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騎士がいて、姫がいる。
物語の幕開けにしては、いかにもありがちで簡単な構図だ。今、この舞台の焦点はたった二人にのみ当てられている。
騎士――エリク・グッドウェイは、跪いて頭を垂れていた。鈍色の、ほとんど装飾がない簡素な鎧を身につけている。この鎧、実は国軍に属する騎士の証であるのだが、それにしては随分と質素で、頼りなさげに見える。
鎧の地味さが物語るように、彼の階級はそれほど高くない。むしろ、最下級の末端騎士と言ってしまってもいいくらいだ。もっと言うと、騎士なのかどうかすら怪しい。その地位は一国の王族を片やとするには相応しくないほどに低かった。
ところがこの男、今まさに王族を目の前にしているというのに、緊張の欠片すら見せない。忠誠を誓い跪く彼の所作は滑らかで美しく、堂にすら入っている。美しく、完璧な立ち振る舞いは、彼が下級騎士であることを忘れさせた。鎧に華美な装飾――今、この場においては雑味としかならないような、高い階級にあることを表す意匠のようなもの――があれば、その所作の一つ一つの洗練されていることに気が付かなかったかもしれない。
彼の顔を窺おうとすれば、なにせ跪いている。下を向いているが故、赤みがかった茶色の髪が垂れ、目元が隠されていた。故に、その顔立ちをはっきりと見ることは出来ない。それでも、口許には慈しむような微笑みが浮かんでいるように見えた。
姫――イヴリン=サン=オースティン王女の方を見やれば、――なにはともあれ、まずその美しさに目を奪われることだろう。
彼女の美しさを伝えるのには、神々しいという表現が相応しい。鼻梁は通り、瞳は大きい。瞳の色は青。綿津見の底のように、深い色をしていた。肌は白く、きめ細かい。髪は金糸のように艶やかでありながら、その一本一本が生糸を紡いだように柔らかい。彼女は、神秘的なまでに美しかった。
女神が天界から下界をそっと見守るような穏やかさと優しさを湛えた眼差しで、イヴは壇上からそっとエリクを見つめている。彼女の口許にも、やはり微笑みが浮かんでいた。
そう、王女が立っているのは華やかな壇上だ。彼ら二人から少しだけスポットライトの範囲を広げれば、そこはいわゆる玉座の間と呼ばれる空間だった。
開け放たれたマホガニーの大きな門扉。磨き上げられ、艶やかに光る大理石の床。入り口から玉座まで真っ直ぐ続く、真っ赤な布地に金糸で刺繍が施された絨毯。規律正しく居並ぶ、純白に金の装飾が施された鎧を纏う騎士たちや、翡翠色の官服を纏った高級官吏たち。一段高くなったところにある、玉石や象牙が散りばめられた玉座。それらに天窓から――もちろん天窓にも派手な意匠が施されている――太陽光が差し込み、幻想的な雰囲気が漂っている。陳腐な表現になってはしまうが、まるで一枚の絵画にでも出来そうな光景が、ただ二人を中心に広がっていた。
「辞退申し上げます。当然ですが、ね」
けれども奇妙なことに、また神秘的な光景に似つかわしくないように、その場の空気は凍りついているようだった。居並ぶ官吏は驚天動地、騎士達は怒髪衝天。それぞれが浮かべた表情の原因は、先の言葉。玉座を目の前にして余りにも不貞不貞しい、拒絶の言葉だ。
ただ、二人だけが微笑んでいる。周りの有象無象は余計な装飾だと言わんばかりに笑っていた。互いに何を思うのかは知る由もない。ただ、そこにいるのは、この物語の主人公が二人。
騎士がいて、姫がいる。
秤売りの騎士
◆
天の秤は、目に見えぬモノの重さを知る。
◆
時は、冒頭より少し遡る。
王城を中心として、街が広がっていた。オースティン王国王都である。オースティン王国の王都には『ウィオラ・マンデュリカ』という名前が付いていたのだが、王国に住む人々は普通、ただ『王都』とだけ呼んでいた。
王都には幾つかの塀がある。塀は全て円の形をしていて、大きな円がより小さな円を囲むように聳え立っていた。塀と塀の間には、人々の営みがある。一番小さくて、一番内側にある円の中には王城が。そこから順に外側へ、貴族街、平民街、貧民街と呼ばれる空間が広がっている。――誰が指示をするでもなく、王都は自然とこういう形になった。
始まりは王城、次に商人。この構図は、例えば王城の部分を教会や貴族の邸宅に置き換えれば、大体の街に当てはまる。権力者の庇護を求めて商人が集まり、市場を形成する。市場が賑わえば当然更に人を呼び込み、そうやって幾つもの市場が拠点の周囲に生まれる。王城には更に一層、王城と市場の間に貴族街というワンクッションがあるだけだ。
街の始まりが、例えば王城や貴族の邸宅、あるいは教会といった拠点であるのだから、そこにはどうしたって防衛と言う概念が付きまとう。端的に言えば、偉い人は狙われる。偉い人は死にたくないから、身を守るために塀を築く。大まかに言って拠点防衛とはこういうものだ。
拠点防衛という概念はしかし、市場を抱き込むことで都市防衛という名に姿を変える。考えるまでもなく、守るべき範囲が拠点防衛よりぐんと広くなるのだ。
広い範囲を守るための城壁を築くには、沢山の資材が必要になる。外側の円の方が広いのだから当たり前だ。しかし、丈夫な資材は当然高価格になる。そして、本当に守らねばならないのは拠点である施設たった一つだ。結果として新しく造られた城壁は、かつて拠点を守っていた壁よりも質の落ちたものになる。
都市の城壁が幾重にも施されているのにも、その質に差が出てしまうのにも、このように必ず合理的な理由がある。
だとするならば、王城から離れれば離れるほどその街並みが見窄らしくなるのもまた、至極当然で合理的なことなのだ。
さてさて、長い前語りもついぞ終わり。次からが本題だ。
王都外周部の端も端。貧民街、あるいは瓦礫村と呼ばれるボロ屋だらけの一角。ひっそりとした佇まいをしたその店は、人目を憚るかのように静かに佇んでいた。
「あいかわらず、時化てるみたいだね」
精悍な顔貌をした黒髪の青年は、店の扉を開け敷居を跨ぐなり店主――彼もまた青年と呼べる年頃である――にそう話しかけると、店内の物には目もくれずに慣れた様子でカウンター横の椅子に腰かけた。
「そこ、商談用の椅子なんだけどなぁ」
店主はどうせ聞かないと分かりつつも、一応の注意を青年に促す。案の定退く気配を見せない黒髪の――騎士風の青年の姿を横目に、店主は一つ溜息をついた。
「商談用」
騎士風の――鎧を纏い、腰に剣を佩いている――青年は綺麗な顔を疑問の色に染め、わざとらしく言う。
「どこに商談相手がいるんだ?」
「そりゃあ、まあ」
問われて店主は店の中を見回す。商品が並ぶ戸棚の前にも、計量用の秤の前にも、高さの違う二つのカウンター――背が高い方のカウンターは立ったままで行える簡単な会計用、低い方は腰を据えた商談用で椅子がついている――の前にも、他の客らしき人影は一つたりとも見あたらなかった。
「見ての通りいないんだけど」
「やっぱり、商売をするならもっと内側じゃない」
この王都の貧民街で内側と言えば、城がある中央よりの、平民街や貴族街と呼ばれる場所のことを指す。もちろん、平民街よりも貴族街の方が更に内側にあるのだけれど、いずれにせよこの貧民街から見れば塀をはさんで内側にあることに変わりない。
「そりゃあまあ、客はたくさんくるのかもしれんけどなあ……」
店主は背の高い方の――つまり青年が腰かけていない方のカウンターに立ったままぐでりと凭れかかると、呻き声を上げた。
「知ってるか、十倍だぞ十倍。ここを買うんだってそんなに余裕があったわけじゃないのに、その十倍なんて出せるわけがない」
中央で商売をするには、今以上にお金がかかる。それは初期費用であったり、税金であったり、維持費であったり。商売敵だって増える。街が繁盛しているというのはつまりそういうことだ。
なに、外側がちょいと寂れているとは言え、外には外の需要がある。うまくやっていけるはずだ。……その、はずだったのだが。
「でも、結果として入ってくるお金がてんで少ないってどうなのさ」
青年はなおも微笑みながら痛いところをつく。そして微笑んだまま追撃。
「センスないんじゃないの?」
なまじ顔がいいものだから微笑むだけで絵になるようなのだが、店主からすればそれが余計に小憎たらしい。ふつふつと込み上げてくる腹立たしさを、店主は冷め始めてしまった紅茶と一緒に飲み込んだ。
「僕も、紅茶が欲しいな」
青年は店主が紅茶を飲むのを見とめると、そう要求する。
「銅貨三枚」
店主はあっけらかんと答えた。
「なにせ、大事な大事な売り物だからな」
「けち臭いなぁ。どうせたっぷり余ってんだからいいじゃない」
そういって青年は、商品が並ぶ棚の方に目をやる。釣られて店主も視線を棚の方に動かすと、茶葉の詰まった瓶がずらりと並んでいる。棚に書かれた値段から計算したところ、銅貨三枚は丁度スプーンで一杯ほど――紅茶を淹れるのに必要な茶葉の量――の値段に相当する。
紅茶一杯を知り合いに淹れるのにわざわざお金を取ろうとするとは、青年の言うとおりだいぶけち臭いようだ。しかし店主からしてみれば、寂れていると知っているのに金も落とさない輩など、客人として認める訳にはいかない。断固たる意思表示でもあるのだ。
大体、好きで余らせてるわけでもないというのに。
茶葉が置かれた棚のすぐ脇には木製の簡素な机があり、その上で分銅と秤が置かれていた。この秤、【リーブラ・カストルム】においてはトレードマークにもなっていて、店内の至る所に置かれている。客自らが欲しいものの重さを量り、籠や簡易的な包み紙へと入れるのだ。
客に量らせた品物は、結局カウンターのところで再度計量するような仕組みになっている。二度手間と言えなくもないような仕組みだ。
しかし、欲しいものの量を具体的な数値として可視化することが出来るあたり、全くの無駄というわけでもない。……もっとも、客が殆どこないこの店では折角の秤も、使われる時を待って寂しそうに佇んでいるだけの置物と化している。
店の名を【リーブラ・カストルム オースティン王国王都第3支店】という。
支店と名が付くからには支店に違いないのだが、店主は所謂“雇われ店主”ではない。彼は商人ギルド【リーブラ・カストルム】の構成員だ。
商人ギルドと一口に言ってもその形態は様々なのだが、大別すると二つに分けることができる。一つは同じ種類の商品を手掛ける職人同士が集まって構成されるタイプの、作り手の相互扶助、商品の品質管理を目的とした“手工業ギルド”と呼ばれるもの。もう一つは商人同士が独占禁止等の規則を守る代わりに、ルール内での自由で安定した商売を約束し、さらに職人との繋がりが薄い商人にコネクションを与えるものだ。
普通、商人ギルドと言えば後者のことを指す。もちろんこれらの形態は各種入り乱れているのが普通であり、例えば手工業ギルドにそのまま販売窓口をくっつけたものなど、このギルドはこちらのタイプ、とはっきり言うのは難しいのが現状である。
【リーブラ・カストルム】は、その入り乱れた形態の中でも少し、異彩を放っていた。
通常、商人ギルドは毛皮商なら毛皮だけ、鍛冶匠なら金属加工物だけ、果ては鍛冶匠の中でも釘だけ、鍋だけといったように、一つの分野に特化して扱っているところが多い。手工業ギルドは言うまでもないのだが、先の例でいう後者の商人ギルドであっても、専門的な商業形態を採る傾向にあった。
そのような傾向になっている理由の一つとして、いくつもあるギルドの中で生き残るには独自性、ひいては商品の専門性を高める必要があるということが挙げられる。ギルドの規模が小さければ小さいほど、より専門的に。生き残るためにはそうせざるを得ないという事情がある。だから狭く深く、一つの物を扱う。なぜなら、どこでも同じものを扱っているのならば、一番の大手のみが生き残り他は全て潰れる。商売とはそういうものだからだ。
また、職人同士の間にも何を作っているのかによって序列付けがなされている。例えば毛皮商と金銀細工しでは毛皮商の方が格が高いとされているような具合だ。そのため、多種の商品を扱うときには職人同士の序列にも気を配らなければならない。格が高いとされるものを扱う職人たちは、格が低いとされる品と自分たちの品とが一緒に売られることを嫌がる嫌いがある。本当に職人たちがそんなに気難しいかと問われれば。是だ。なに、そうでなければ、扱うものによって序列などついたりはしまい。とにかく、そういった面倒を避けるためにも、専門性を高める傾向があるのだ。
対して【リーブラ・カストルム】は、量り売りできるものであれば何でも取り扱う手広い商売をしていることで有名である。その手広さもさながら、なにより先鋭的なのは、陳列展開という形態を採っている点だ。
【リーブラ・カストルム】が現れるまでは、人が物を買うときにはまずカウンターでどういうものが欲しいのか相談をし、店主がそれに応じて店の奥から物品を幾つか取り出すのが普通であった。必ず、客の需要が先行するのだ。
一方陳列展開はといえば、最初から店内に物が並んでいる。すると、必要としていたもの以外にたまたま目に入ったもの――例えばちょっと切らしていた日用小雑貨や個性的で面白い新商品などについても、面白いほど売れる。必ずしも需要が先行せず時には供給が先行するこの陳列販売という手法は、非常に革新的であった。
そして陳列展開において、より目立ちやすいところに格が上とされるような商品を置くことで、【リーブラ・カストルム】は職人同士の序列の問題をも解決したのである。
【リーブラ・カストルム】は盛況の時代を迎えたのだ。
のではあるが。
改めて店内を見回すと、木製の棚には茶葉や香辛料の他に色とりどりの薬や香水、何かの種のようなものや怪しげに光る鉱物、それから何に使うのか薬漬けの目玉や臓物などがズラリと……という程は並んでいない。王都にある同ギルド内では三番手の弱小支店ということもあり、品揃えは余り良くないようだ。店の広さそれ自体は、成人男性二人が目一杯手を広げたくらいの長さの棚が五列並んでも問題なく歩けるほどであるので、余計に物寂しく見える。
盛況真っ盛りのギルドの名を掲げてこの有様だ。尤も、やはり同じギルドの支店ならば一番手が強いのであり、人の入りが悪いのもある程度仕方のないことなのかもしれない。しかしそもそも二つ支店が出ている王都という街の、悪地も悪地ど真ん中に店を出そうと考えるあたりからして、もしかしたら店主には本当に商才がないのかもしれない。
「まあ、そしたら紅茶はいいや」
黒髪の青年はそう言って店主に向き直ると、躊躇いがちにやおら切り出した。
「えーと、その。今日は、頼みたいことがあってきたんだ」
「へえ」
店主は、青年が相変わらず微笑みながらもその瞳に真剣味の宿ったことを見て取ると、青年から見てカウンター越し真向かいに腰掛ける。一呼吸置き、カウンターに肘を付き手を組んでから、問う。
「天秤がいるのか?」
「あー、いや、そうじゃないんだ」
青年は少し言い淀みながら否定する。そして今一度店内を見回し他に客がいないことを確認すると、身を乗り出して声を潜めた。
「そうじゃないんだけど。ちょいと預かって欲しい人がいるんだよね」
青年の言葉を聞き意外そうに眉を顰める店主。頭の後ろで手を組み身を反らすと、ため息を一つこぼした。
「思うに、面倒ごとだね」
「あるいは、面倒ごとかもしれない」
黒髪の青年は、微笑みを崩さない。
「けどまあ、ちょいとこいつは君にしか頼めないことでね。なに、事情は後で話すから、今は首を縦に振ってくれ」
「事情も分からないのにかい?」
店主は呆れた様子で聞き返す。
「それは無理な相談だな。いくらお前の頼みだって、そんな言うのも憚られるような、危険なことはしたくないね」
「うーん、そうでもないんだけど。でもそうか。ああ、残念だな。……ところで」
青年は全然残念そうには見えない微笑み顔で続ける。
「エステラは元気かい?」
突然の問いに店主は疑問符を浮かべた。しかし、別に答えに困るような質問でもない。店主はやや褐色気味の肌をした少女の顔を思い浮かべながら、やたらとにこにこしている青年に答えを返す。
「ああ、エステラなら多分、今頃上で掃除でもしてるんじゃないかな」
【リーブラ・カストルム オースティン王国第3支店】で開店当初から働いている従業員で、概ね快活、時々暴力な少女。それがエステラの正体である。
「それで、あいつがどうしたって?」
「いやあ、彼女もそろそろいい年頃だなと思ってね。丁度思春期ってやつかな、反抗期は大丈夫かな、なんて心配になったりしたわけさ。……それで、彼女は今掃除をしているって?」
青年は微笑みを深くする。彼の本性を知っている店主にしか分からぬであろうというくらい僅かに、悪戯っぽさの混じる顔つきだ。
「君の部屋の、本棚の上から三段目をよーく隅々まで掃除するように言いに行――」「――わかりました先程の件引き受けます」
青年が言い終わる前に素早く――そのスピード感たるや改行を待たぬ迫力すらあった――店主は依頼を受けることにした。
「お前は卑怯だ。ずーっとニコニコしてるくせに、ぞっとするようなことを言う」
「たかだか春画の場所をバラされそうになったくらいでぞっとしないでくれよ」
やれやれ、と首を振る青年。それこそ思春期の子供じゃないんだから、とでも言いたげな表情だ。
「思春期の子供じゃないんだから」
訂正。言いやがった。いつかぶん殴ってやろう。店主は心の中で、そう強く誓った。
「それじゃ、よろしく。しばらくしたら命令書が届くと思うから、それで察してね」
目的語を欠いた言葉を餞別に、青年は席を立つ。店主は何も言わぬまま見送ることしかできない。
そのまま青年が扉を閉めると。
扉の風圧で近くにあった天秤が、静かに揺れて音を立てた。