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 オースティン王国王城内。見目麗しい女性が重厚な扉を開く。重い扉の向こうに広がっていたのは、執務室と呼ばれる空間だった。

 玉座の間とは違って実務に特化されたこの執務室は、それほど豪奢な作りをしていない。例えば窓枠一つとっても、玉座の間のものは華をあしらった意匠に金箔が塗られ、ところどころ宝石の類が散りばめられている。一方、この部屋の窓枠にはそのようなものが一切なく、ただ簡素に四角く空間が切り取られているだけだ。

 しかし先ほど開かれた扉も、木製の執務机も、目の前で男性が今まさに腰掛けている革の椅子も、件の窓枠でさえも、よく見ればそれぞれ職人の丁寧な仕事がされているのが分かる。作りは簡素ながら、その質を落とすことが許されない。この部屋の主は、そういう立場の人間だ。


「失礼致します」


 部屋に入った女性は、まだなんとか少女といっても差し支えない年齢であった。嫋やかな金の髪を後ろで一括りにしているのでやや大人びた印象を受けるが、齢十七。まだまだうら若い乙女である。

 瞳の色は青。海の底を覗き込んでいるかのように、深い、深い色をしている。白磁のような肌といえば、白く滑らかながらも無機質な印象を与えてしまうかもしれない。けれど彼女の肌は血色が良く、また触れれば柔らかい。鼻は高く、真っ直ぐに顔の中央を通っている。唇は艶やかな紅の花が咲いたよう。

 彼女は、神話めいて美しい。

 少女の美しさは、何も顔立ちだけに留まらない。丈の長い、やや青みがかった白のドレススカートを履いているため、脚の長さを目測することこそできなかったが、腰の位置は高く、また手も長くてしなやかだ。脚も同様に美しく長いことは、想像に難くなかった。腰回りは細いが、肉付きが悪いわけではない。胴は綺麗にくびれ(多分に服装の効果もあったが!)、胸はほんの少しだけ慎ましやかながら、さりとて全体的に細い彼女からすればむしろその方が均整が取れている。上背は世の中の平均よりも少しだけ高い程度であったが、気品からか、はたまた美貌ゆえか、実際の身長よりも高く見えた。


「おお、イヴ。まあ近う寄りなさい」


 イヴと呼ばれた可憐な少女の名は、イヴリン=サン=オースティン。オースティン王国の王女その人である。彼女がこの執務室へとやってきたのは、目の前にいる壮年の男性に呼ばれたからだ。

 一方、王女に対して気安い言葉づかいで話しかける壮年の男性は、もちろん彼女の父王であるオーガスタス=サン=オースティンである。王国の主として相応しく、全身からは覇気が溢れ、齢四十を超えたところで微塵も衰えを感じさせない。娘と同じ色合いの金髪には年相応に白髪が増え始めたが、顔つき自体はまだまた若々しいと言える範疇だ。深い森を湛えているかのような翠色の瞳の下には、特徴的な鉤鼻が収まっていた。どうやら瞳の色も、特徴のある鼻の形も娘には受け継がれなかったようだが、全体として均整のとれた顔つき、またその雰囲気から、二人が父娘おやこであることを充分に感じることができる。


「これは……?」


 イヴが執務机を挟んでオーガスタス王と対面すると、数枚の紙を渡される。イヴはその書類に目を落とすと、形の良い眉をそれと判らぬように少しだけひそめた。


「例の件でお前の近くに付ける騎士たちだ。判っているとは思うが、一人で送り出すなど出来ぬからな」


 例の件とは、イヴ自らが願い出た遊学のことである。

 遊学とは言っても、大した距離を往くのではない。寧ろ王都から出ることすら許されはしなかった。彼女の身分を考慮しても尚、過保護と言えるかもしれない。国外とは言わぬものの、せめて他の都市までおもむかせるくらいしないと折角の遊学の甲斐がないと言うものではないか。

 しかしイヴとしては、王宮の外にさえ出られればそれで構わなかった。別段王宮の暮らしが退屈だとか――全くないとは言いきれないが――そういう理由ではない。彼女が遊学に出る目的は、王宮の外の暮らしぶりを一目見ることなのだ。だから、外に出られるのならば例え王都内であっても、特に問題はない。

 彼女が眉をひそめたのは、もれなく護衛がついてきてしまうということに対してだった。


「お父様」


 イヴは無駄と分かりながらも尋ねる。


「どうしても護衛の方を伴わねばなりませんか」

「無論」


 オーガスタス王は頑として受け付けない。


「そうして貰わねば遊学自体、認めるわけにはいかん」


 父王の言葉を受けイヴは眉間の皺を深くした。最早一目見ればしかめっ面をしているのが判るだろう。難しい顔をしている美人というものは、中々に迫力がある。こと王族である彼女がそのような表情をすれば一般市民ならば恐々とするのだろうが、幸いというべきか否か、部屋の中には同じ王族であるオーガスタス王しかいなかった。

 イヴには遊学に護衛がついてきては困る理由があった。その理由を述べるには、彼女がなぜ王女と云う身分にありながら市井の様子なんぞ見ようとしているのかを説明する必要があり、さらにその説明には、まず彼女の立場というものから順を追ってつまびらかにしなければならない。

 イヴはオースティン王国の王女である。しかし、その王位継承順位はさして高くない。というのも、彼女には腹違いの者も含めて兄が三人、姉が一人いるからだ。王位が回ってくる可能性が全くないわけでもなく、されどその確率は低い。イヴが置かれている立場とはそういうものである。

 王位が回ってこない場合の王族の女性に求められる役割とは、他国の王族や自国の有力貴族の下へと嫁ぎ、関係性を深めるための架け橋になることだ。イヴ自身、そのことに関してなんら思うことはない。王族として生まれたからにはそれも当然のことであると理解している。

 だが、だからと言ってイヴは所謂お飾り人形として嫁ぎ、庭園の麗らかな陽射しの下で紅茶を嗜みながら、ただぼんやりと老いて行く人生を送る気など更々なかった。

 王族であるイヴが嫁ぐのであるならば、国内外でやんごとない地位の貴族ということになるだろう。国内であれ国外であれ、その国で指折りの重役――あるいはいっそのこと君主であるかもしれないが――に就いていることは間違いない。イヴはそれが武官であれ文官であれ、自らの夫となる人物を助け、支えることこそが、王族として生まれた自らの責務であると信じていた。

 だから彼女が嫁ぐその日まで、出来る限り多々種々しゅじゅ色々様々、学んで行こうと決めていたのだ。

 しかし、いくら王宮内で学んだところで実際に目にしなければならないことなど山程ある。まつりごとの分野を筆頭に、机上だけでわからないことがたくさんあるのだ。王宮の外に出たことがほとんどないイヴが、彼女の中の想像と実態の絶望的なまでの溝を埋めるには、やはり市井の空気に直接触れるのが早い。

 そのための遊学である。

 ところが、その遊学に王宮から護衛がついてきてしまっては、きっとまともに学ぶことなど出来ないだろう。

 つまり、王宮の外に危険があることはイヴも知っている。特に王族である彼女にとっては、殊更溢れかえっていることだろう。しかしながらそういった危険にこそ、自分が知りたい何かがあるということを感じることが出来る程度に、彼女の感は鋭い。

 そして、彼女は護衛が自分をそういった危険から遠ざけるであろうことを予想出来る程度には、世間知らずらしからず聡いということでもある。


「ですが」


 尚もイヴは一つ食い下がる。聡いはずの彼女が、無謀な提案――つまり、街には危険があると知りつつも護衛無しで遊学に出ようなどという主張――が通ると考えたのかといえば、もちろん理由があった。


「私、これでも腕には少し自信があるのです」


 言葉に偽りはない。王女という護られる立場の人間には似つかわしくなく、イヴは剣の腕が立つ。なぜか。

 イヴの嫁ぎ先が文官か武官かは、まだ分からない。だから彼女は文武問わず、たくさんのことを学ぶ。その多種多様の中には、武芸も含まれていた。

 武官の妻が武芸に秀でている必要があるかといえば、甚だ疑問は残る。だが、武官の仕事には武芸に通じていなければ理解できない事柄というものもきっとあるだろう。武芸に秀でていないからという理由で蚊帳の外に追いやられる可能性があってはいけない。イヴにとってはその一事で以って、武芸を学ぶ動機足り得るのである。……単に、武芸を学ぶことにイヴの好奇心を擽る魅力があったというのも、否定は出来ないけれど。

 そしてたまたまと言うべきか、いや、その当たりは非常に難しいところではあるのだけれど、とにかくイヴは武芸の才能に秀でていた。どれくらい秀でていたのかと云えば、それは精強を誇る王国近衛であっても、その一兵卒であれば一方的に勝利を収めることができるほどだ。並みの実力では彼女の護衛を務められないだろう。イヴは昔から、何事も平均を大きく超えてそつなくこなしてしまうところがある。それが幸か不幸か、武芸にも同じことが言えてしまったのだ。


 しかしオーガスタス王としても、それで納得して護衛を付けないで済ますわけにはいかなかった。当然である。イヴが王国の姫であることを差し置いたとて、愛娘なのだ。むざむざ愛娘を危険の前に晒すつもりなど毛頭ないだろう。

 それに、いくら武芸に秀でている人間でも、さっくりほふられてしまうことは珍しくない。それは例えば寝込みを襲われたとか、対応しきれぬ程の人数で押しかけられたとか、それはもう様々な要因が考えられる。けれどそれらは、まだ例示出来る程度には予測できているのだからたちとしては良い方なのだろう。問題なのは、文字通り予測し得ない事態というものが往々にして起こり得るということだ。字の如く『不測の事態』というものが起こったときに、身を挺して守ってくれる人物を手元に置いておけば回避できることもあるだろう。実際王国がそこまで治安が悪いのかと言われれば決してそんなことはないと思われるのだが、なに、用心してもし過ぎることはないのだ。


「お前の腕に関しては、私も知るところだ。しかし、だからといって護衛も監視もつけない、などということはならん。あってはならないのだ」


 オーガスタス王は緩慢な動作で首を横に振る。そこには頑とした意志が籠められているように見えた。


「……その代わり、と言ってはなんだが」


 尚も何か言い返しかけたイヴを制して、王は続ける。

 彼は自分の愛娘が、世間で知られた彼女のイメージ――つまり、イヴが王女として衆目の前に立つときに、凛と微笑みながら被っている猫の話だ――よりもずっと意固地であることを知っていたのだろう。だからオーガスタスは、イヴに妥協策を持ちかけた。


「護衛の方は、よく注意して選んでおいた。きっと役に立つであろう」


 イヴからすればそれは妥協策には聞こえなかったが、その実、護衛もなしで遊学を、など無理な願いであるということは理解しているので、渋々ではあるが最初に手渡された書類に再び目を落とす。

 渡された紙は三枚あった。話の流れから想像出来るとおり、そこには護衛の任務に就くであろう人物の詳細についてが記されている。

 一枚目に書かれている人物のことをイヴはよく知っていた。メリエル・ウォルトン。彼女はイヴの乳母にあたる人物の娘――つまり乳姉妹だ。イヴにとっては竹馬の友と言ってよい。

 イヴの記憶によれば、メリエルは近衛騎士団第一部隊“マーレ”所属の、小隊長を務めていたはずだった。精鋭揃いの近衛第一部隊においておよそ百人の部下を持つメリエルは、彼女の歳と性別を鑑みれば破格すぎるほどの出世頭である。

 王室の乳母を務める人物がいるくらいであるから、王家からのウォルトン家への信頼は篤い。そんな家の出であるメリエルもまた、誠実な人物だ。少し真面目に過ぎるところもあるが、それも彼女の美点であると言えよう。素性のよく知れた人物で本人自体にも信用をおける彼女は、今回の護衛任務に最適なのだ。

 二枚目の用紙に書かれたローリー・ボウヤーはといえば、こちらも覚えがある人物である。彼はイヴが生まれる前から長年オースティン王国に仕える老練な戦士だ。そこまで親しい訳ではないが、イヴ自身と直接顔を合わせたことも何度かある。

 彼が現在軍内でどの程度の地位に就いているのか詳しくは知らなかったが、資料には彼が近衛騎士団第二部隊“テッラ”に所属しており、今は大隊で補佐官を務めていることが書かれていた。近衛騎士団第二部隊の大隊はおよそ五千の隊員を擁する。精鋭部隊の大隊で、さらに年功序列のない完全実力主義と言われている軍内において補佐官の地位に就いているとあらば、大したものだった。勤続年数から考えて王家への忠誠心も申し分ない。間違いなく遊学の護衛には適任といえる。

 三枚目の人物――エリク・グッドウェイという名前だけ、イヴには全く見覚えも、聞き覚えも全くなかった。資料によれば王都警備兵団――有体に言えば王都の秩序を守る衛士隊だ――に所属する騎士のようだ。

 王都警備兵団は同じ王都に詰めている近衛騎士団と違い、基本的に外へと戦に出ることはない。王都内を警邏けいらし、秩序を守るのが彼らの仕事だ。もちろん大事な仕事ではあるが、危険さの度合において近衛騎士団には及ぶべくもなく、準じるように階級も低い。その兵団の、ましてや一兵卒ともなれば、騎士としては末端も末端。他二人と比べて、あまりにも見劣りする。


 イヴが怪訝な顔をしているところを見てとったのであろう。父王オーガスタスが説明のために口を開いた。


「儂も、最初は“カエルム”から一名出そうかと思っていたのだがな。ほれ、あそこの新しい副団長なんてうってつけだろう」


 儂、という一人称を耳にし、そういえばそろそほ威厳ある言葉遣いにするべきか否かとやらで父が下らぬ悩みを抱えていたことを思い出したが、さておき。

 “カエルム”とは、近衛騎士団第三部隊の通り名である。そこに新しく就任した副団長は、オースティン王国の伯爵位に名を連ねる名家エリオットの令息で、新進気鋭の傑物だと言われている人物だ。名を、ルドルフ・エリオットと言う。

 いくら名家出身とはいえ、それだけで近衛騎士団の、それも一団あたりたった三人しかいない副団長になどなれはしない。彼は先の戦役を始め、大層な功績を幾つも挙げたと聞く。剣の腕は若くしてすでに達人の域にあり、また大層頭も切れるという話だ。はっきり言って彼くらいの年で副団長を務める人物がいるなど異常事態と言ってもいいのだが、ルドルフはその手腕、頭脳、家格によって反対の声を挙げさせない。ある種化け物じみた才覚の持ち主である。

 そしてなにより、異例中の異例で昇進を続ける彼は、家柄と実績を踏まえて、目下イヴの婚約者候補筆頭として注目を集める人物である。

 尤も、イヴ当人としては――無論、父王の決定とあらば従うが、そうでないとしたら――できれ彼の下へと嫁ぐのは遠慮願いたかった。ルドルフの篤実な性格はイヴも知るところであるし、顔だちも非常によく整っている。身分も王女の相手としては相応であるし、イヴが伴侶に望むように将来重役に就くこともまあ、間違いないだろう。

 しかしそれらの要素こそイヴがエリオット家令息の下へと嫁ぎたくない理由だ。つまり、完璧すぎる。一人でなんでもこなしてしまえそうなルドルフは、伴侶としての支え甲斐が全くと言って良いほどないのだ。

 それに、どことなく反りが合わない気がする。表だって反目するようなことはなかったが、どこかしらカチリと合わない何かがあるような気がしてならない。(ルドルフとは何か合わないと思わしめる要因。言ってしまえばそれは同族嫌悪の類だ。イヴ本人にはそれが分からなかったが、若い彼女には仕方のないことだろう)


「しかし、当の副団長本人が、自分よりも適任がいるというでな。強く推薦してきたのがその衛士だ。かと言ってさすがに、どこの馬の骨ともしれぬ者をいきなり、王族の護衛に就けるわけにもいかなかったので拒もうと思ったのだが」


 オーガスタス王はそのように言ってから言葉を一度切る。イヴは父親の口許に一瞬だけ、不適な笑みが浮かんだのを見逃さなかった。


「タルコットのやつが、そやつならば問題ないと太鼓判を押しおったで、ちょいと興味が湧いてしもうたわ」


 タルコットというのは父王の下で長年法務官という重職を務める人物だ。本名をタルコット・ヴァーノン。いつも飄々とした雰囲気を纏う老人で、イヴは彼のことを少し苦手としている。


「エリオットのせがれに、タルコットも。武官と文官の、ともに上級官吏に推薦される人物というのは、いやはやどういうやつなのだろうと思ってな。ちょいと調べさせてさせてみたんじゃが。――なに、素性はすぐに知れおった。なかなかに面白いやもしれぬぞ」


 父は面白い人物かもしれないと言ったが、少々偏屈な嫌いのあるタルコットが気に入る人物など、イヴにしてみれば厄介なようにしか思えなかった。考えてみればエリク・グッドウェイなる人物の推薦人だと言う二人は、そのタイプこそ違えど、イヴが苦手としているという点において共通している。ふと、イヴが思いを馳せたのは類友と呼ばれる現象についてだ。そして、心の中だけで溜め息を吐く。


「それと、遊学の受け入れ先なのだが――」


 イヴは尚も続けられる説明を半分聞きながしながら、窓の外に目を移す。突き抜けるように青い空にはぽっかりと一つ、雲の塊が浮かび、風に乗ってゆったりと泳いでいた。

 城の外ではきっと、穏やかな風が吹いているというのに、イヴの心には鬱々とした雲が垂れ込め、ちっとも晴れやしない。

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