのならば、約束の人物である可能性は低い。というのも、件の約束をしたのがまさに一昨日の夕方だからだ。店主が市場にいたのは昼頃である。その日の夕方までという極短い内に騎士と店主の仲を知り、騎士に取り次ぎを頼んだとは考えにくい。そもそも、このダリルという少年がそうした根回しを出来るタイプだとは思えなかった。
故に、約束の人物ではない。
であるならば、相手にする必要もなかった。
「な、なんでさ! お願いだよ兄ちゃん、弟子にしてくれよ!」
「いやあ、闘い方にしてもおつむの鍛え方にしても、俺よりずっと教えるのが上手いヤツらなんていっぱいいると思うぜ」
「それが両方できるのが兄ちゃんしかいないのさ!」
「いんやいんや、そんなことはないって」
「でも!」
あしらおうとする店主と、食い下がるダリル。二人の均衡――均衡か? いや、どちらかと言えば平行線を辿っていたから、二人の内どちらに秤が傾くということもなかった。故に均衡かと聞かれると非常に微妙なところではあるのだが、二人が梃子でも動かなさそうであるところを見るに、これもまた均衡であろう。
話が逸れた。
その均衡を打ち破ったのは、軋んだ階段を何者かが下ってくる足音である。
「おや、お客様がいらしたのですか」
丁寧な物腰でそう言い、物音を極力立てぬよう努力をしながら――尤も、その試みは古びきった階段相手には上手く行かなかったようだが――二階につながる店の奥の空間からやって来たのは、侍女服に身を包んだ少女だった。
一本の鉄筋でも埋め込んでいるかのように背筋を伸ばした少女は、やや小麦色めいた肌の色をしていた。日焼けをしているのではなく、彼女が生来持つ肌色だ。邪魔にならぬように後ろで一つに括った髪の長さは、腰元まで達している。髪の色は黒。水に濡らしたかのように、艶やかで深い黒髪だ。栗色でやや切れ長な瞳が、まだあどけなさの残る丸顔に収まっていた。少女の容姿はまだまだ可愛らしいの範疇だが、将来は「美しい」のカテゴリに入るであろう。この少女はそういう顔立ちをしている。
侍女服姿の少女は、店主とダリル少年とを見やると、にこやかに口を開いた。
「あら店長、お客様にお茶もお出ししていないのですね。すぐにお茶を淹れますので、少しお待ちくださいな」
少女は少しハスキー気味な声でそう言うと、客用のお茶を出すために作られた給湯室の様な部屋へと向かおうとする。ただ給湯室ではダメなのかと言われれば、そこはそれ。少しばかり様相が違うのだが、さておき。
「あー、待て待てエステラ。なんというか、そのだな。ええと、この少年は客じゃあないんだ」
ダリル少年のことをどのように説明しようかを考えながら、店主は侍女服の少女――エステラを呼び止める。店主が呼び止めるとエステラはピタリとその場で動きを止めた。
「だから茶もいらないし、――よそ行きの口調もいらないよ」
店主が続けた言葉を聞くと、エステラはため息を一つ。そして、先ほどまでの慇懃な態度はどこへやら、肩をコキコキ鳴らさんばかりに回しながら、店主たちの方へ振り返った。
「んだよ。そういうことは、早く言えよなー。ったく、なんか損した気分だ」
階下に降りて来てから殆ど間も開けずに、エステラは被っていた猫をそこら辺にぶん投げた。
「だいたい、紛らわしいんだよ。客じゃなけりゃあ、なんで子供の相手なんかしてるんだ。さっさと追い出しゃいいものを、そうしないから客分だと思っちまったじゃんか」
「おいおい、それじゃあまるでいつもは子供と見るや追い出してるみたいな言い種じゃないか」
店主はそういうと頭を振って見せる。心外な! と、そう伝えるためのポーズだ。
「そもそも、子供相手にお茶がいるような商談なんかするもんか」
「だーかーらー、そのはずなのに中々切り上げないもんだから、客なのかと思ったんじゃねえかよ」
エステラは店主をねめつけながら、
「つーかお前、客じゃなかったら子供だろうと大体追い払ってるだろうが」
「あ、あの!」
ダリル少年がここでようやく声を挙げる。そも、猫を被った状態のエステラが殆ど間を置かずに被っていた猫をかなぐり捨てて今に至るまで、ダリルは一言も言葉を挟めていない。あれよあれよという内に、気づけばそこは蚊帳の外。エステラの登場してすぐの変わり身に呆けていたダリルだったが、忘れてもらっちゃ困るとばかりに何とか口を挟んだのだ。
「なんだ、少年。帰るのか? もう遅くなるし、気を付けて帰れよ」
しかしてその努力は、エステラの無慈悲な言葉によって無惨にもぶち壊されて儚く散る。機先を制されたダリルは、最早打つ手なし。エステラに自己紹介をする暇すらなく、その場から追い返されかけて――
「しっかし、この少年が例の人物でないとすると、一体誰が……?」
ダリル少年が出口の方へと体を向けた瞬間に店主がつぶやいた言葉は、さながら呼び水のごとく。
コン、コン、コン。
厄介事がノックを三回、綺麗なリズムを刻みながらやってきた。