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あがなる

作者: タニザキジュンイチコ

私は母を救ったのか、殺したのか、今でも謎である。

とにかく残しておきたかった母の記憶。

こんな病に罹るとは考えもしなかった母の少女時代も振り返りながら、最後の時間を表しました。先駆けて「癌がくれた母との蜜月時間」という日記ブログが下敷きになっています。

 名もない花は懸命に咲いてその命を誇り小さな種を残して消えていった。朽ち落ちたあとにまた新しい生命が連綿と続いていくと信じて。花に寄り添って生きた蜜蜂はしかし、花のことをいつまでも忘れられずに朽ち果てた花の辺りから離れることが出来ないでいる。花粉を紡いで新しい花を自分自身が咲かせるのだとは思いもせずに、古びた鉢植えの周りをいつまでも右往左往し続けているのかも知れない。

 生き物が息を引き取るその寸前、呼吸をする力を失った肉体を補うように、肺と咽喉の筋肉が協力し合い呼吸を続けるための努力をする。顎を下げる動きがポンプのように空気を取り込もうとする、生命最後のあがき。僕の目の前に横たわっている人は、まさにそんな様子を見せていた。

「は……はっ……は……」

 消え入りそうなくらい弱く、不規則に繰り返される奇妙な呼吸のリズム。それは冗談みたいでもあり、ゼンマイ仕掛けで機械的に動く猿のシンバルのようでもあり。

「そろそろです……」

 最後の仕事に取り掛かろうと身構えている在宅看護師が、静かに言った。

「はっ……は……は……」

 もう終わるのか。それとも、もう少しだけ続いてくれるのか。


1.家族

 母智子は昭和ひと桁生まれだ。神戸の宮咲米穀店の家に生まれ、少しつり上がった目尻に一重まぶたを乗せたうりざね顔は、たぶん大人になってからの方が美人だと言われただろう。小さい頃は、左眉の上に疣のような大きさのホクロがひとつぶら下がっていた。ところが昼寝をしている間に、母親つまり僕の祖母が和鋏みでぷちんと切ってしまった。つるりんとした額の肌と皮一枚でつながっていたホクロは、突然の別れに驚いた。だから一滴の血液もこぼさなかったのだ。

戦時中には女学生だった母は、B29の空襲を受けて真っ赤に燃え上がる大阪の空を「わぁ綺麗! 花火みたい」などと、歳は離れているのに双子のように顔がよく似た姉妹同士ではしゃぎながら呑気に見物していたという。もちろん空襲は大阪だけで終わったはずはない。有数の軍艦が停泊していた神戸もまた戦争の餌食になった。間もなくB29は神戸の空を黒い十字の影で覆い尽くし、燃え盛る恐怖の汚物を撒き散らした。数知れず撒かれたナパームの炎は、無数の点となって容赦なく海岸線一面に広がり、静かな町並みを焼き尽くしていった。そのとき大阪の人々が神戸の花火を見物したかどうかはわからないが、宮咲一家は一対になった家と店を失ってしまった。だが、祖父はすぐに、焼け跡に掘っ立て小屋を建て、米屋を再開させたそうだ。そして母もまた、焼け跡から復興する神戸の街と共に、思春期を再稼動させた。祖母は躾が厳しい人だったと聞いているが、母は洋裁学校をさぼり、宝塚歌劇に通い、スケートリンクで男に脚を引っ掛けられるという幼気な少女を楽しんでいた。


 僕が記憶している若い日の母は、すでにしっかりした大人の女性だったが、考えてみれば当時まだ三十歳にもなっていなかったはずだ。見合いで小杉稔の籍に入ったが、七歳年上だがおっとりした父をすっかり尻に敷いていた。父には申し訳ないが、何かにつけて積極的で、あれこれ指図をしながらも父を支える母の方が、僕には偉い人のように見えていた。

 父は転勤の多い会社員だったので、僕たち一家は、西日本一円をどさ回り一座のように転々としたが、父の定年退職を期に、父母は生まれ故郷である神戸を終の棲家に決めた。ちょうどその頃、母方の祖母が八十歳という齢で一人暮らしをしていたので、父はまるで養子になったような形で、年寄りの世話をするために母の実家に住むことになった。

 母方の祖母は名前を(きぬ)といい、母のホクロを和鋏みでぷちんと切った人だ。母を産み落とした後、産後の日立が悪く、視力がどんどん衰えた。僕たちが同居をはじめるずっと前から、大好きな新聞は目に押し付けんばかりにして読むし、テレビだってブラウン管にしがみつくようにして眺めていた。同じように耳も遠くなってしまっていたので、僕たちはみんな、絹ばあさんの右耳にキスをするようにして、大きな声で話しかけるのだった。絹ばあさんは、若い頃はずっとスリムだったに違いないが、僕が知っているこの祖母は、でっぷり太って、かつては豊満だったに違いない乳房は、収穫されないまま朽ち果てていくヘチマのように、胸から腹へと二つ並んでぶら下がっていた。大きな身体を細い一対のしおれた沢庵足に乗せてよたよたと歩き、体中で響かせた声を頭のてっぺんから放つように話すおばあさんだった。

「おおー暗! おー暗!」

 夜になると、電灯をつけていても、盲目者のように部屋中を手探りで歩いた。二世帯同居で二階に住む僕たちからは独立して階下に住み、身の回りのことはすべて自分でしていた。

「働かざるもの、食うべからず!」

 これが絹ばあさんの口癖で、僕はぶらぶらしている姿を祖母に見つかっては、大きな声でこの言葉を投げつけられた。明治生まれで厳しい時代を生き抜いてきた人らしい言葉だった。

 絹ばあさんは、亡くなる三ヶ月ほど前から惚けてしまった。昼の間、ずぅーっと眠っていて、夜眠らない。夜中に起きだして部屋をウロウロしはじめる。そんな具合だから、世話をしていた母はたいへんな苦労をした。母は祖母から受け継いだ家の店舗部分を改装して、クリーニングの取次店をしていたのだが、昼間は店で働き、閉店後は父と祖母の夕食を作り、その後は祖母につきっきりで、一晩中添い寝をするという日々を続けていた。定年退職していた父ももちろん店を手伝ったのだろうが、父は肝臓や足腰を弱らせていて、あまり働けなかったようだ。僕はというと、このときはもうこの家には住んでおらず、母のこの殺人的な日常のことをあまり知らず、関わろうともしなかった。

 ところが、ある日ついに、母から救助を求める電話が入った。

「ひさちゃん、もうえらいこっちゃねん。一晩だけでもいいから、私を眠らせてちょうだい」

忍耐強い母が助けを求めるからには、相当にまいっていたはずだ。添い寝をしていても絹ばあさんは夜通し起きているので、母はほとんど眠ることが出来ないでいたのだ。

「わかった。じゃぁ、明日からそっちへ行っておばあさんと寝るわ」

僕はそう言って受話器を置いた。

翌日、仕事が終わると、僕は大阪の自宅ではなく神戸の実家に帰った。出張にでも出かけるような着替え入りのボストンバッグを下げて。阪急御影駅から海側へとろとろっと五分ほど下がったところに実家はある。最後の角を左に折れて小さな用水路に沿った細道に出ると、八十メートルほど先に店名の入った赤いテントが見える。幅二間もないくらいの店舗だが、鉄骨住宅に建て替えてからは見違えるほど立派な店になった。全面ガラス張りの店が明るい灯火を放ち、陽が落ちた後の街角に立ち上がるオアシスのように暖かい。その光の中に母の姿が見えた。夕方顧客から預かった洗濯物に番号の入ったタッグをつけたり、帳簿を照合したり、店じまいまではもう少し時間がある。今になって思う。もっとたくさん手伝えばよかった。僕も会社で仕事をしてきたのだから、疲れていた。仕事を終えてまで母の店の手伝いなどしたくはなかった。夜の九時に店じまいする手伝いだけはしたが、その他のことは何ひとつしなかった。実際、手伝いたくても、店のことなどほとんどわからなかったのだ。

 母は店を閉めてから、二階に上がってキッチンに立つ。気の利いた息子なら、店の手伝いをしない代わりにせめて夕食の準備くらいはするものだろうが、その頃の僕には、そんな風には考える頭がなかった。母が夕食を作っている間に、父と交代で風呂を使い、母が祖母に夕食を摂らせている間に、父と僕はビールを飲みながらゆっくりテレビを見て、夕食を腹に収めた。空になった祖母の食器を持った母が、よいしょ、よいしょ、と階段を上がってきたので、僕は入れ替わりで階段を降りて祖母の部屋に行った。

祖母の布団の隣には、いつもは母が横たわっている布団が敷かれており、祖母はすでに床に就いていた。天井から吊り下がった和風仕立てのプラスチックカバーの蛍光灯を消し、祖母の耳元で「おやすみ」と言う。祖母はおとなしく横になっており、お腹のあたりが規則正しく上へ下へと運動している。眠っているのだと思った。しばらくの間僕もウトウトとしていたが、暗闇に向かって叫ぶ祖母の声で起こされた。

「おしっこやぁ! おしっこやぁ!」

 祖母を起こしてトイレに連れて行くことも可能なのだが、惚けている祖母を抱き起こして布団から立ち上がらせ、大きな身体を支えながらトイレまで連れて行くのは結構な重労働になる。何しろ、その頃の僕の二倍はありそうな祖母の身体を無理に支えようとしたら、こっちがぎっくり腰にでもなりかねない。ましてや母に出来る芸当ではない。だから僕は、教えられた通りに、祖母を横に寝かせたまま、お尻の下に尿瓶を充てがった。

「おばあさん、ここにおしっこ、出して」

祖母の右耳めがけて大声で言う。

「ええのん? ここでおしっこしてもええのんか?」

「うん、ええよ。早よここに出しぃ」

 ちょろちょろと小さな水音がして、尿瓶の底がほのかに暖かい懐炉になる。尿特有のアンモニア臭が立ち上り、ちょぼちょぼと排尿の終わりを告げる音がする。

ときには大きい方が出たいということだって、もちろんある。その場合は介護用のおまるを尻の下に入れてやり、終わったらちり紙で尻をきれいに拭いてやる。正直、僕は年寄りの面倒はおろか、病人の世話すらしたことがなかった。尿瓶にもおまるにも、僕はこのとき初めて触った。我ながらやればなんでも出来るものだと、そう思った。僕は、何も感じていないと思っていたのだが、ほんとうはちょっとした衝撃を受けていたのかもしれない。祖母の秘部に。かつてはしっかりと身体を支えるために存在していた二本の脚の肉はすっかり削ぎ落とされ、八十年間も使い古した皮だけが行き場を失って敷布団に溢れている。胴に続く腿の付け根は、まばらになった陰毛が異形の肉を隠し損ねている。もちろん僕は女性の陰部を見たことがない訳ではないが、老婆のそれは、象の尻のように皺だらけで、それも腐った果実色をした皮膚が力なくぶら下がっている。小猿に中身を食われて投げ捨てられ、黒く縮んで腐っていくのを待つばかりのバナナの皮の切れ目から、ちょろちょろと湧き出る黄色い液体。僕はその液を尿瓶に受け止め、濡れた陰部をちり紙で拭う。もう一度乾いた紙で押さえてから、絹ばあさんの下肢を寝巻きで包んで布団の中に収めた。

 こういうことを言うと、まるで僕が立派に祖母の介護をしていたように聞こえるかもしれないが、そうではない。ただ祖母の横に付き添うだけのことを、週に二度ほどした程度なのだから。

 翌週の絹ばあさんは、さらに惚けてしまった。深夜、添い寝をしていると、またも大きな声で騒ぎ出した。小便ではない。

「清さん、なぁ、清さん。早う早う! 早うして」

 何を言っているのか、最初はわからなかった。

「そこよ、そこ! 早う入れてえなぁ! 清さん!」

 色惚けしているのだ。絹ばあさんは、すっかり娘の頃に戻って、付き合っていた男と、夢の中で秘め事をしているのだ。あの、「働かざるもの食うべからず」という言葉を投げる厳格なばあさんが、まさか「早う入れて」などという言葉を、たとえ若げの至りの記憶だとはいえ、口にしていたとはとても信じられない。それに清さんって、いったい誰なのだろう。他界した祖父の名前では、決してない。

「早う、そこにおるんやろ?」

 絹ばあさんは、ついに目をつぶったまま、添い寝をしていた僕の手を探り当て、引っ張ろうとする。惚けているとはいえ、夢の中とはいえ、絹ばあさんはいま、愛しい人の傍にいるのだ。若かりし日の思い出に過ぎない、そう言えばそれまでだが、人生の最終盤で、もう一度だけ幸福感を再現してもらいたがっているのだ。僕は思わず、絹ばあさんに乗ってやるべきかなと思った。この手であの垂れ下がった象の皮に触れ、その襞の中に指を這わせてあげるべきなのだろうか? ほんとうにそう思った。僕にそう思わせるほど、絹ばあさんの演技には迫力があった。

 翌日、そのことを母に告げると、そうやねん、色惚けしてはんねん、とだけ答えた。ときどきそのような寝言がはじまるのだという。結局僕は祖母の色惚けを見たのはこのとき一度きりだった。絹ばあさんは、この数日後の朝、冷たくなっていたからだ。

 母の苦労話はもうひとつある。 実母である絹ばあさんの世話と並行して、父方の祖母の世話も引き受けていたのだ。

 父方の祖母はソネと言った。連れ合いが亡くなった後も、ずぅーっと自分の家で長男一家と一緒に住んでいたのだが、長男を肝臓癌で亡くした後、元々あまりよくなかった嫁との折り合いがこじれてしまったのだ。長男の家は、父母が住む実家とはひと駅しか離れていなかったので、長男亡き後の祖母は、次男である父と頻繁に接触した。電話で話したがったし、父に甘えにやって来るようになった。

 そういうことならと、母は父に提案した。

「いまも年寄りを一人抱えているけど、私の親だけ面倒見ているのでは申し訳ないと思うね

ん。こうなったら年寄りが一人でも二人でも同じやと思う。ソネさんを引き取ってあげたら

どうやろ」

 この提案には、父だけでなく、親族一同でひと揉めもふた揉めもあったというが、結局、ソネさんは身の回り一式を携えてうちにやって来た。そのときから一階には絹ばあさん、二階にはソネばあさんという構図が生まれた。母は自分でこういう状況を作り出しておきながら、「うちはダブル婆さんや」と冗談を言った。

 実際のところ、絹ばあさんがしっかり者だったのに比べて、ソネばあさんは甘えん坊でわがままだった。ことある度に長男の嫁の悪口を言い、九州に住む一人娘に電話で愚痴をこぼした。あの人は優しいけど、この人はひどい人だとか、この家の智ちゃんはよくしてくれるが昼間は仕事をしていて忙し過ぎるだとか、文句が多かった。智ちゃんとは、僕の母、小杉智子のことだ。ちなみに僕は小杉久史で、父稔と智子の次男だ。兄の邦生はその時すでに結婚して東京で暮らしていた。

 ソネばあさんは二階の洋室にベッドを入れてもらってそこで一日の大半を過ごした。身体は小さく、八十歳なら仕方がないなというくらいに足腰が弱っていた。目や耳はしっかりしていて、人の話はよく聞いたし、自分の気持ちもちゃんと主張した。暇さえあれば健康のためだと言って、自室に置いた青竹踏みに乗ったり降りたりしていた。長男の嫁とはダメだったかもしれないが、こうして次男の家に引き取られてきたのだし、もしそれでまたダメになったら、三番手、四番手、五番手まで子供が控えているのだから、幸せ者というべきだろう。だが、僕がソネばあさんを甘えん坊でわがままだったと評するのには訳があった。

 ソネばあさんの四人目の子供は唯一の娘で、それはもう母娘でベタベタな関係だった。だから何かといえばこの娘に愚痴を聞いてもらい、場合によっては泣いて訴える。するとこの娘は、美千代というのだが、慌てて嫁ぎ先の九州から飛んでくるのだ。美千代がまた、大騒ぎをする質で、うちにやって来ては、何がどうしたのだ、誰が悪いのかと、厳しい口調で追求するのだ。

 美千代の存在は、母からみればいわゆる小姑というやつだ。母にしても、長男の嫁にしても、ちゃんとソネばあさんの世話をしていたと思うのだ。だが、ちょっと気に入らないことがあると、ソネばあさんは娘に電話で愚痴をこぼし、その度に美千代が飛んで来てわあわあ騒いで帰って行く。これでは嫁の立場がないのも当然だと思う。

 その上、ソネばあさんはよく泣いた。娘が来てくれる場合はそうでもないのだが、美千代だってそうそう神戸までやって来るわけにはいかなかったのだ。娘が来られないことがわかると、ソネばあさんは急に弱気になって泣き出すのだ。年寄りにありがちな言葉を使って。

「ああ、早くお迎えが来てくれへんやろか。早う死んでしまいたい」

 年寄りがこんなことを言うのもわからなくはないが、親に死にたいなどと言われた息子や嫁は気持ちがいいものではない。ほんとうに死にたくなるほど不幸なのか? 自分たちの世話がそんなに不足しているのか? そう顧みざるを得ないからだ。

 結局、このソネばあさんは、母にとって思いのほか重い負担となってしまい、九州の娘のところに引き取られて行った。それから三年ほどして、九州で実娘である美千代に看取られた。

 年寄り二人が他界してしまってからは、老夫婦二人にも、ようやく気楽な生活が戻った。二十年前に住居を建て替えたときのローンも早々に返済してしまい、夫婦共々年金生活が出来る年齢になった。店は儲からないけれども、自分たちが生活する程度の日銭にはなっている。二人の息子もそれぞれに家庭を持って、長男家には孫もいる。普通ならゆったりと老後を過ごしたいものだ。実際、智子の実の姉である都弥子夫婦は、退職金が多いとか、若い頃から投資してきた株で儲かっているとか、経済的な理由はあるのだろうが、完全にリタイアして旅行やゴルフ、別荘遊びと、文字通り悠々自適な老後を過ごしていた。

 僕にもっと甲斐性があって、両親にもっと楽をさせてあげられたらよかったのだけれども、まだまだ僕も無力な若造だった。母はその後もよく働いた。どうしたらもっとお客さんが増えるのだろう、この店をご近所さんの井戸端会議のサロンとして提供したらどうだろう、インターネットで宣伝出来ないだろうか。いつもそんなことを考え、僕たち兄弟に相談した。

 忙しいのは仕事だけではない。小さな店のことだ、ぽっかり空いてしまう時間はたくさんある。その隙間を使って、職人ほどの腕を持っている洋裁をしたり、編み物をしたり、それでも飽き足らずに、最初は通信教育で書道の勉強をした。一年でそれが終了したら、今度は油絵をはじめた。常に何かをしていないと気が済まない、母はそんな人だった。


 僕も兄も、転勤でそれぞれ遠い町に住んでいたときに、父は亡くなった。ある日の正午過ぎ、近くの百貨店でぶらぶらして遊んでいた僕の携帯に母から電話がかかってきた。。

「お父さんが、倒れた!」

賑やかな場所で買い物を楽しんでいた僕には、一瞬理解が出来なかった。

「倒れた? なんで?」

「なんでって、今まで一緒にお店してたんや。お昼にうどんが食べたいって、お父さんがそう言うから、うどんの店屋もんとって、食べさせたんや。それからちょっと目え離してるときに……」

「わかった! すぐに帰る!」

僕が急いで自宅に帰って、帰郷の準備をしていると、再び携帯電話が鳴った。

「あかんかった」

「あかんかったって、何が? 何があかなんだん?」

「お父さんや」

 また僕は理解が出来なくなった。そんなことあるはずがないと思った。これは間違い電話に違いない。誰がこんなふざけた間違い電話をかけてくるのかと、僕は腹を立てて言った。

「あんた、誰や?」

 母も、息子のとんちんかんな問いに、面食らって答えた。

「お母さんや!」

 こうして、父はあっけなく逝った。腹部動脈瘤破裂。神戸の病院に駆けつけた僕は、そのまま通夜と告別式を執り行なう喪主側の人になった。

 父が亡くなった直後は、さすがの母も落ち込んでいたし、父の魂を感じただの、お線香が風もないのに揺れただの、奇妙な話をした。父の遺品を探していたら、手帳が出てきて、会社員時代の上司の奥さんのことが書かれていた。この奥さんと僕の両親は、家族ぐるみの友達なのだが、その奥さんに思いを寄せているようなメモが見つかったと、母は言った。僕もその手帳を見せてもらったが、どうにでも取れそうな記述だった。

「誘ってもいいのだろうか。でも智子がなんと思うか」

 これだけでは何のことだか判断出来ない。疑って読めば、「デートに誘うが、妻には言えない」というようにも取れるが、普通に読めば単純に何かに誘うかどうか迷っているだけだ。生前の父には浮気話などなかったし、浮いた噂すら聞いたことがない。いずれにしても七十歳を過ぎた爺さんが、やはり七十過ぎの婆さんに、何かを言ったとしても、いまさら気を揉むようなことではないと思った。


2.告知

 母が病院に付き合って欲しいと言ってきたのは、父が亡くなってから十年後の初夏だ。以前から首の脇にぷっくりとしたできものがあって、医師からは良性の腫瘍だと言われていたのだが、大きくなってきたので切ってもらうことにしたと言った。僕は地方勤務から大阪に戻っており、手術を受ける前の診察から付き添うことが出来た。病院は、甲状腺に関しては全国的に有名な神戸のK病院だ。良性腫瘍を摘出する手術を受けるにあたって、いろいろと事前に検査が必要だった。麻酔科の女医先生が母の胸に聴診器を充て黙って呼吸音を聞いていたが、そのまま神妙な表情になって言った。

「小杉さん、甲状腺治療より先にすべきことが出来ました。一度、市民病院でレントゲンを撮ってもらってください」

 女医は、母の肺の音を聞いて何かしら異常を感じたのだ。翌週、母は市民病院でCTR検査を受け、胸に異変がふたつ見つかった。肺腺腫というものだった。

 昔の癌は、本人告知などされなかった。少なくともドラマの中では、本人には癌であることを必死で隠していたし、病人は「ほんとうは癌なんでしょう」と医師にすがりつく。僕が知ってる癌とは、そういうものだった。だが、近頃では平気で本人告知をする。むしろ、本人にも知ってもらった上で一緒に闘いましょう! というスタンスなのだ。それほど現代の癌は治る病気になってきているということなのだ。

 東京から駆けつけて来た兄も僕も、母が癌になったという事実には少なからずショックを感じていたものの、まだ初期段階で、手術さえすれば治せるという医師の言葉を信じて、さほど深刻には考えていなかった。とは言え、癌という病は厄介なものだ。レントゲンやCTRの結果だけでは、良性なのか悪性なのかもわからない。それを確かめるためには、癌細胞を搾取して検査する必要がある。さらに、見つかった二つの病巣が、同じ原因によって発生したものなのか、別々に出来たものなのか。たとえばそんなことひとつをとっても治療方針が大きく変わるという。

 肺腺癌。非小細胞癌とも呼ばれ、非喫煙性の疾病だ。アジアの女性に多く、胃や腸に出来る癌と同じ種類のもの。その進行は遅いが、抗癌剤が効きにくい。医師は慣れた口調で簡単に説明する。それほどよくわかっている病気なのに、実際には一つ一つを丹念に調べていかないと、手術が効くのか抗癌剤が効くのか、転移の恐れがあるのかないのか、そのどれひとつも明言出来ないという。それが現代医療というものなのだ。

その日、僕と兄は母を実家まで連れ帰ってから、それぞれの自宅に引き取ったのだが、後に見つかったはあの手帳にはこの日の気持ちが綴られていた。


(母の手記)

 子供たちが帰ったあと、夫の位牌が入った仏壇の前に座って、この数日間に起きたことを反芻した。しばらくは頭の中が真っ白で、哀しさも恐ろしさも考えていない。何かが頬を伝う。ようやく我に返って、ポツン、ポツンと膝の上に落ちている水滴に気付く。

私もひとりの人間なんだな。

 どういうわけか笑い出しそうになる。だが、その次にはまた別の気持ちに支配される。

何で私なの?

私が何をしたというの? どうして私がこんな罰を受けなければいけないの。

 そう思うと、また熱いものが止めどなく眼窩に溢れ出る。頭の中を去来する希望と諦念、ぐるぐる回る過去と未来。まさか自分の人生にこんな結末が待っていようとは。

 何時間もそうしていたのか、あるいはほんの数分のことだったのか。次第に気持ちが落ち着いて来ると、いま、私はしあわせなのだ。いままで、七十余年もしあわせに暮らして大満足をしていたではないか。出来てしまったことは仕方がない。ではどうすれば良いのだろうか? 少し前向きな気持ちが胸の内に芽生えはじめた。

 いまの医学は進んでいるから、悪い所は取り除けば良いんだよ。

子供たちがそう言っていたではないか。


 翌週、母は気管支鏡検査を受けた。胃カメラの気管支版ともいうべきもので、小さなカメラを喉から挿入して病巣を見るのだそうだ。麻酔なしで行う場合もあるらしいが、やはり苦しいものであると聞かされて、軽い麻酔をかけますかと訊ねられた母は、もちろんそうしてくださいと頼んだ。これまで大病などしたことのない母は、虫歯治療以外の麻酔を受けたことがない。

 一時間ほどして検査が終わった。睡眠薬レベルの軽い麻酔から覚めたばかりで、眠そうな面持ちで検査室から運ばれて来た母に、僕は聞いた。

「どうやった?」

「あれ? 来てくれてたん?」

 僕は仕事の都合で、母を病院まで送ることは出来なかったが、後から遅れて病院に到着したのだった。だが、母の疑問はそれだけでは終わらなかった。

「ここはどこやのん? 私、なんでここにおるん? あんた何で来たん?」

まだ目が覚め切っていないのだな、そう思った僕は、気管支鏡で肺の中を調べてもらうために来たのだ、それでみんな付き添いで来ているのだと説明した。すると母が言った。

「ふーん、そうやったん。……それで……ここはどこやのん? 私、なんでここにおるん? あん

たなんで来たん?」

 ここはどこ、なぜここに、あんたはなぜ、三つのことを立て続けに聞く。僕は驚いたが、もう一度同じ説明を繰り返した。すると母がまた言った。

「ふーん、そうやったん。……それで……ここはどこやのん? 私、なんでここにおるん? あん

たなんで来たん?」

 僕は絶句した。これではお笑い芸人のボケと同じではないか。だが、気を取り直してまた説明する。こんなことが何度も繰り返された。母が狂ってしまった。瞬間そう感じた僕は、母を失ってしまったかもしれないという、どうしようもない絶望感に襲われた。東京の兄に電話で状況を伝えたのだが、こみ上げてくる気持ちに言葉が出なかった。

 短期集中健忘症。麻酔に耐性を持っていない人の場合、稀にこういうことがあるそうだ。結局母は、この日のことをほとんど覚えていない。後にこのときのことを話すと、全然記憶にないと言った。

 その後も、PET(ポジトロン断層法)、穿(せん)()吸引(きゅういん)細胞診など、はじめて聞く難しい名前の検査を、母は毎週のように受け、僕も付き添った。近年これほど母に密着して出歩くなんてことなどなかったのだが、それが病院通いとは皮肉なものだと思った。だが、考え方を変えれば、しばらく親孝行をしていない僕に、こういうかたちで母子がゆったりと過ごせる蜜月の時間を、神様が与えてくれたのかもしれないな、呑気にそう思った。

 

 最初の検査から三ヶ月が過ぎていた。これでもかというくらいに重ねた検査の結果、転移はないという結果が出た。だが、肺上葉の小さな癌の方はまだ悪性かどうか判別出来ていないのだった。

「まず下葉にある大きい方の癌を手術で出来る限り取り除きましょう。そのときに上葉の小

さい癌細胞を採取して細胞診にかけます。手術の後は、小さい方の癌を放射線と抗癌剤で叩

いて治しましょう」

「先生、そやけど私、なぁんか変な感じ。どこも痛いことも痒いこともないし、ご飯だって美味しいし。私、どこが病気なんやろうと思う」母が言うと、

「もしいま、自覚症状があるなんてことになったら、それはもう遅すぎる段階かもしれませんよ」医師はそう言って笑った。

 手術と放射線と抗癌剤、母はフル装備の治療を受けることになった。母の癌は第一期のステージA。すなわち初期の癌だという。それでも術後五年間の生存率は九割には届かないという。どのみちもう七十四歳、あと五年、十年と、ゆっくり進行するかもしれない癌と、残りの人生を共存していく。痛いとか苦しいとか、そういうことさえ避けられるのなら、癌と共に生きていく、それでもいいではないか、僕はそう思った。


「怖いなぁ。あたし、手術なんて初めてやし。なんか恐ろしいなぁ」

一ヶ月後、手術の日が近づいてくると、母は一度だけ弱音を吐いた。だがその後は恐いという言葉を封印した。母は気丈だ。言っても仕様のないこととわかれば、自分の中に飲み込んで、しっかり受け止めようとする、そんな人だった。

 手術前日から市民病院に入院して事前検査を受け、体調を整える。すっかり腹を据えた母は落ち着いたものだった。もう受け入れてしまったからには、何も怖いものはない。だけど本当は飛び跳ねそうな心臓や、両手で包むようにした湯呑のお茶をぶちまけそうなほどの身の震えを、無理して抑えていたのだろうか。

 手術は翌日の正午にはじまった。約三時間を要する手術だと聞かされた。東京から駆けつけてきた兄の邦生、母と同じ顔をした伯母の都弥子さん、従姉妹と兄の娘、そして僕と妻の裕美、これだけの人間が待合廊下の椅子を温め続けた。天井の蛍光灯は頼りなげで、一本はチカチカしはじめている。昼間だというのに薄暗い待合廊下で、僕たちは本を読んだり、世間話をしたり、コンビニのおにぎりを口に運んだりして、手術が終わるのを待った。

 手術開始から三時間半、ようやく僕たちは執刀医に呼ばれ、手術室の入り口のところにある小部屋に入った。四角い銀トレイが差し出され、その上には大きな赤い肉片が乗せられていた。食肉店にでも並んでいそうな、だがどの肉とも似ていない握りこぶしふたつ分ほどのグロテスクな塊。これが、こんなに大きな肉片が、母の胸から取り出されたのだと思うと、僕まで胸がきりきりと痛むようだった。これは母の一部であって、もはやそうではない。かつては母自身の肉だったかもしれないが、得体の知れない病変によって母ではない細胞に変質させられてしまった悪しき肉片だ。こいつのせいで母が辛い目にあっているのだ。なぜお前は母の一部であったときの恩を忘れて母を苦しめていたのだ。一瞬にしてさまざまな思いが僕の中で渦巻き、喉から溢れそうになる。口を押さえて溢れるものを止めた代わりに、今度は眼底から海のような水が溢れ出たいと準備をはじめるので、僕は急いでそれを押しとどめた。

「まだ手術は終わっていません」

 執刀医が言った。

「予定されていた左下葉は摘出しました。これが癌です。予想sていたよりも大きく六センチあります。ほかにもうひとつ、上葉との境目にも小さい癌が見つかり、それも摘出しました。上葉にあった小さい病巣は癌ではありませんでした」

 名医と評判の高い執刀医の説明では、癌細胞はすべて摘出したという。だが、その表情はなぜか暗い。手術は成功したと説明しているのに、どうして? 僕と兄が顔を見合わせていると、執刀医は言葉を続けた。

「この、小さな黒い点がわかりますか?」

 僕たちは言われてはじめて、肉の表面に小さな黒い点がいくつも散らばっていることに気がついた。これは、シミかそばかすか何かそういうものではないのか?

「これは、播腫(はしゅ)といって、切除した下葉を中心に、上葉、肋骨にまで拡がっています。こういうものは転移とは言わないのですが……」

 それからの医師の話は、播腫というものについての淡々とした説明。地面に種をばら播くように広がった小さな小さな癌細胞。それは小さ過ぎてたくさんあり過ぎて、もはや手術では取り除きようもなく、後は抗癌剤だけが頼みの綱である。大きな癌細胞は取ったものの、播腫が見つかった以上、大きな癌を切除出来たことはあまり意味を成さない。このまま閉腹して、手術を終了する。

「じゃぁ、母の手術は意味がなかったのですか?」

 兄が口を開いた。

「根治出来ないことがわかった時点で、摘出は止めようかとも思いました。ですが、開けたのに取らなかったのでは、本人がダメなのだということに気づいてしまうので、敢えて切除しましたが……」

医師は無念さを押し殺して答えた。

 縫合が終わってICU室に運ばれた母の顔には色がなかった。もともと色白なのにさらに血の気がなく、蝋人形のような肌に色のない唇が貼り付いている。その口には呼吸器のマスクが被せられ、腕にも胸にも、いたるところに痛々しい管が差し込まれていた。朦朧とした意識の中で譫言のように「寒い、寒い」と繰り返す母を看護師に委ねて、僕たちは廊下に戻った。

 手術開始から九時間後、ようやく母は病室に戻された。頬にはようやく少しだけ赤みが差し、北国で雪と戯れる子供のほっぺのような温かみを取り戻そうとしていた。東京からの疲れを溜めている兄親娘を実家に返し、僕は母の横に据えられた小さな簡易ベッドで休むことにした。とっくに麻酔は効果を失い、意識は戻っているはずなのだが、まだ朦朧としている母の腕には点滴の針がつき刺さり、いくつもの管が食いついている。僕は傷ついた老婆の手を握りしめた。かつて僕はこの手にぶら下がって育った。だが、大人になってからは、この手に触れることがなかった。母の手を握りたい、母を抱きしめたい、もう子供じゃない僕はそう思った。だが、照れくささに邪魔されて出来なかったのだ。それが今、僕の手の中に母のぬくもりがある。僕が握りしめると、目を閉じたままの母が握り返してくる。

 母はうとうとしているがなかなか眠れないようで、喉に溜まった痰をごろごろ言わせたり、軽く咳き込んだりしている。再々痰を紙で取ってやり、母の唇を水で湿らせる必要があった。母のベッドと並べた簡易ベッドの上で、ようやく眠りについた僕は悪夢の中にいた。

 深い海の底。こんな水の中で呼吸が出来るのだろうか。アクアラングも何も身につけていないのに、呼吸が出来ている。母は、どうなったのだろう。見上げると水面に浮いている白いベッドが見える。四角い影がぷかぷか浮いて、でもときどき沈みそうに傾く。母がベッドから落ちるのではないかと心配だ。僕が立っている足下に目をやると、赤黒い魚が海底スレスレに泳いで来る。赤黒いと思ったのは間違いで、実際には赤い表面に黒い斑点が散りばめられているのだ。これはカレイだろうか、ヒラメだろうか。たしかそれらの魚は右向きか左向きかで判別出来ると知っているが、どっちがどっちだったか。

 赤地に黒い斑点の魚は知らぬ間にその数を増やし、猫のように僕の足元にじゃれついて来る。次から次へと数を増す魚は僕の足に絡みついて、バランスを失いそうだ。はっと思ってよく見ると、それは魚ではなく、母の胸から摘出された赤い肉片だ。その肉片がどんどん増えて、僕の足下を、僕の行き先を見えなくしている。天を見上げると、母のベッドが大きく傾いて沈みそうになっている。僕は浮上しようともがく。もがいているが動きが取れない。次第に呼吸が苦しくなって喘ぐ。喘いで涙が湧き出る。

「ひさちゃん、なんや、なんで泣いてるん?」

うなされて声を上げていたらしい。母が目を覚まして起こしてくれたのだ。

「もう、終わったんやなぁ。何も覚えてないわ」

母の胸の中から癌細胞の摘出は出来たが、小さな小さな癌の種がばら撒かれた状態のまま手術が終えられたことを母に伝えるわけにはいかない。すべて上手くいったのだと、そう思わなければ、何のために痛い思いをして、苦しい思いをして手術を受けたのかわからない。

「うん、終わった。癌は全部取れたって。どう? 痛くない?」

「ちょっと痛い。この辺りが特にひきつる感じ」

 看護師を呼ぼうかと言ったが、それほどでもない、我慢出来ると言う。それから二つ三つ言葉を交わしてから、もう少し眠ろうと言って僕は口を閉じた。

 播腫。それは、原腫を中心に、まるで種をばら撒いたように、あるいは昔神戸を襲った空から降り注ぐナパーム弾のように、小さな癌の種があちこちに広がる最悪なパターンの腫瘍。普通、癌の転移というものは、血液に乗って、リンパ腺を通じて全身に回っていくのだが、播腫は違う。手近なところに、あたり構わずばら撒かれる。作家山崎豊子が描いた小説「白い巨塔」で、主人公財前教授が最後に罹病するのが、この播腫だ。東京に帰った兄が呼吸器科の医師である友人にいろいろ訊ねたという。播腫は治せるのか、どのくらい生存出来るのか。僕は、その友人がどう言ったのかと追求した。でも、聞かなければよかった。

 播腫への対抗手段を何もしなければ、数ヶ月から一年。仮にイレッサーなどの、効果的で身体に適合する抗癌剤が見つかり、癌を叩いたとしても、五年。兄の友人はそう言ったそうだ。

 母の命は長くても五年。しかも最後の数ヶ月は苦しみ抜いて死んでいく。それが肺癌。

「思い切って手術に踏み切ってよかった! 先生、ありがとう!」

術後、元気を取り戻した母は、癌は完全に取り除けたと信じている。病室へ様子を見に来た担当医に、無邪気に礼を言う母の顔を、僕はまともに見ることが出来なかった。

 治らないのなら、痛い目なんかさせなければよかった。いまさらそんなことを考えても仕方がないことはわかっている。それに開けてみなければ播腫であることはわからなかった。七十四歳の母が、普通に生きたとして、八十歳まで生きるのか、八十五歳まで生きられるのか。この六年、十年が、癌によって五年に縮められてしまったからといって、何を嘆く必要がある? 僕自身だって、十年後にも生きているのか、あと五十年も生きていられるのか。そんなことは神様にしかわからない。

「人間はすべからく寿命という病に冒されている。いつか必ず死んでしまう病に」

 どこかで聞いたことのある言葉を思い出していた。人間は、何のために、どうして苦しい人生を続けなければならないのか。普段は考えたこともないのに、病は人を哲学者にしてしまう。しかし、ともかく肺癌で苦しんで、ゴホゴホ咳き込みながら命をすり減らしていく母を、僕は見たくない。これだけは誰が何と言おうと間違いない。

 九日後、退院を前に、母は自分の病状について知りたがった。病室にやって来た医師をつかまえて、今後の治療について問うた。医師は、病巣は思ったより進んでいる、肺を包んでいる胸膜に転移しているステージBであると告げた。

「先生、私は末期癌なんですか」

「……」

 医師は少し困った顔をして黙り込んでいた。母は、それでどれほどの命なのかと詰め寄ったけれども、やはり医師はその問に答えず、別のことを言った。

「治療が出来る人は、まだ救われますよ。出来ない人も大勢いますからね」


3.治療

 一ヶ月後、癌治療では日本有数と名高い先端医療センターに舞台を移して、母の抗癌剤治療がはじまった。抗癌剤は、見方を変えれば自らの身体の中の細胞を殺してしまう毒薬だ。癌細胞だけに効果を発揮するのなら何も問題はないのだが、罹病者自身にも副作用というダメージを与えてしまう場合も多々ある。癌への効き具合と、罹病者への影響、この二つの要素がうまくマッチしないと、治療方法として有効とはいえない。そういう意味では、最初に母が受けた抗癌剤は、母には適さなかった。

 病室の窓からは病院が建つ埋立地を一周するモノレールと、海側に建設された花鳥植物園の外観が見える。抗癌剤の点滴を受けながら、母はこの景色を楽しんでいた。趣味で持ち込んだスケッチブックに、母は鉛筆で絵を描き、言葉を添えていた。芋虫みたいに走り寄ってくるモノレール。その背景にこんもりした木々に囲まれた花鳥植物園。

「ほら、上手いこと描けてるやろ?」

 子供に戻ったような穏やかな笑顔で母は言った。絵の方は大した出来だと思ったが、添えられている言葉は子供の落書きに限りなく近いものだった。

 芋虫どんごろ、私もどんごろ。

 抗癌剤投薬直後は平気な顔をしていた母だったが、翌週にはひどく落ち込み、吐き気と倦怠感に悩まされて食欲もなくなった。抗癌剤は一回目の投与後、一週間をあけて二回目の投与を行う。これを一クールとして、そこからまた三週間ほどあけて、二クール目の投与を行う。このサイクルで合計四クールの抗癌剤治療を行う予定だった。二回目の投与あたりから効きはじめ、ひと月もすれば毛髪も抜け落ちてしまう。こうして本当の意味での母の闘いがはじまった。

 一クール目に使った抗癌剤は母の身体に合わなかったようで、母はこの時点でもう音を上げてしまった。病室で母のベッドを囲んでいる僕と妻の裕美に、母が言った。

「こんなに苦しいのなら、次はもう、したくない。次の抗癌剤治療は受けたくない。私は癌と共に静かに生きて、そのときが来たら、緩和治療を受けるだけでいい」

 病室のベッドに横たわった母は、熱によってかさかさに乾いた唇をだるそうに動かして、下肺切除手術の時よりも数倍苦しそうな面持ちで続けた。

「お父さんの命日が十二月五日。それまで生きてられたら、今度は来年の十二月五日まで。これから、毎年、十二月五日まで生きられたら、もう一年。まだ生きていたら、またもう一年。

そうして毎年一年ずつ、生き延びられたら、私はそれでいいねん……私はそうやって残りの寿命を生きていく。もう、こんな辛いのは嫌。静かに暮らして最期を迎えたいねん……」

 僕も裕美も声を出すことが出来ないでいた。二人とも目の前が海のようになって、突き上がってくる痛哭に溺れそうになっていた。

「お母さん。あのね、今、辛抱したら、次回はもっと楽になるし、その次はさらに楽になる。でも、治療を受けなかったら、癌はどんどん進んで、苦しさはもうずーっとひどくなっていくよ。だから、いまは辛抱しようね」

 やっとのことでそう言って、僕は、ただただ母の手をさすり続けた。

翌日、母は看護師をつかまえて担当医と話がしたいと言った。僕はこのとき仕事に出かけていて、付き添っていた裕美の報告を後から聞いたのだが、夕方病室を訪れた医師に、母は同じことを言ったそうだ。

「先生、私、この治療がこんなにしんどいとはわからんかった。こんなにいつまでもしんどいのはもう、こりごりなんです。たとえ少しくらい命が短くなっても、私は太く短く生きたい。先生が後一年しかないと言うのなら、その一年を家で楽しく暮らしたい。病院で、こんなに苦しい思いをして過ごすくらいやったら、抗癌剤はもう止めたい」

 医師は軽く頷きながら黙って聞いていたが、少し間をおいてから、実に誠意のこもった声と表情で話しはじめた。

「あなたもあなたの家族も、医師としての私の気持ちを理解して、私と同じ方向に向かって、一緒に癌と闘ってくれている、そう思ってここまで来ることが出来ました。だけど、いまのあなたのその話には、私は賛同出来ない。私は、七十余歳のあなたよりもずうっと若造だけれども、医師というプロとして、今までたくさんの患者さんを見て来ました。もうすぐ、その数も四桁になろうかという大勢の患者さんとお付き合いして、癌については、あなたよりも経験も知識も豊富だ。患者さんの中には、私のファンになってくれている人もいるくらいなんです。私のポケットには、まだまだ多くの治療方法が入っている。だから、私の言うことを聞いてください。私は、太く短くではなく、太く長く、あなたに生きて欲しい、そう思います」

担当医は、とても落ち着いた自信に満ちた声でそう言ったそうだ。母はたいそう感激して、

「私を治してくれるんですね。先生に、お任せします……」

 あれほど強く拒否していたのに、母は次の抗癌剤治療を受けることに同意した。まるで安っぽいテレビドラマみたいだが、このとき医師と患者は、手を握りあって、堅く約束した。この医師は、自分の仕事に命を賭けている、母にはそう思えた。

 医師のポケットの中の治療法により、二クール目からは別の薬に変わった。母もそれで少しは楽になった様子だったが、抗癌剤が身体にきついことに変わりはない。うんうん唸りながら、三クールの抗癌剤投与を終え、四クール目にさしかかったところで年が明けた。


 僕は妻と共に年末から母の元に帰り、正月の準備をした。大晦日には兄一家もやって来て、一人暮らしをしていた母は賑やかな正月を喜んだ。

 三日には、来客があった。母の見舞いがてら、年始の挨拶に来たのだった。客は、正月早々から風邪をひいてしまって咳が止まらないとこぼしながら、ひとしきり長い話をして帰って行った。こうして癌を告知されてから最初の正月が慌ただしく去って行った。

 それから一ヶ月後、大阪の自宅にいた僕に母から電話が入り、「モノが二重に見える」と訴えた。眼鏡が合わなくなったのではないか、疲れ目じゃないか、しばらくしたら治るに違いないと考えたが、僕は念のために眼科に行くようにと母に言った。だが、眼科では原因がわからず、しばらく様子をみましょうと言われて帰ってきた。翌朝、さらに状態が悪くなったと電話が入ったので、近所の脳外科に行くように言ったが、やはり原因がわからず、またしても様子をみようということだった。ところが、さらにその翌朝、いよいよ歩くことが出来なくなってしまったという。これは癌と関係しているのかも知れないと考えた僕はすぐに実家に駆けつけ、癌治療で世話になっている先端医療センターに母を連れて行った。脳のMRIを撮ってもらったが、またしても異常は見つからなかった。しかし、もはや本人は家にも帰れない状態になっており、急遽入院することになった。そこで神経内科の医師に看てもらって、ようやく癌とは無関係な病名が見えて来たのだった。

「フィッシャー症候群」

 十万人に一人という難病だそうで、その原因は明確にはわからないそうだが、風邪の治りかけなどに、自分自身の抗体が、自分自身の神経系統を攻撃しはじめるという不思議な病気だった。最初はモノが二重に見えて気分が悪くなり、ついに歩けなくなる。そのうち手足も動かなくなるという。

 おそらく抗癌剤治療で免疫が低下しているところに、あの、正月の来客がもたらした風邪菌が侵入してそうなったのではないかと考えられた。肺癌で苦しんでいる母に、追い打ちをかける難病。命に別状はないが、元に戻るまでには早くても二ヶ月、長ければ半年もかかるという。残り少ない母の人生が、ここでもまた少し奪われてしまうことになった。


もし明日が来ないとしたら

今日で終わってしまうのなら

残された時間のしずくを

私は何に費やすだろう


 これは、僕の携帯音楽プレイヤーに入っている美しい曲の冒頭部分。実際、人生の残された時間が明確に分かったとしたら、僕はどうするのだろう。母は何を思うのだろう。

 フィッシャー症候群は幸いにも二ヶ月ほどで消えていき、目の見え方がほぼ正常に戻ってくると、母の様子はおおむね良好になり、食欲も旺盛に過ごせるようになっていた。

 最初の癌告知を受けてから一年が過ぎようという頃、再び母は若干の不調を感じはじめ、再び病院で調べてもらった。胸に水が溜まってきていることがわかり、PET検査の結果は、癌の進行を示してしていた。

「もう、ダメかもしれないなぁ……あと二年くらいなのかしら?」

 母は、とても冷静な様子でそう言った。そして僕がいない間に、あとどのくらい生きられるのかと医師に尋ねた。

「小杉さん、本当に知りたいのですか?」

 医師は、そう念を押した上で答えたそうだ。

「正直に言います。小杉さんくらいの進行具合の場合、平均して、十二ヶ月くらいだと考えられます」

 もちろん母は、動揺したに違いない。だが、もはや覚悟を決めたという顔で、僕にそのことを伝えた。

 あと一年。

 もちろん、その一年のうち、元気な状態で過ごせるのは半分もないだろう。

 死はすべての人に、必ずいつかはやってくる。だから、死ぬことは仕方のないことだと思う。あと一年と宣告された母だが、もしかしたら、僕のほうが事故や急病で先に逝く可能性だってある。しかし、一年しかない母の命の後半部分には、間違いなく痛みと苦しみを伴うことがいまから約束されてしまっているのだ。その苦しみや痛みを、患者本人ではない僕には、想像することすら出来ない。あと一年。僕は何をすればいいのだろうか。

すべてを失くすその前に

残された時間の回廊で私は

あなたを抱きしめたい

 あの歌は、こう続く。僕は、病室を去るそのときに、ベッドの上で母を抱きしめた。抱きしめることしか出来なかった。


4.在宅医療

「在宅医療を受けて、自分の家で最期を迎えたい」

 母は再び、抗癌剤治療の中止を考えはじめていた。健康であったときから言っていたのだ。もし自分が病気かなにかで重篤になったら、決して延命治療は受けたくない、命のあるがままに自然の死が訪れるままに、最期を迎えたいと。そして、今がそのときなのだった。

 世の中には、自分の家で最期の時を迎えたいと考えている人が少なからずいる。また、そうでなくとも、病院に入ることが出来ない、家で看取られるしか方法がないような人も数多く存在する。こうした自宅での療養は、本人や家人だけで行えるものではない。自宅まで診察に来てくれる在宅診療の医師、患者に必要な治療を手伝ってくれる看護師、日常生活を支えてくれるヘルパー、数々の医療器具。こうした在宅医療の体制があってはじめて実現出来るのだ。最近では国内各地にこうした在宅医療を行う医師や設備が増えては来ているが、高齢化する市民の数に比べると、まだまだ充分だとはいえない。

 僕には、母が希望する在宅医療あるいは在宅ケアと呼ばれるものについて、詳しく知っておく必要があった。諏訪中央病院の医師が著したベストセラー本を、妻が見つけてきてくれたので、それを読んだ。何人もの末期癌患者の姿が、在宅医療を見つめる医師の視線で書かれていた。余命何ヶ月という告知を受けた患者が亡くなるまでの数ヶ月を、家族のありようとともに描かれていて、余命告知をされることがどんなことなのか、その家族はどう考えるのかなど、それは切実に伝わってくる。こんなリアルな内容の本を、本人には読ませられないなと、最初は思っていたが、読み進んでいくうちに、これこそ母が読みたがっている、知りたがっている内容なのだと思い直し、一刻も早く読ませたいと最後まで読まずに母に渡した。

早速読みはじめた母が言った。

「同じ様なことを考えている人、いるもんやなぁ」

 母は、もはや覚悟を決めたと言い、死ぬまでに残された時間を自分らしく生きたいと言った。

「そやけど、やっぱり怖いなぁ」

 こんな話を笑顔で出来るはずもない。僕と母はお互いに鼻をずるずる鳴らしながら在宅ケアのことを一緒に考えた。


 盆が過ぎて、僕は癌と闘っている母を、気分転換のためにどこかへ連れて行きたいと思った。ちょっとした旅行に行こうか、母にそう提案すると、行きたいと言った。

 近場……淡路島に小さなホテルがあると聞いて、車でそこへ行く事にした。だが、最後の抗癌剤治療のための入院が予定より長引いていた。キャンセルかなぁ? そう思いはじめていたが、医師の取り計らいで、なんとかキャンセルしないで済むっことになった。

 退院、即旅行という、いささか強硬な日程になったが、母の調子は良さそうだった。旅行といっても淡路島なので、車で一時間ほど。それでも退院直後であるから、吐き気とか疲れが出たらという心配はあった。実は三ヶ月ほど前にちょっとした事件があったのだ。

 夏のはじめのこと、兄の家に行ってみたいという母の思いを遂げさせるために、兄は東京からわざわざ母を迎えにきて、母を東京へ連れ帰った。兄の新築一戸建てを見た母はたいそう喜んだのだが、その翌日の朝、メロン事件が起きた。普段母はあまりメロンを食べない。しかし母は、兄夫婦のもてなしを味わうために少しだけ口に入れたのだそうだ。しばらくすると、最初は片掌が痒くなり、あっという間に両手、脇の下、背中、足の裏に痒みが広がり、遂には上喉の奥が垂れ下がったようになった。慌てて義姉が病院に連れて行くと、メロンアレルギーである事が判明。アレルギーくらいと思われるかも知れないが、アレルギーをなめたものではない。喉が塞がって呼吸困難になる可能性だってあるのだ。一大事になってしまうところだった。幸い手当が早く順調に回復して、三日後には「疲れた、あーしんど」と言いながら母は無事神戸に帰ってきたのだった。

 そんなこともあったので、旅先では何が起きるかわからないと用心した。しかし、案ずるよりなんとかで、母の体はとても調子よく、何事もなく過ごせた。ただ、ホテルは山の中にあり、周囲には何もないようなところ。僕たちは緑に囲まれたバルコニーで太陽を浴び、連れてきたうちの愛犬共に少しだけ散歩をした。だが、少し歩いただけで、もう疲れたというので、結局ほとんどの時間を母は部屋で横になっていた。それでも母は楽しいと言った。抗癌剤を入れたばかりであるにもかかわらず、活魚や淡路島産玉葱が盛り込まれたそれなりに豪華な食事も、美味しい美味しいとよく食べた。

 淡路島から帰った後、母は抗癌剤治療を中止した。ずーっと考えて来た通り、自分の家で最期を迎える決意をしたのだ。もう治らない、あと一年しか生きることが出来ない、そう知ったからには当然の決心だと思う。抗癌剤治療を止めることによって、一年の命が十ヶ月、八ヶ月になってもいい、そんなことより、短い人生をラクに、楽しく生きたい。そう言った。抗癌剤治療はそれほど苦しかったわけだし、吐き気や苦しさを我慢してまで延命したくないと悟ったのだ。それともうひとつ、味覚障害も大いに嫌がった。抗癌剤の副作用のひとつとして出現する症状なのだが、食べている物の味がまったくわからなくなってしまったのだ。母は、決して贅沢を言うわけではないが、食べることと、食事を作ることが大好きだったのだ。それなのに、味がわからないなどということになると、それだけですでに人生の楽しみは激減してしまっていたのだ。

 旅行から戻った母は、入院前と同じように一人の生活をはじめた。もちろん、一人暮らしは心配なので、ヘルパーに来てもらい、身の回りのサポートをお願いした。同時に、先端医療センターの主治医から、在宅医療に来てくれる医師の紹介を受け、僕は母と一緒に医師との面談に出かけて登録手続きをした。

 在宅医療の関谷クリニックは、実家とはひと駅離れているだけで、車だと十数分ほどのところにあった。院長の関谷医師は、弥勒菩薩のようにやさしい風貌で、どっしりした女医先生だ。見るからに安心してお願い出来る雰囲気を醸し出していた。病気の話だけではなく、母自身のことや、長男の家族のこと、僕自身のことも少し話して、これからの闘病生活について話し合った。次回はさっそく家に来て母の病気を看てもらえることに決まった。

 在宅医療の病院が決まった帰り道、母の不安な気持ちはすっかりなくなったようだ。やはり病気と闘う上で、気持ちの問題は大きい。僕は、そろそろ実家に移り住んで母を支えなければならない時期が来たのだな、と考えはじめていた。


 都弥子さんは、母のすぐ上の実姉で、年は少し離れているが、姉妹の中ではいちばん母と顔が似ていて、母と仲良しだった。同じ神戸の離れた区に住んでいて、昔から頻繁に行き来があった。父が死んでからも、この伯母夫妻は、四国お遍路参りやいろんな小旅行に、一人になった母を連れ出してくれた。しかし、都弥子さんの夫もつい最近、入浴中に脳溢血で倒れて亡くなった。

 都弥子さんは、母の手術にも、抗癌剤治療で入院しているときにも、足しげくお見舞いに来てくれ、母はとても喜んでいた。母より五つも年上なのに、北区の家から病院まで、遠い道のりをわざわざ通って来てくれるのだ。

「伯母さんは、本当にお元気でいいですね」

 僕がそう声をかけたときには、実はすでに伯母も病魔に冒されていた。

「あんたの方が妹やのに、あたしはいつもあんたの後をついて行っているみたい。あんたが風邪を引いたとき、あたしも風邪引いたことあるやろ」

「そうやったかなぁ?」

「ほんでな、あんたが癌になったら、あたしもまた、あんたと同じ癌やねん」

母は言葉を失った。伯母が膵臓癌であることが判明し、母の胸には二重の痛みが圧し掛かった。踏ん張っていた気持ちが音を立てて崩れ落ち、どす黒い癌細胞が母の心を食い尽くしていく。一日一日衰えていく身体。身も心も癌細胞に乗っ取られてしまい、自分ではない自分がいるような感覚。三人姉妹のうち二人までもが癌に囚われてしまうとは。目の前に覆いかぶさろうとする真っ暗な影を押しのけるように母は言った。

「姉ちゃん、私が命を延ばすから、姉ちゃんも私についてきて!」

伯母の膵臓癌は、発見された時点ですでに末期。抗癌剤治療を施す暇もないほどだった。検査で癌が見つかったその日のうちに、子供たちには余命三ヶ月が宣告されていた。伯母は、しばらく市民病院に入院していたが、やがて一人で暮らしていた北区を引き払って、次女の家に引き取られた。娘の家で在宅医療を受けることになったのだ。

 一ヶ月が過ぎた頃、母から連絡が来た。

「姉ちゃんがなんかおかしいねん。受け答えとか、絶対ヘンや」

母が自宅の病床から都弥子さんに電話をしてみたところ、何か異変を感じたというのだ。

さらに三日後の朝、出勤しようとしていた僕にまた母から電話が入った。

「姉ちゃん、調子悪いみたいやねん。あんた、ちょっと私を迎えに来て姉ちゃんとこに連れて行ってくれへん? 今日でなくてもいいから。一度お見舞いに行きたいねん」

「わかった。じゃぁ、今から行こう!」

 そう返事をして、すぐさま会社に休みの連絡をし終わったところにまた母から電話が入った。

「早く来て! なんかいよいよ様子がおかしい」

 慌てて車庫から車を出しているところへ、また次の電話。

「亡くなった」

 もはや急いでも手遅れなのだが、僕は急いで車を走らせた。


 それまでの母は、ベッドで寝たきりのようなことはまったくなく、「私のどこが病気やのん?」と不思議がるくらい元気だった。もちろん、抗癌剤治療のおかげで、そもそも全体が白くなっていた髪の毛はすべて抜け落ち、吐き気と味覚障害に悩まされてはいたが。

 都弥子さんの通夜にも葬儀にも驚くほどの元気さで出かけて行った。葬儀から帰ってからも、「ちょっと疲れた」というくらいのものだった。葬儀の翌日の午後、僕は週明けからの仕事に備えて自宅へ戻った。

ところが、その週の半ば。仕事場で携帯電話が鳴った。

「お願い、今夜来てちょうだい」

どうしたんだろう? 具合が悪くなったのだろうか。切羽詰った感じの訴えに、僕は急いで家に戻り、とりあえず一週間分の着替えを持って母が待つ実家へ車を走らせた。

 実家で待ちかねていた母は、落ち込みが激しく一人でいるのが辛いのだと言った。その夜僕は妻をも呼び寄せ、自宅を空き家にして母と同居する生活がはじまった。

 伯母の死は、母の気持ちを地の底へと引きずり下ろした。なんとか癌と闘って頑張ってみようと思う気持ちを萎えさせ、早く楽になってしまいたいという思いを膨らませた。僕たち夫婦が同居することで、多少なりとも持ち前の前向きな精神力を奮い立たせてくれればよかったのだが、思いとは裏腹にみるみるうちに母は崩れ落ちていった。

 病気と闘うことによって、死を乗り越え、活き活きした世界に帰還出来るものなら、僕だって母を激励したことだろう。だが、もはや死を免れることは出来ないと宣告されている。どうあがいたところで、確実に、着々と、死が大手を振って近づいて来る。それがわかっている母にいったい何が言えるだろう。何をしてあげられるのだろう。

 残された命が十二ヶ月と宣告されてから、すでに半年が過ぎていた。母に残されている時間は、もはや長くても六ヶ月。肺の痛みが日増しに強くなっていくと母は訴えるが、僕にはその痛みがどうにもわからない。肺が痛むというその感覚がつかめないのだ。

「また痛いねん、どうしたらいい?」

 毎日、夜になると辛そうに聞いてくるのだが、僕に出来ることは、医者から渡されている痛み緩和薬のモルヒネ散を飲ませることだけだった。薬をのでもまだ辛そうな母に、背中をさすろうか? と言うと、さするくらいではこの痛みはどうにもならないと言う。

 僕にはいま母に起きているすべてのことがどうにも現実のことのように思えない。あと半年というけれども実感できないでいる。ほんとうはまだまだ時間はあるのではないだろうか。死んでしまうなんて、それは誰かの作り話じゃないのだろうか。肺が痛いだなんて、気の迷いなんじゃないのかな、お母さん。

 いや、これが現実であることは十分にわかっている。だげど、僕のからだの中のどこかが、それを拒否し続けているのだ。


「調子が良い日に、墓参りがしたい」

 そう言う母を連れて、僕は妻も誘って近所にある墓まで、車で向かった。出かける前に、

「ちょっと、有馬温泉辺りに行ってみようか?」

 思いついて提案したが、母は自信なさげに答えた。

「それはやめとくわ、無理だと思う」

 ところが、墓まで行ってみたら、思いのほか馬力が湧いてきたようだ。

「有馬、やっぱり、行ってみようかなぁ?」

 このところ、ずーっと落ち込み続けている母が、行ってみようという気になってくれただけでもうれしかった。

 有馬温泉は車なら六甲山を越えてすぐ。神戸市内の実家からはとても近い。念のためにマップでチェックしてから、芦有道路を走ること一時間弱。あっという間に到着した。温泉ならではの硫黄の匂いと町並み。風呂屋なのか温泉旅館なのか、屋根の向こうに白い湯気が立ち上っている。

「せっかくの温泉なんだから、お風呂にも浸かってみる?」

さすがにそこまでの力はないという母。やめておくか。妻と二人で母を支えながら温泉街をゆっくりと歩く。炭酸せんべいばかりが場所をとっている土産物屋を冷やかし、彩りの綺麗な和菓子を並べた店先や美味しそうな揚がりたての天ぷらが並んだ露店を覗いて歩く。すると、その先に、露天の足湯場があった。路地に立ち上る湯気。無垢な木枠の中に揺蕩う透き通ったお湯に両足を浸して木枠に座る子供と母親、おばあちゃんと娘さん。足しか浸していないのに、顔まで蒸気したおばあちゃんが、顔にシアワセの文字を描いて笑っている。

「これはちょうどいいね」

 母の靴と靴下を脱がせ、空いているところに座らせる。

「おおー、これは気持ちええわ」

 子供みたいに顔をほころばせてお湯の中で足をじゃぶじゃぶ。母が揺らした湯面がさざ波となって半間ほど向こう側にいる子供の足に届く。それがまた跳ね返って母の足をくすぐる。

「気持ちいいねぇ、お嬢ちゃん」

 母は昔から誰とでもすぐに友達になれる人だ。こんな狭い空間で、しかも頬が緩んでしまうような足湯場でならなおさらだ。

「どこから来たん? そお、ずいぶん遠くから来たんやねえ。年末やもんなぁ。あらそう、ご家族で里帰り? そうですかぁ、いいわねぇ」

 とりとめもない話で知らない人同士がつながっていく。足湯で頬を上気させ、すっかり気分がよくなった母は、人知れず深刻な病を抱えた人間とはとても思えない。肺の痛みも消し飛んでしまったような表情で、お腹をさすりながら母が言った。

「お蕎麦でも食べようか」

 有馬行きは、ほんの三時間ほどの小旅行だったが、母にとっては思いのほかよい気分転換になった。医師が処方するどんな薬よりも、胸の内に沈んでしまっている生への喜びを暖めてほぐしてあげることが、闘病への原動力になるのだと、僕は思い知った。


5.緩和ケア病棟

 母が癌告知を受けてから二度目の年が明けた。そして、介護のために母と一緒に暮らすようになってから四ヶ月目に入っていた。兄邦生の一家も迎えて、再び華やいだ祝いの膳。去年までは母も一緒になって作っていたお節料理を、今回は妻と僕が奮闘して作った。

「今年もお正月が迎えられて、良かった」

 祝い膳の冒頭に声を詰まらせながら母の唇から言葉がこぼれた。口には出さなかったが皆が胸に抱えていた気持ち。本人だから口に出来た言葉は、膳を囲んだ子供や孫の祝い箸をかすめて涙腺を緩め、重箱の隅っこにこびり付いてしばらくは消えなかった。賑やかな三箇日は、あっという間にデジタルカメラの中に収まった。

 母は、いわゆる”介護”が必要なほど動けない訳ではない。むしろ、見た目には重篤な病人にはとても見えない。けれども夜になると痛みが緩やかに訪れるし、自分で料理でもしようものなら吐き気に襲われる。何より薬物による味覚障害がきつく、抗癌剤治療を中止して、楽しい食生活が戻ると期待していたのに、それが出来なくなってしまっている。食欲がまったく出ない日もあり、やる気とか生きる気力が完全に打ちのめされてしまう毎日だ。とりわけ患部の肺あたりと、腰の痛みが日々強くなって来て、在宅で癌と向き合うと腹を据えたはずの母もついに泣き言を言いはじめた。

「こんな痛みがあるくらいなら。こんな辛いのなら……なんで、こんな目にあわないかんの? 何も悪いことしてきてないのに。もう……生きていたくない……」

 何も言えない。何も言ってやれない。母の痛みが、苦しさが、自分のものとして実感出来ない以上、下手な慰めや励ましの言葉が出てこない。癌という悪魔に毒されてしまった母の身体を、僕はただ静かにさすったり、手を握ったりすることしか出来ない。

「そんなに苦しいのなら、母を刺して自分も死のうか?」

 ついにそんな考えも浮かんでくる。母の癌細胞が、空気を伝って僕の中に潜んでいる厭世観を目覚めさせる。僕の中に入り込んだ悪魔がささやく。

「お前の母親は、何のために闘っているのだ。闘っても無駄な相手なのに。それにお前自身だって母ひとり救うことも出来ずに何のために生きているのだ? 」


 松の内が明けて、関谷クリニックの薦めで実家近くの六甲病院緩和ケア病棟に検査入院することになった。家での医療にこだわる母は、最初は嫌がったのだが、日に日に強まる痛みや吐き気のことを考えれば、その原因がどこにあるのかを調べて痛みをなくす適切な方法を考えてもらった方がいい、という僕の意見をしぶしぶ受け入れた。

 緩和ケア病棟に申し入れた時点では、ベッド数に限りがあり入院は二ヶ月先まで待ってもらうしかないと言われたのだが、ケア病棟と縁の深い関谷クリニックに動いてもらうと大きく短縮することができた。四日後、僕は会社を休んで母を入院させた。

 緩和ケア病棟は六甲の高台にあり、南側の病室からは神戸の海が見晴らせた。あの赤い橋は六甲アイランド大橋、その辺りが魚崎だから、ああ、家はあの辺りだね、僕と母は窓外を覗いて眺めの良さを喜んだ。病院の北側には親倭学園の校舎が見える。この学校は、神戸出身の有名女優Fの出身校で、かつて母が通っていた女学校の跡地に建っている。

 女学生の母は、毎日こんなに急な坂道を歩いて登り下りしていたのだなあ。スケートリンクで誰かに足もとを引っ掛けられて転倒した母は、ほんとうはその時刻には、ここにあった女学校にいたはずだった。学校をさぼって、祖母に内緒でスケートを楽しんでいたという母は、どれほどのお転婆だったことだろう。、脳震盪で担ぎ込まれ病院から母親に連絡が入り、驚いて駆けつけた絹ばあさんは「働かざるもの、食うべからず!」という口癖をそのときも言ったのだろうか。それとも、学校をさぼったことよりも娘の身体を心配したのだろうか。脳震盪の娘は、やがて気がついて、まだ朦朧とした頭で買ったばかりの腕時計の心配をした。

「私の腕時計! 南京虫はどこ?」

 当時、文字盤が小さな女性用のお洒落な腕時計は「南京虫」と呼ばれていたそうだ。

 緩和ケア病棟には、患者同士がひとときを過ごせる談話室があり、機能性が優先される通常の病院とは随分違う雰囲気で満たされていた。アットホームという言葉が思い浮かべられるが、僕にはむしろ、老人介護施設に感じるのと同じ哀しみが伝わってくる病棟だった。緩和ケア病棟は、同時にターミナルケアのためのホスピスでもあったからだ。


 生き物は、いつか必ず死を迎える。それが生ある者の宿命。しかしその死が、突然やってくるのか、ゆっくりとやってくるのか。それによって人生の筋書きは大きく変わってしまう。多くの人間は長い年月をかけて老年を迎え、それから往生という名の自然死を迎えるはずだが、病気や事故は突然の死を投げてよこす。母の場合は、そのどちらとも言えない。

 父は、十三年前に腹部動脈破裂で逝った。母は最近、父と同じようにあっけなく逝きたいと言うようになった。穏やかで幸せな最後を迎えようと思っていたのに、受けてしまった余命宣告を冷静に受け止めているつもりなのだが、それでも、徐々に、ゆっくりと訪れる死に対して、不安と恐怖を感じている。毎日少しずつ死んで行くことに耐え兼ねて、早くなんとかなりたいと口にしてしまう。そしてなにより胸を突き刺す痛みに、息をする辛さに、恐怖を感じている。

 だがほんとうのところは僕自身も年月をかけてゆっくりと死に向かっている。そう意識することで、少しでも母の気持ちを知ることが出来るのかもしれないと思った。


 十二日間、緩和ケア病棟で過ごす間に、母の様子はめまぐるしく変った。もともと在宅医療にこだわっていた母をなだめすかして入院させたためか、入院初日から納得がいかないのだった。「なんで入院したんやろ?」と何度も口にした。母は、このとき初めて出会った、院長であり主治医でもある阿南医師に、正月にみんなで撮影した家族写真を見せて、「お正月もこうしてちゃんと祝えたのに」とこれはうれしそうに言った。

 それから数日間は、それまでと変わりなかったが、わずか数日でみるみる弱っていった。

「もう、早くラクになりたい」

 だだっ子のように言って、医師を困らせていた。味覚障害もますますひどい。病院食は、決して味付けが悪いわけではなかったのだが、まったく味がしないと言う。

「土を食べてるみたい……」

 ひと箸もつけない日が続いた。トイレのほかはベッドから起き上がろうとしないので、足腰がどんどん弱っていく。ほんの数日前、家ではまだ元気だったはずなのに、病院にいるだけでほんものの病人になっていくように見えた。

 一週間後、阿南医師から電話が入った。

「小杉さんは、体力がひどく弱っています。もしこのまま食事を摂らないようなら、もう長くは望めないかもしれません」

 僕は驚いて、どういうことかと聞き直した。

「こういうものは、患者さんご本人の生きる意志に負うところが大きいのです。本人さえしっかりしてくれたら、状況は随分変わると思うのですが」

 その翌日から、痛みを緩和する飲み薬の一部をやめて注射によるものに変えられた。飲み薬による副作用を避けて、より少ない量で効果を発揮させるためだと医師は言った。

 母の様子が心配になった僕は、休みをとって一日中母のそばについた。すると、思いのほか母の様子がよくなり、病室の引き出しにしまいこんでいた編み物を引っ張り出して、ベッドの上で二本の棒針を交差させはじめた。若い頃から編み物が得意だった母は、病床に就いてからもずっと編み物の手を動かし続けていたのだ。しかし、やたらと眠たいのには変わらないようで、僕が帰る頃には、もう眠ってしまっていた。注射による痛み緩和薬が効いているのだろう。

 病院が施す手当は間違いのない適切なものに違いないが、病院という場所そのものが人を病人にしてしまう。病院の看護が手厚ければ手厚いほど患者は看護に甘え、徹底した痛み止め処置は安楽と引き換えに生きる意思をも下げてしまうのではあるまいか。このままでは痛み緩和薬の虜となってしまうと感じた僕は、医師にもう長くは望めないとまで言われた母を家に連れて帰ることにした。

退院して家に帰ってきた母は、妙な事を言い出した。

「なんか別の私がいるみたい」

 それはどんな感じなの? と聞いても、よくわからないという。わからないでは困る。何が起きているのか知っておく必要があった。

「あんたたちが、あんたたちやないみたい……」

 病院で使っていた痛み緩和薬のひとつ、ケタラールという麻酔薬が、意識を混濁させる作用を引き起こすことがあると阿南医師から聞かされていたが、数日過ぎてなお作用するものだろうか? そういえば母は気管支鏡検査のとき、睡眠麻酔薬が効き過ぎて一時的に健忘になった経緯がある。あの時と同じような感じがした。もしかすると、麻酔系が効き過ぎる母にとって、モルヒネはきついのかもしれない。

 緩和薬によって痛みがなくなったいま、母は少し気持ちがハイになっているのか今度は、ずぅーっと長生きする気がすると言い出した。そして、一時的にでも、早く逝きたいと言った自分を恥じるし、罪悪感すら感じるとまで言い出した。

 いずれにしても、母の精神状態は普通ではない。僕を見るその目に力がなかった。まるで黒いふたつの穴が空いたような、あるいは森の中で外敵を恐れて身を潜めている小動物のような。退院後の母の目は、そんな感じだった。遠いところを眺める目でじぃーっと僕を見ていた。

 退院して五日が過ぎた頃、ようやく母の表情が戻った。ちゃんと、人間らしい意思のあるまなざし。哀しみではない、生きる力を纏った瞳。元気だった頃の母と同じ目。生命感を失ったときのあの目は、ほんとうに恐ろしかった。

 それから母の調子はす俄然よくなり、顔つきも足も、ずいぶんしっかりして以前の姿を取り戻した。階段の上り下りの練習がしたいと言い出したが、「焦らなくても、筋力が戻ったら、練習なんかしなくても歩けるよ!」僕は根拠もなくそう言った。

「何が病気かよくわからん」

 半年前とまるで同じ言葉までもが飛び出した。在宅医療の関谷医師が出してくれた皮膚に貼って使う痛み緩和のパッチ薬を、経口薬に代えて使うようになり、痛みも吐き気もほぼコントロール出来ている。

「これは長生きしそうやな……」

 今度は昂った調子ではなくまともな意識を持って、何度も口に出した。

 食欲も戻り、食べたいものをリクエストするまでになった。その日の夕食は「天婦羅が食べてみたい」と言う母の希望で、野菜のかきあげと、イモとナスの天婦羅。

 本日、快晴。

 母も、快調。

 こんな日があと、どのくらい続いてくれるのだろう。


6.セデーション

 編み物についてはプロに引けを取らない技術を持つ母は、病に伏せてからもいくつもの毛糸玉を組み合わせていろいろなものを編んだ。茜色、緋色、紺、浅葱、鈍色、亜麻色、鶯色、山吹、橙……紙袋の中には際限ないほどとりどりの毛糸玉を持っていて、編み上がったものを使う人のイメージに合わせて自在に色を選んだ。

 元気な頃には、セーターの類いはおろか、レース編みのマーガレットやカーディガン、ベッドカバー、テーラード風ジャケットや膝丈のロングコートまで編んでしまった。しかし、弱ってしまってからは大物にはとても手が出ず、それでも持て余す時間を過ごすためにベッドの上に毛糸玉と編み針を持ち込んで、小さな作品をいくつも編んた。それが、コサージュという形になった。母が作る毛糸のコサージュは花をモチーフにしたものだったが、アイデアと彩りに満ちていて、皆の目を楽しませた。薔薇の花、椿、桜ん坊、苺、その後ろ側に安全ピンを取り付けて、妻や義姉とその娘たちに贈られると、彼女たちは瞳を輝かせて喜んだ。


 昔看護師をしていた友人が言った。

「白衣には魔法の力があるのよ」

 へぇ~?

「たとえばね、その辺の道端で酔っ払いが吐いているのを始末するのは嫌だけど、白衣を着るとね、病人が吐いたものでも下から出したものでもなんでも、平気で処理出来るもの……」

「なるほど、白衣の魔法かぁ」

 実際には、白衣の力などではなく、生身の人間の気持ちのありようだと思うのだが、確かに白衣を着ると、その人の精神力や責任感が高まって、より一層の仕事をさせるのかもしれない。在宅医療で来てくれる看護師さんは、白衣というものを着ていない。だがそれに代わる「見えない白衣」のようなものを着ているのかもしれない。毎日、何軒もの病人宅を訪れ、昼夜を問わず鳴り響く携帯電話の悲鳴に答えて飛んで行く仕事は、病院に勤める看護師以上のストレスに満ちている。にも関わらず、彼女たちの表情は常に柔和で明るく、辛さを感じさせるそぶりはおくびにも出さない。

 白衣を着ていれば、母に対してもう少し優しく強くなれるのかもしれないな、と思った。


 その夜、僕の勘違いで、モルヒネ散を二十mgも多く飲んでしまった母は、翌朝までぐっすりとよく眠った。そのおかげで、深夜の時間がぽっかり空いた僕は、久しぶりにPCを立ち上げその中に保存してある写真を開いた。母が最初に入院した時の写真が入っていて、僕は懐かしい気持ちで眺めた。あの頃、癌になってしまってどうしようという不安がいっぱいで、一方では「こんなに元気なのにどこが病気なの?」と不思議がっていた、そんな母の元気な姿が罹病前と同じように映っている。しかし、今の母の姿はどうだ。それは病人そのもので、あの元気な姿とは、かけ離れてしまっている。

 常に上気した頬をピンクに染めて、子供に帰ってしまったような無垢な表情。その裏には、痛みや疲労感に耐えかねて苦しんでいる老人の顔がある。なんのために生きているのか路頭に迷っている癌患者の顔が隠れている。いろいろな顔が入り乱れて、毎日見ていると分からなかった表情の違いが、ほんの半年前の写真と見比べることによってはっきりと見えた。

 調子がいいかと思えば、すぐに痛みが襲う。モルヒネ散を飲めば効果を発揮して、しばらくは元気を取り戻す。しばらくするとまた痛みと息苦しさに取り付かれる。母の容態は、開ききって役割を終えた一輪挿しのように、日増しに確実に悪くなっていった。

 ある日、仕事を終えて帰宅すると、胸の痛みと呼吸の辛さに顔をしかめて言った。昼間一人でいると不安になる。不安を忘れるために眠ろうと思うが、今度は夜眠れるかどうかが心配になる。夜は夜で眠りに落ちるまでの間に、死ぬときはどんな風に死ぬんだろうと考えてしまう。ようやく朝になって目が覚めると、今度はその日一日をどのように過ごせばいいのかと、また不安になるという。「痛い、苦しい」と言っては、ベッドの上でしていた編み物をやめてソファに移る。移ったと思ったら間もなくベッドに戻る。

「ベッドの上で、じっと静かにしておいた方がいいよ」

「胸が痛くて、身の置き場がないねん。じっとしていられへん」

 母の、その痛みも苦しみも、やはり僕にはわからない。だから、どう返事してよいのかもわからない。痛みは薬で緩和出来るが、苦しみを緩和する薬はない。また母が言う。

「痛い」

「どうしたらいい?」

 聞いても返事がないので、黙ってモルヒネ散を飲ませる。トラマール水を飲ませる。ボルタレン座薬を入れてやる。パッチ薬を張り直す。今や一時間おきに。これらはすべて痛み緩和の薬物だ。ときには、薬を飲んだ直後なのにまだ痛いという。もうずっと薬を飲み続けているのに、それでもまだ消えない痛みに耐え続けなければならないなんて。

 これが自分自身のことだったら、即死してしまっている。母に、「どうしたらいい?」と聞かれても、薬を飲ませることと、母の身体をさする以外にはなにもできることはない。そう考えながら、僕は冷たい人間なのかしら? と自分を疑う。

 夕食は、ほんの数ヶ月前の母なら美味しい美味しいと喜んで食べてくれたはずの、干しほっけの焼きものと、里の芋煮っころがし。母の箸は一ミリも動かなかった。


(母の心の中)

 痛みが続く。薬を飲んでも起きていると、しばらくするとまた痛くなる。眠っていたい。でも、昼間は看護師さんやヘルパーさんが帰った後、一人でいる時間が長いから、不安で眠れない。

 食事どころか、薬も、水も飲み込みにくくなってきた。お腹は空いているのに、喉を通らないから欲しくない。水さえも喉を通らない。周りが心配するから言えなかったけれど、ほんとうは、痛くて苦しくて仕方ないの。身体は元気そうに見えるからわからないのだろうけれども、嘘だと思うかもしれないけれども、本当はとても辛い。ベッドの中で、智子の頭の中は、不安と苦しさが渦を巻いている。

「水もご飯も、喉を通らない」

 福山看護師に問うと、胸水が溜ってきている影響で、喉が圧迫されているのかもしれない。あるいは、胸の癌細胞が、喉のところにも何か悪い影響を与えているのかもわからない、と言った。病院にいた方が、楽だというのなら、痛みと苦しさがなんとかなるのなら、病院に入っていようか。在宅医療って、楽に死なせてくれる仕組みだと思っていた。こんなことなら、こんなことなら。ほんとうは、もう何度も皆に言っているように、ずーっと眠ったままで死なせて欲しいのに、誰も、そのようにしてくれない。

「そんなこと言うのなら、僕が一緒に死んであげる」

 久史はこんなことを言うだろうか。

「死にたいなんてことを言うのは、間違ってる。生きなきゃぁ!」

 きっと久史はこう言うだろう。そんなこと、わかっている。でも、痛みに耐えながら生きなければならないのはなぜ? 今の私にとっての、生きる喜びはいったい何? 私は、何のために生きているの?


「あんたらにはわからへん。」

 この痛みや苦しさは、自分にしかわからない、身体は健康やのに、喉には水さえ通らないし、胸が痛いし、苦しい……。

 母に言われて、僕には返す言葉もない。そりゃぁ、もちろんわからない。癌になったことがない人間には、癌の痛みも苦しさもわからない。でも、出来ることは何でもしているのに、そんなこと言われたら辛いやんか! 僕は心の中で叫ぶ。ほんとうにどのくらい痛いの? ほんとうはどのくらい苦しいの? ちょっと大げさに言っているんじゃないの? もう少し我慢出来ないの? 病気だから、少々の痛みや苦しみは我慢するしかないんだから! 疑ってしまう自分がいる。でも、本当に痛くて、苦しいんだよね。わかってあげられなくて、ごめんなさい。

 三月半ば、昼間はいつものように編み物を出来ていた母が、夕方になって「痛い」「苦しい」を連発しはじめた。どの薬を飲ませても、なかなか落ち着かなかった。やっと眠れたときには零時を回っていた。それから四時間ほど眠っていたが、 トイレに行きたいと目を覚ます。再びベッドで眠らせるが、朝方になってまた声がするので、僕は再び起き上がって母の部屋へ様子を見に行くと、母はベッドの上で膝を抱えるようにしてうつ伏せになって震えていた。

「都弥子が来てくれない、都弥子が来てくれない」

 譫言のように繰り返す。最初は気がおかしくなってしまったのがと思ったが、よく聞くと去年の十一月に膵臓癌で亡くなった実姉の都弥子さんにお迎えに来てもらいたいのに来てくれない、と言っているのだった。

「都弥子がもういないのは、わかっている」

 母は正気だけれども、あの世からのお迎えに来て欲しいと言っているのだ。

 四つ這いになった母の姿も異様だったが、赤く腫れ上がって別の生き物のようになっている顔面も異常だった。むくんで、ぴちぴちになった両頬の上に、腫れあがった瞼がぬいぐるみの人形の目みたいに貼り付いている。頓服と、精神安定剤のデパス、睡眠剤と座薬、そしてモルヒネ散。眠る前に飲ませた薬が多過ぎたのだろうか? 一通りを一回づつ規定量を飲ませたはずなのに。

 夜が明けても母の痛みは消えず、ぱんぱんに張った皮膚の下で小さくなった母が喘いでいた。僕は福山看護師に電話をかけて、再入院の相談をした。

 短い入院は二週間前にもさせたばかり。胸に溜まってきた水を抜く必要があったからだ。在宅医療は何もかもが自宅で完了出来るわけではない。病院と上手く連携することによって、よりよい緩和ケアを実現出来るのだと関谷医師に教えられている。今回も胸水を抜くことも治療のひとつになるだろうが、それよりもますます強くなる痛みの緩和が大きな目的だった。

 緩和ケア病棟に再入院した母が、勤務先にいる僕に電話をかけてきた。

「……あんた、近くにいてよ……」 

「え? どうした? 今、会社にいるよ、大阪だよ」

「遠い……すぐに来れるようにしといてもらわんと……」

 つまり、母はもうすっかり、逝く覚悟が出来ていて、あるいは、そのときのことが想像出来ていて、今すぐにでも死んでしまうつもりになっているのだ。

その夜、会社帰りに病院に行くと、最初の入院のときと同じように半分眠ったようなうつろな表情で起きていた。目を閉じたり半分開けていたり、陽だまりで眠っている猫のように静かにしている母の傍で、僕は母の手を握ったり背中をさすったり、生え変わった白髪の頭をなでたりしていると、ふいに涙がこぼれて止まらなくなった。少し前までは、母の前で泣いてはいけないと考えていたが、もう、母が見ていようがいまいが、僕は涙を隠すことをしなかった。

 担当の吉田看護師が、ちょっとお話しましょう、と僕を呼びにきた。ナースセンター横の個室に入ると、主治医の阿南医師が待っていた。

 今回は、母は家に帰れないかもしれない。いまの痛みの緩和は、もう、病院で行うしかないと思われる。それと、もう一ヶ月も持たないかもしれない。これからは、一週間ごとに様子を見ていく必要があるだろう。医師は僕の目を見た。

 その日の昼間、着替えなどを持って来ていた裕美に母は話をしたそうだ。「先生に、胸水を抜くことを断った。もう、延命処置もしてもらわない。痛みだけを緩和してもらって、このまま静かに眠りながら逝きたい。もう、私は覚悟を決めている」と。裕美は、涙をこぼしながら「そんな悲しいことを言うな」と咎めたところ、「私の心はもう決まっている。あんたこそ、しっかりしてもらわなければ」と逆に怒られたそうだ。

 半年前の夏過ぎに僕たちが宣告された母の余命は十二ヶ月だった。その期日までには、まだ五ヶ月も残っているはずだった。それなのに、急激な衰えを見せている母は、残りの道程を駆け足しているかのようだ。体の痛みの強さもさることながら、それに伴う精神の衰え。早く逝きたいと願う気持ち。痛みから早く母を解放させてあげたい。でも、最後まで痛みと闘って、少しでも長く生きていて欲しい。相反するふたつの気持ちが、僕の中で交錯する。


翌朝、東京の兄が夜行バスに乗ってやってきた。 母が待ちかねたように言った。

「邦生、銀行でお金を引き出してきて……」

 唐突に言う母に、どうして急にお金が必要なのかと問えば、私はもう今日のうちに安楽死をお願いする、そのためにお金がいるに違いないから、と答えた。安楽死など、病院は受けてくれない、兄がそう言って母をなだめた。

 夕方になって再び阿南医師に呼ばれた。兄がいる間に、僕の妻も交えて話すべきことがあるという。

「前回の入院では、処置をして早く家に帰ってもらうことを目標としましたが、今回は、とにかく痛みや苦しみを取ることを第一に考えましょう。それと、この二週間のお母さんの落ち込みようは急速だと思う。この様子だと、これからどうなっていくかは、今日明日の様子で決まってくるでしょう。それと……もうひとつ。痛みと息苦しさ緩和のために、皮下注射のほかに点滴による投薬も併用して、より強力な痛み緩和を行なっていきます」

 痛み緩和をより強くするとはつまり、眠った状態を保持する、ということだ。それは、限りなく死んだ状況に近づくということなのだ。

ところが、この日の母は、二日間ほど口にしなかった食事を一口、二口食べていた。兄と僕が一緒だと食べる気持ちが生まれるらしい。さらに、昨日までのような、うとうとした状態ではなくはっきりと覚醒した状態で昼間を過ごした。この様子だと、今日明日どころか、一週間は、まず異常なしなのではないかと僕には思えた。それでも阿南医師は、これからは一週単位で様子を見て行かなければならないと言った。

「食事を摂らない。眠る時間が増えている。ベッドに横たわったまま起き上がらない。生に対する執着が薄れている。この四つの要素すべてが、いまのお母さんの状態です。これらはすべて、死期に結びつくキーとなるものなのです」

 阿南医師は、母の胸のレントゲンやCTRのフィルムを僕たちに見せて、どんどん母を浸食していく癌細胞の様子を細かく説明した。目の前にある現実を改めて見せられて、僕の頭の中は真空管になった。鈍い青白いプラズマを放っていた真空管のワイヤーが千切れて、電子が行き場を失ってしまった真空管。そこにはただのガラクタと化した金属が途方に暮れていて、意味を失った真空の躯だけが残されていた。歪んだ蛍光灯は音を失い、目の前には音もなく口だけをぱくぱく開いている白衣の男が座っていた。

 気がつくと、僕たちは三人とも、鼻をじゅるじゅる鳴らせており、阿南医師も吉田看護師も、目を真っ赤に染めていた。

次の日の夜、兄は八時の夜行バスで東京へ帰って行った。

さらに翌日は日曜日だったが、僕は僕でどうしても東京に向かわなければならない仕事があり、朝から母の様子を見に病院に立ち寄った。前日、兄の顔を見て少し元気を取り戻したように思えた母だったが、またしても遠い世界を眺めていた。二時間ほど母の傍らで過ごしている間に、眠っているのかと思った母が突然口を開いた。

「あんた、私がいなくてもしっかりしいや。裕美さん、後は頼んだよ」

 まるでメロドラマの中の末期の台詞のようなことを言う。

「阿呆、それはまだまだ先に言うことや!」

 僕は、生きている母の手を握って、まだあのぬくもりに満ちていることを確認してから、病室を出た。

夕方からはじまった仕事先での打ち合せも作業のチェックも滞りなく片付けていったものの、僕はずっと阿南医師の言葉を頭の中で反芻し、内心は仕事どころではなかった。翌月曜日、東京駅発の新幹線に乗った僕は、本を開いていても耳にイヤフォンを差し込んでいても、何をしていても意味がなかった。同じことばかりを繰り返し繰り返し考えているのだった。

昨日、病院を出るとき、看護師は何かあれば電話しますと言った。何かあれば? 何があるというのか。そんなに急変することがありうるのか? 阿南医師は一週間単位でと言った。一週間単位とはどういうことか? 今じゃないということではないか。今日明日ではないということではないか。

 母は家で最期を迎えたがっている。だが、医師はもうそれは無理だと言った。それでいいのか? 母はそれでいいのか? そうではないだろう。母をなんとか家に連れ戻せないものか? たとえ一分一秒でも、母親の傍にいるべきではないのだろうか? 僕は、母の思いを遂げさせたい。ならどうする? どうしたらいい?

 東京の仕事はまだ終わっていない。それどころか、今が佳境だ。この先も、放り出せない。母も息子の仕事のことは気にしている。働き者だった母は、仕事の大切さを知っている。何しろ「働かざるもの、食うべからず」の家系なんだから。

新大阪駅に降り立った僕は、地下鉄に乗り換えるのももどかしく在宅医療の福山看護師に電話をした。この日の朝彼女が、母の様子を見に緩和ケア病棟に立ち寄ったと連絡を受けていたからだ。

「母をご覧になって、どう思いました? 家に連れて帰ることが出来るでしょうか?」

 福山看護師は、携帯電話の向こうでしばらく考えてから、難しいと思うと答えた。だが、僕はそのときすでに決めていた。ありがとうございますと伝えて切ったその携帯で、今度は会社に電話をかけた。

一時間後、僕は母の病室にいた。胸水を抜くためのチューブに縛られた母が虚ろな視線で天井を眺めていた。

「母さん、家に帰りたい?」

「うん……帰りたい」

 このことを阿南医師に告げると、しばらくしてから病室にやって来て訊ねた。

「では、今日すぐに帰って、様子を見ますか? それとも、明日の午後まで病院で様子を見てから退院しますか、どうします?」

 すると母は、いますぐ退院したいと言った。

「どうして、急に帰ろうと思ったんですか?」

「久史が休みを取ったっていうから……」

 こうして、医師の意見を中半押し切るようにして、僕は母を連れ帰った。

 自分のベッドに戻った母は、一気に生気を取り戻した。福山看護師と関谷院長が来て、僕が緩和ケア病棟から持ち帰った器具や薬を確認して、これから再開する在宅医療に備えた。

 母は、もう二度と病院には戻らないという。今夜、そして明日の午後まで、ひどい痛みや苦痛なく過ごすことが出来たなら、母の希望通りに出来るだろう。

 三月の終わり、僕は長期休暇届けを会社に提出し、この日からが僕と母の最後の在宅医療生活のはじまりとなった。緩和ケア病棟で使いはじめた皮下注射のボックスが、これからの在宅医療に於ける痛み緩和の中心となる。母の柔らかく白い腕の肉に点滴用の針が常時刺しこまれ、皮膚一枚下を流れる蒼い静脈へ常に微量のモルヒネが注ぎ込まれる。母が痛みを訴えると、ボックス横にあるレスキュー釦を僕が押し込む。すると一定量のモルヒネが皮下にある血の川に流れ込んで、痛み緩和が増強される。本来は医師か看護師が操作をするべきの皮下注射ボックスが僕に委ねられ、母の痛み緩和のすべてが僕の責任になった。母は入院前まではトイレへも自力で歩いていけたのだが、退院後はそれが難しくなり、絹ばあさんのときに使用していたポータブルトイレがベッドの傍らに据えられた。

 在宅医療を再開した母は初日、一晩中静かに眠り続けるばかりで、痛みも苦しみもやって来なかった。翌朝、九時を過ぎても起きない。死んでいるのかと心配になるほどぐっすり眠っていた。皮下注射の痛み止めが、充分に効いているということだ。だが、この新たな痛み止め処置のほんとうの意味を、このとき僕はよく把握していなかったのかもしれない。

 痛み緩和医療とは、痛みの原因を取り除くということではなく、痛みを感じさせなくするという医療だ。つまり、医療用麻薬や麻酔薬によって患者の意識レベルをぐっと引き下げ、眠った状態にし続ける。患者は痛みを感じなくなるが、同時に本人の意識もひどく曖昧になる。

 このような処置はセデーションと呼ばれ、最末期には、このセデーションによって患者の意識レベルを大きく下げて完全に眠ったままにさせるという。まさに眠るように死なせるわけだ。

 このときの母はまだ、眠ったままとまではなっておらず、時々起きては話も出来るが、全体的に意識は低くぼぉーっとしている。この状態を、ライト・セデーションあるいは、マイルド・セデーションというのだそうだ。

 僕はセデーションの説明を受けていながらも、母はまたしばらく眠ると起き出して来て、ソファに座ったり編み物でもはじめるのではないかと思っていた。だがもう、母は最後までこのままベッドから起き上がることもなく、次第にセデーションの度合いが強められ、母の意識はどんどん薄らいで死に近づいていく。そういうことの次第をはっきりと認識出来たのは、もう少し後のことだった。

 母のベッドはまだ母の寝室にあり退院後もそこに寝かせていたのだが、完全に寝たきりになってしまうこれからは普通のベッドでは床擦れが生じる可能性が高いので、あらかじめリビングに借り入れていた介護用ベッドに母を寝かせることになった。もはや足腰が立たなくなった母を、ひと部屋分移動させるなければならない。僕が前から抱きつくように抱えて、看護師と裕美に横からサポートしてもらった。脇に腕を入れて母の体重を支え、僕は後ろ向きに、母は前向きに少しずつ移動する。部屋から部屋へ、健康ならばほんの十数歩なのだが、僕たちは「ワンツー、ワンツー」と声を出してゆっくりとしたリズムを刻みながら移動した。ようやくリビングの介護用ベッドに到着したとき、母が穏やかな、だがなんだか楽しそうな口調で言った。

「なんや……ダンスみたいやなぁ……」

 ほんまに、ダンスみたい。思いがけない母の言葉に、関谷医師も福山看護師も裕美も、皆が頬を緩めた。そして母と僕とのダンスショーと共に、暦は四月に変わった。


 7.アガナル・レスピレーション

 母は花が好きだった。若い頃に生け花をしていたということも手伝って、自分の店にはいつも何らかの花を飾っていた。とりわけ薔薇の花が好きで、僕は母の日になるといつも、カーネーションではなく赤い薔薇を贈っていた。春になると様々な花が僕たちの目を楽しませる。母も、二坪ほどの裏庭に沢山の植木鉢を並べ、ささやかな花壇にも花の種を蒔いていた。植木鉢の双葉が顔を出し、みるみる成長して蕾をつけると、それらを店先に並べた。

 毎朝、母が目覚めると蒸しタオルで顔を拭き、歯を磨かせ、排尿させる。何が食べたいかと尋ねて、たいていはスープかおかゆを口に入れてやる。四月上旬頃の母はまだ、ぼんやりとした意識のままで一口、二口と飲み込んでくれた。朝食のあとは、ほとんど眠っているが、お昼をはさんで夕食までに、何度か目を覚ます。その度に両手を前に差し上げて、「起こして」と言うので、電動式のベッドの背をグーッと起こす。上半身が起き上がると母は、何をするでもなく、じぃーっと前を見ている。そのうちに「痛い」と言い、またベッドの背を降ろすと、すぐにまた眠りはじめる。

 ある朝、目を覚ました母が前方の壁をぼんやり眺めながら、「桜やなぁ」と言った。

「桜、咲くの、見れるやろうか」

 外の様子が見えなくても、花が大好きな母には、もうすぐ桜の時期であることがわかっていたのだ。

「もちろんや。桜、咲いたら、公園に見に行こうな。石屋川のところに奇麗な桜が咲くからな」

 そう答えながら、今年の桜は、いったいいつ咲いてくれるのかしらと、僕は心配になった。母は、目をつぶって「眠い、横にして」と言った。

 夜九時半頃、目覚めた母のために起き上がらせると、「ああ、息が切れる」とゼーゼーしながら言った。再び横になって少し落ち着くと、ぼそり。

「なんでこうなったん?」

「病気でしょ?」

「それはわかってる」

「痛みを止めるためにお薬を入れてるからだよ」

「そう……」

 短い会話。元気なときと変わらないほどの明瞭さを帯びたやり取り。母はちゃんと生きている。ちゃんと生きて、自分が置かれている状態が不思議に思えるほどしっかりした意識が、痛み緩和薬で鈍く重たくなった身体の中で抗っている。はっきりした魂が、ぼんやりしてる自分を見つめて不思議に思っている。病床の自分の姿を眺めている母が、ベッドの向こうにもう一人いた。


「おしっこ」

 もう、母はベッド横のポータブルトイレにさえ移動することが出来なくなった。母が絹ばあさんの世話をしていたときと同じように、今度は僕が尿瓶で受け止める。僕が生まれ出たふるさとを露わにしてガラスの器を充てる。母がお腹の中に溜め込んだ苦しさや情けなさ、哀しみや絶望を排出し、それを僕が受け止める。母の中で生まれたぬくもりが僕の手の中に移る。

「あんた、なんでこんなにようしてくれるの?」

「なんでって……お母さんやからやんか……」

「そうか……私は……幸せものやな」

 はっきりした現実と、ぼんやりした夢幻を行ったり来たりしている母は、次に目覚めたときには、両手を頭の上に突き出して、「誰かぁ……」と呼ぶ。側にいるよと言うと、「上に……」起こすのかと思うと、どうやらそうではなくて、「違う、上に行くの」上にいくとはどういうことなのかわからない。何を求めているのか分からないので、起きたいの? 枕が低いの? などと尋ねるが、朦朧とした母の口からは何も出てこない。本人自身もしばらく目を白黒させながら自問自答してから、「わからんようになった……」と言ってまた目を閉じる。

 床擦れをふせぐために母の体位を変え、ボルタレン座薬を入れ、吸い飲みで口に水を含ませ、また床擦れがないか調べる。半覚醒状態の母の傍を長い時間だけが過ぎていく。

 眠っている時の母の顔は、血色もよく、なんら元気な時分と変わりないような気がするのに、目を覚ますと、遠いところを見つめながら、「なんでこうなったんやろ?」「あぁ~背中が痛い!」「起きたい」「口のなかが乾く」たった四つの言葉だけを思い出したように繰り返す。何か話しかけると、随分間を置いてから、ようやくまともな言葉が帰ってくる。意識の正常さと、あらぬ目つきの異常さが、むしろ悲しみを連れてくる。

「お母さん、ぎゅっとしていい?」

「いいよ……」

 僕はもはや照れることもなく母の横に添い寝して、母を軽く抱きしめる。母は目をつぶっておとなしく黙っている。しばらくすると鬱陶しくなったのか、「ちょっと……」と、何か言いたそうにする。僕は子供にするように母の背中をとんとん、とんとん指先で軽く叩く。すると母が急に昔を思い出して歌いはじめた。

「ねんねんよ~、おころりよ~」

 しっかりした声で、歌い慣れた母親の揺るぎない音程で歌う。とんとんと調子をとられている母自身が子供に戻っているのか、夢の中で母は子供を寝かしつけようとしているのか。現と夢、過去と現在の狭間で、母が歌っている。

「お母さん、僕はお母さんの子供でよかったよ」

「そう……ありがとう」

 四月の一週目、母はまだ少しだけ食事が出来た。いつか美味しいと喜んだブリカマの塩焼き、僕に作り方を教えてくれた手作りハッシュドビーフ、僕が唯一得意とするかぼちゃ煮、妻が工夫を凝らした数々の小鉢、どれも美味しいと言って、ひと口だけ食べた。味覚障害が治まってきた様子の母に、もっと美味しいものを食べてもらいたいと思った。だが、次第に水さえ喉に引っかかると言って、翌週にはひと口も食べなくなった。

 母の手足は暗紫色に変化しつつあり、苦しげにしかし力なくゴホゴホいうのは、喉の辺りの筋肉が弱っているから。お尻の締まりもだんだんと力が衰えている。在宅医療の帰り際に、福山看護師が言った。

「そろそろそのときが近づいているのかもしれません」

 しかし、母の命はなかなか忍耐強かった。ほとんど食べていないのに、どうやって生きているのだろう。水が飲めなくなってからは、氷を欲しがった。氷の冷たさと、少しずつ喉に入っていく感じが母には好ましかったのだ。

「起きている?」「……」

「気分はどう?」「……うん……」

「はっきりしてる?」「……はっきりしてる」

「編み物したい?」「……出来ません……」

「どうして出来ないの?」「……はっきりしないから……」

 なんだか禅問答みたいなやりとり。母の、あのしっかりした言葉を、もう一度聞きたい。

 起きあがりたいという。

 上に上がりたいという。

 まっすぐしたいという。

 背中が痛いという。

 胸が痛いという。

 立ち上がりたいという思いが、起き上がりたいという言葉になる。ベッドからずり下がっているような気がして、頭の位置を上げて欲しいという。身体が歪んでいるような気がして、まっすぐにしてという。こうやって、こんな風に、こう、こう。横になったまま、盲人のように両手を宙に突き上げて、説明しようとする。

 もはやベッドの上だけが自分の世界。この狭い自分だけの世界を、まだなんとかしたいともがいている。生きたいのか、逝きたいのか。いや、そうではない。あのとき死にたいと言った母はいま、痛みから解放されて、生きていく気持ちになっている。母は前向きな生き方を貫いてきた昭和の女なのだ。

「業やなぁ」

 突然正気に戻った母が言った。

「ソネさんを最後まで看れなんだ」

 二人の年寄りの世話をしていたときのことなのか。後で母の日記を見つけてわかったことだが、若かったあの頃、母は相当な葛藤と闘っていた。実母の絹ばあさんと義理母のソネばあさん、両方の世話をしたい、しなければと思う反面、なぜこんな辛いことをしているのか。なぜソネさんは思うようにしてくれないの。そう思う自分自身とも闘っていた。このときのことを業だと言ったのかどうか、いまはもう確かめようもない。

 東京の義姉が送って来た桜の枝がテーブルの上の花瓶に生けられている。しかしその花びらも一枚、また一枚とテーブルの上を汚しはじめ、いまやほとんど枝だけになってしまっていた。

 母はついに水すら飲まなくなった。何日も、何日も、水も食事も口に入れないまま横たわっていた。十日間。こんなに長い日数を、水も栄養もなしで大丈夫なんでしょうか? と尋ねる僕に、看護師も医師も黙って頷いた。

 母はときどき目を覚ましては譫言を言ったり、痛い、痛いと何度もつぶやいたり。皮下注射の医療麻薬も効かなくなってきている。どうしても痛みが消えなくなったときに、在宅医療の関谷医師がワゴヴィタールという新たな座薬を処方した。それが四月の二週目。

 ワゴヴィタール座薬は、長時間作用する睡眠剤。これを身体の中に入れると、ほぼ完全に眠ったままになる。ソフトとかライトではない、ターミナル措置としての最後のセデーション。痛みに苦しむくらいなら、安らかに眠って逝きたい、という母の願いがようやく叶うときが来たのだ。

 ワゴヴィタール座薬を使うと、母はほんとうに目を覚まさなくなった。声をかけるとうっすらと目を開こうとするが、すぐに眠りに入っていく。肉体だけが生きたままこの世に取り残され、精神は違うところで羽を休めている、完全なる夢の境地。これで母の痛みは完全に断ち切れて、最後の安楽を味わっている。だが、ワゴヴィタールを母の身体に入れ続ける僕の気持ちが乱れ始めた。母を生きたまま、死なせている。母を殺しているのは僕自身だと気がついたのだ。

 生身の身体に話しかけても、何も帰ってこない。耳は聞こえていると看護師は言うが、話しかけてもまったく反応がないほど深い眠り。眠り姫になった母。もっと母の声が聞きたい。まだ話し足りない。先週まではまだ少しくらいは会話が出来ていたのに。ほんとうにこれが母の希望なのか? 母をこのまま殺してしまっていいのか。痛くても目覚めていれば人間でいられるのに。母は、横たわって息をするだけの人形でいたいのか? 

 一週間後、母をこんな姿にしているのは、ほかならぬ、ワゴヴィタール座薬を母に入れ続けている僕自身であることに遂に耐えられなくなって、関谷医師に伝えた。

「もうワゴヴィタールを止めようと思う」

 医師は縦に首を振った。だが、医師にはわかっていたのだ。すでにワゴヴィタールは必要なくなっていると。

 ワゴヴィタール座薬を止めてからも、母は相変わらず眠り続け、もう二度と目を覚ますことはなかった。すでに、身体の中でモルヒネのようなものが自己生成されていて、自然に眠り続けるようになっているのだと医師が言った。しかし僕は、睡眠剤の効果が消えて突然母が目を覚まし、「ひさちゃん」と言ってくれるのを待っていた。


 ワゴヴィタール座薬を止めた四日後の午後になって、母の呼吸が変化した。

「は……はっ……は…」

下顎が軽く動いて、不規則に浅く呼吸している。ぱくぱく口が動いて、子供がしゃくりあげるような不連続な呼吸。

下顎(かがく)呼吸(こきゅう)が始まりました」

福山看護師が言った。

 下顎呼吸とは、死戦期呼吸アガナル・レスピレイションとも、あえぎ呼吸ガスピングともいわれる呼吸で、生物が死にゆくときに、胸の中に空気を取り込もうとして、身体が自動的に動く。横たわった身体に空気を入れるために下顎が動き、スポイドの要領で空気を口から吸い込ませるのだ。ほとんどの場合、下顎呼吸をしている人間の意識はなく、傍で見ている人が感じるような苦しさはないという。

「は……はっ……は……」

 母の下顎呼吸は小一時間ほど続いた。僕は、これは冗談か何かだろうと思ったこんなおかしな呼吸を、母がするはずがない。

「ダンスみたいやなぁ」

 そう言ったときと同じように、もうすぐ目を開いて

「笑ろてるみたいやなぁ」

 そんなことを言うに決まってる。

「はっ……は……は……」

「は……はっ……は……」

「はっ…………」

 僕たちが見守る中で、母の下顎に吸い込まれた呼吸はついに戻らなかった。

僕と母が過ごした濃密な時間に、終止符が打たれた。


                                     了

はじめて書いた百枚以上の小説っぽい文章です。

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