雪の街で
至らない箇所もあると思いますが、よろしければお付き合いください。
雪は、あの日からやまない。
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朝が訪れて、今日がまたやってくる。
目を覚ます度に絶望して、寒さに震えた。
また、冬がやってくる。
足をついた床はひんやりとしていて、ガラスを踏んでいるように足の裏が痛んだ。
窓には靄がかかっていていた。まだ完全に夜が明けていない外では、雪が降っているのだと思った。
寒い日が続いている。外に出たくないな、なんて憂鬱を抱えて、それでも震える体を叱咤して家を出る。
寒さのせいか、何をする気も起こらない。興味も、執着もわかない。
自分の名前すら、忘れてしまいそうになる。
何も感じない。この寒さだけが、呼吸をしているという実感を与えていた。
だから、このまま呼吸が止まってしまえばいいと思った。
眠りにつく瞬間、あのしあわせな瞬間をこの身に感じたまま、もう二度と目覚めなければいい。
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夜が訪れて、今日がやっと終わる。
目を閉じて息をつくと、寒いからか、眠気はすぐにやってくる。
その度に、ほっとした。
それから、このまま、自分に朝などやって来なければいいと思った。
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いつも、夢を見ていた。
いつからか毎夜見ている夢が、どのようなものなのかはまったく覚えていない。
目覚めたとき、ただただぬくもりと寂しさが残っているだけ。
ぬくもりと共に残る、形容しがたい虚無の正体を、僕は知らない。
夢は、名前を呼ばれることで始まり、朝が近づくと唐突に終わる。
夢を見る度、自分の名前を思い出す。
名前を呼んで手を伸ばした華奢な背中は、だれのものだっただろうか。
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目が覚めて、寒さに震えた。そして訪れる、絶望と虚無。
曇った窓の向こうでは、今日も雪が降っているに違いない。
昔から、雪が好きだった。それは今も、これからも変わらない。
四季はめぐりながら、雪はずっとこの街に在った。僕は、雪と共に生きてきたのだ。なくてはならないものだから。
ならどうして、僕はこんなにも寂しいのだろう。空っぽなのだろう。
外では雪が降っているはずだ。それで満足だろ?自分に問いかけた。
ドアを開ける。家を出て、捜しに行かなければ。
ああ、やはり、雪が降っている。
空を仰いで、何かを掴もうと伸ばした手は空を掴んだ。手のひらに降りた雪は姿を消し、それを胸に導いてそっと目を閉じる。この胸の痛みを誤魔化すように。
雪が、僕に降り積もって包み込んでくれればいい。この心を、満たしてくれればいい。
涙も体も、凍らせてくれればいい。眠らせてくれればいい。
そうして僕を、夢へ連れて行ってくれればいい。
再び空を見上げると、青いはずの空は雲に覆われて見えなかった。
ふと、考えた。
名前は、なんだったかな。
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目を閉じて 、小さく息をついた。
寒さを感じるのに、何故か今日は眠気がまったく訪れない。落ち着かなくて、瞬きを繰り返す。
その間も、外でも頭の中でも瞼の裏でさえ、雪は絶え間なく降り積もって、溶けることはない。
早く、溶かさなければ。あの、あたたかさで。
だんだんと焦りを覚えて、何かを掴もうと手が宙をかいた。
そして、何かが足りないことに気づく。
それが何かはわからない。けれど、頭に靄がかかったように、見えそうで見えない。気持ち悪くて苛立つ。
何か、とても大切なものだったような気がするんだ―。
何かが頬を伝って、訪れた眠気に目を閉じた。
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優しい声を、聞いた気がする。
つい最近も確かに感じたぬくもりを、夢の中で捜している。
ああ、あたたかいな。
これは、だれのぬくもりだったっけ。
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夢から覚めて、違和感を覚えた。
頬に残る涙の跡に対してではない。
目覚めたのは床の上で、どうやらベッドから落ちたらしい。
上体を起こして、見慣れた部屋を見回す。違和感が拭えない。
枕がふたつ、椅子もふたつ、食器もふたつ。自分だけの空間ではない、まるで誰かとふたりで暮らしていたような、そんな空気。
仲良く並んだお揃いのマグカップ。だれと選んだんだっけ。
家の中を歩き回りながら、“ふたり”を捜す。
見つかったその場所に、ぬくもりがあるから。
そして、あちらこちらに確かに残るぬくもりに、たまらなくなってくずおれた。
また流れ始める涙に、終わりなどないことを知る。ならば。
終わりなどないというのなら。
「どうして―」
どうして、居なくなってしまったのだろう。
どうして、僕に終わりは訪れないのだろう。
目を、閉じた。雪が、おだやかに降っていた。
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夜が訪れる度にほっとして、朝が訪れる度に絶望した。
冬が来る度に凍えて、雪が降る度に雪を捜しに家を出た。
ああ、思い出した。
足りないものは、ここにあって、ここにはなかった。
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笑っていた、気がした。
あの優しい声で名前を呼んで、僕に微笑んだ。
本当にどこかへいってしまうのだと、気づいた。気づいてしまった。
本当は引き止めたい。繋いだ手を離したくない。
けれど、それはできない。彼女はもう、儚くなってしまったから。
だからせめて、と僕は、彼女を想って、彼女のために笑ってみた。
夢の中に降り積もった雪が、どんどん姿を消していく。
彼女が切なげに、しかし嬉しそうに笑った。そんな彼女が、本当に綺麗だと、愛おしいと思った。
彼女が消えてしまうその瞬間まで、僕は目に、脳に、心に、彼女を焼きつける。
追いかけるように伸ばした僕の手に、彼女がそっと触れる。その手を自らの頬にあてて、やがて涙を流した。
消えてしまう前にと、僕は彼女の瞼に手をやり、僕を見つめるその空色の瞳を閉ざした。
それが合図だったかのように、彼女はどこかへ行ってしまった。僕はその場にくずおれて泣き叫んだ。
彼女の名前を、何度も何度も呼んだ。
嬉しそうに笑った彼女が、本当に綺麗だと思った。
本当に本当に、愛おしいとおもった。
あたたかい雪が降り始めた。僕に降り積もることなく、触れる前に消えてしまう。直接触れることはできない、あたたかな雪。
彼女のようだと、おもった。嬉しかった。
だから僕は、知らず知らずのうちに笑っていた。涙は相変わらず、かれることを知らなかったけれど。僕に終わりが訪れて、彼女と歩むことはできないけれど。
それでも、僕は確かに、しあわせだった。
僕は、彼女への想いといっしょに生きていく。
雪も、いっしょに。
あたたかい夢から、覚める。
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外では、今日も雪が降っている。
けれどもう、寒くはない。
そろそろ、冬が明けるようだ。
ふと、掌を包むぬくもりに気づく。
僕は微笑んで、それをできるだけ優しく握り返す。
眠りが浅くなっていたらしく、飛び起きた彼女の驚いた顔は、すぐに泣き出しそうな表情に変わる。
そして、僕の大好きな笑顔で。
「…おかえりなさい」
「…ただいま。―雪」
お互いの存在を確かめあった僕らは、それだけでしあわせで、笑いあった。
やがて泣き出した彼女を、僕はゆっくりと抱き寄せた。
このしあわせをかみしめて、僕らは約束する。
四季はめぐりながら、いつも雪が降るこの街で。
ずっとずっと、いつまでも。僕は雪と、雪は僕と。
ふたりで、生きていく。
「…もうすぐ、冬が明けます」
「…君が居てくれるから、寒くないよ」
僕らは微笑む。左手の薬指の証が、銀色に光った。
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寒くなったら、あたたかいココアでも飲もう。
ふたり寄り添って、透明な窓の向こうの真っ白な景色を眺めながら。
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今日も、この街の雪はやまない。
まだまだ至らないところが多々ありますでしょうが、ここまで目を通していただき、ありがとうございました。