堕ちた剣に花束を リチャと黒い猫
はるか昔に失われし「ギ・ガルガ」。
かつて「ギ・ガルガ」が在った場所には煤けた剣が一振り、地面に対して垂直に刺さっている。
今尚ごうごうと瘴気を放ち、辺り一面はその爛れた空気を好む魔物の住処となっている。
煤けた剣の前に白皙の美貌と満月の色をした双眸を持つ男、いや、魔族が一人で佇んでいる。俯いた顔には高い鼻や厚過ぎず薄すぎずな唇、魔族らしく吊り上っている両眼は見事なアーモンドの形をしているのだが、それらが全てが整いすぎており、配置さえも美しい。姿を目にした者に対して人外の美が逆に「人ならざる者」との認識を与えるのだ。
半分伏せた金色の両眼は冷たく剣を見つめている。真っ直ぐに背中へ流れる髪と身体を包む長衣は同じ色をしていた。闇より暗い漆黒である。しかし、よく見るとだらりと垂れた左手には彼には似つかわしくない、だがある意味とても相応しい深紅の花束が収まっていた。
黒い中に血溜まりの赤は、瘴気が濃い空気の中で鮮やかな対比を描いていた。ここいらに住む魔族達は、自分など足元にも及ばない位の高い魔族の男を遠巻きに見ることしか出来なかった。何をもって相手が不愉快と思うかという事に、予想がつかないからだ。
この男が爪の先ほどでも気に障ったと思えば、次の瞬間に対象となった己の存在が消滅してしまう。絶対的な力の差がそこにあるのだ。消される立場の者達の恐れ、戦慄、敬いなどといった様々な感情は視線となって男へと向けられた。
男が腕を持ち上げ手を広げて深紅の花束を手放す。剣が刺さっている根元へ落ちた花束からしゅうしゅうと音がし出した。
「いつまで持つか。」
断末魔の叫びを上げる花束が、いつまでその姿の美しい姿でいられるのかとふと思い口にする。無感情の視線は花へ向けられたままだ。
ヴェルヴェットの様な艶と聴き心地のよい声が瘴気の音に混ざる事無く響く。
金色の眼球は花束から剣へと向けられる。
「ふん、たかが剣が身に余る魔力を取り込んだからこのザマだ。」
嘲笑を滲ませた声さえも聴く者に恍惚を与えるのか。
嘲笑われた一振りの剣は、相変わらず悪しき気を撒き散らす。
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ギ・ガルガはかつて存在した小さな国の一地方を指す。
その場所からは、真銀=ミスリルと呼ばれる鉱物が採れたので、いつしか武器や鎧などの類を打つ職人達が住み着くようになる。彼等は「ギ・ガルガ」即ち「匠の技」と呼ばれ、やがてギ・ガルガは彼等が住む一帯の地名となった。
ギ・ガルガは自治領である。属する国より完全なる自治を認められていた。
気難しい職人達を国で治めるよりも任せた方が楽だというのと、そうする事によって効率的に国に利益がもたらされるからだ。
おまけに彼等職人達には独自の決まりごとがあり、例え国からの命令であっても職人達はそれを反故にされるのを非常に嫌がったという背景もある。
遠い遠い昔、ギ・ガルガ一の職人がいた。
彼はミスリルを用いて破魔の剣を打つ事が出来る、稀有な職人であった。
魔族の命を奪う武器であるにも関わらず、その剣の美しさに惹かれた魔族の女が、製作した人物に興味を持った。
漆黒の髪と深紅の両眼をした美貌の魔族。無精ひげが精悍な顔半分を隠す人間。
魔族の女と人間の男は、やがて愛し合う。
だが、男が生活基盤を置くギ・ガルガは当然の事ながらそれを認めない。しかし、男の職人としての腕は手放したくない。
二人はギ・ガルガの外れに住み、今までどおりに仕事をするという事で折り合いをつけた。
月日が流れ、小さな国は隣国から戦を仕掛けられる。相手の目的はミスリルの鉱山とそれを加工する事の出来る職人達。
いざ戦いとなれば職人達は自ら打った武器を持ち、職人集団は戦闘集団となる。
激しい戦いの末、小国は隣国に呑み込まれる。ギ・ガルガの抵抗は最後まで苛烈であり、戦が終わった時には殆ど壊滅していた。
戦いに赴いていた職人は、利き腕を失って女の元へと帰ってきた。
女の献身的な介護も虚しく、暫く後に死んでしまう。
残された女は、職人と出会う切欠となった破魔の剣に自らの命を奪わせた。
魔族の女はかなり位の高い者であったので、破魔の剣でさえ、魔力の全てを一旦取り込む事しか出来なかった。
剣は取り込み奪った魔力以外の部分、すなわち余分な魔力を少しずつ放出し始めた。
空気と魔力が融合して瘴気となる。
瘴気がギ・ガルガを覆い、鉱山と共に人の入り込めない「失われたギ・ガルガ」となった。
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「姉上と同じ深紅、か。」
人間如きが姉を奪った、人間如きに心を奪われた姉。
姉の行動は、男にとって赦されざるものである。だから何もせずに放っておいた。
そうして姉は自ら命を絶った。
姉の眠るこの場所に足を向けるのに、どのくらいの時間が必要だったのか。
それは男しか知らないのであろうが。
「無様だな、破魔の剣が魔力を屠れぬとは。」
一振りの剣に対して、侮蔑を隠さず男は言い放つ。
男が愛した姉が入れ込んだ煤けた剣は、瘴気を垂れ流すのみ。
左手で髪をかき上げながら、見たものがぞっとするような冷たい微笑みを浮かべる男は、白い右手を剣へと伸ばした。
瘴気が白い手の周りで円を描く。円は徐々に大きく、そして密度が濃くなって行った。
男の手は拳をゆっくり握る、円を描いていた瘴気が白い手に吸い込まれてゆく。
口端が吊り上り、咽が動く。
くくっと嗤い声を発しながら、掌を広げる。
手より這い出た瘴気が破魔の剣を覆い、刀身を覆っていた煤と共に地面へ堕ちた。
ミスリルの輝きと共に刀身が現われる。一際眩しい真銀の光を放った後に、刀身は漆黒の闇となった。
破魔の剣は、魔剣と成り果てた。
今度は、刀身から地面に落ちた煤が音を立てて瘴気を出し始める。
さして感慨もなくそれを見ていた男は、くるりと背をむけ今いた場所から離れようと一歩を踏み出す。それと同時に地面に垂直に刺さっていた破魔の剣(今や魔剣である)が、追従するかの様に真っ直ぐ上へ浮上した。
剥き出しの漆黒の刀身は緩やかにカーヴを描き、珍しい片刃である。柄の部分は緻密な紋様が覆うが、それは人の手に添う形で彫金されていた。
魔剣は男の背後を漂う。
歩く事を止めずに男は口を開いた。
「跡形も無く消し去りたかったが、姉上の魔力だ。」
――――だから見逃してやる。
言葉を飲み込むと同時に、不機嫌そうに眉を寄せる。
暫く後、歩きながら口を開く。
「堕ちたモノを手元に置くのも一興か。」
ふん、と鼻を鳴らすと前を見たまま足も止めず、だが口角を上げながら声を出した。
「炎華。」
嘗ての銘を失い、魔剣の名を持ってしまった剣。
喪失を抱く一人と一振りは何処へと去っていった。
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月日は流れ、男は「沈黙の森」で懐かしい気配を感じた。
その気配は人間の血に混ざってしまって、ごくごく僅かであったのだが確かに男の姉の魔力の欠片を感じた。
確かめようと黒い猫に変化してそっと近付く。
くすんだ茶色の髪と緑の目をした人間の女が口を開いた。
「珍しいね、この森に猫なんて。」
予想が確信となり、男の深い場所の感情がざわりと波立つ。
失われたギ・ガルガの末裔。いや、この場合魔族と人間との間に産まれた者の末というのが正しい。
別の表情が見たくなり、試しに「にゃあ」と鳴いたら、小さな花が綻ぶように笑った。
人間の女に近寄り、身体に触れる事を許可した。そして直に手から気配を魔力を探る。
間違い無かった。
女が立ち去るまでその姿を見た。いや、眼が離せなかったと言うべきか。
血眼になって探していた訳では無い。失われたものは戻ってはこないのだから。
だが、人間は往々にして命を生かす為に逃がしたり隠匿したりする。過去の事例を考慮すれば可能性が全く無いわけではないとは思っていた。
時が至れば、人間風に言うならば「姉上の血を受け継いだ者の末裔」に会えるとも思っていた。
「みつけた。」
艶に濡れた声を出した唇を舌でぺろりと舐めながら、思考を巡らせる。
女、いやあの娘の血は花束の様な深紅なのだろうか。
ならば、
――――屠ってしまおうか――――
その感情も、その血も、その肉も。憎悪も、愛情も、憐憫も。全て私が喰らい尽くそう。
あんなちっぽけな存在に感情がゆすぶられる。だが、それさえも愉悦をもたらす。
どうして近付こうかと嗤いながら考える。今は後を追う事にしようと結論付けた。
堕ちた剣に花束を。
深くて紅い花束を。
再び出会った深紅に、心よりの花束を。