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追放された宮廷女医師は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~

「身体は嘘をつかない」——追放された宮廷女医師、辺境にて『呪われた第三王子』を診る【余白重視版】

作者: Lihito
掲載日:2026/05/12

「宮廷医師エリカ。主席医師の治療方針に背き、禁忌薬草を独断で患者に投与し、エストール侯爵家令息レナート様の容態を悪化させた罪により——」


(処方量を間違えたのはそっちでしょう)


大講堂。宮廷医師団の白衣が左右に並んでいる。三年同じ建物にいて、まともに話したことのある相手は片手で足りる。


罪状を読み上げる声が淡々と続いた。正面にヴェルナー主席医師。堂々と腕を組んでいる。右手の指先が震えていた。中指と薬指。本人は気づいていないだろう。隣に立つエストール侯爵は睨んでいる──つもりだろうが、目線が額に浮いている。喉仏が動いた。


(息子の容態が誰のおかげで安定してたか、ちゃんと分かってるくせに)


「——以上の罪により、宮廷医師団からの除名、および王都退去を命じる。申し開きはあるか」


「ございません」


ざわめいた。反論すると思っていたらしい。


「よろしい。即日——」


「レナート様の薬のことなんですけど」


静まった。


「朝の分、半量にしてください。肝臓が追いついてません。続けたら二週間で黄疸が出ます。それと左腹部を押すと痛がるはず。あれは治ってない。引き継ぎ、誰がやるんですか」


誰も答えなかった。ヴェルナーの指の震えが大きくなっていた。


「……聞いてます?」


「もうよい。去れ」


侯爵の声だった。


(ああ、そう)


だめだ。この人たちの耳には届かない。


白衣を脱いだ。畳んで、椅子の背に掛ける。背を向けて、講堂の通路を歩いた。誰も目を合わせない。同僚たち。こちらを見れば立場を決めなければならないから、天井や壁を見ている。


その中で、一人だけ目が合った。


ブルーノ。同期の宮廷医師。赤ら顔で恰幅がいい。いい酒と肉だけで作られたような身体だ。こちらを見て、隠しもしない笑みを浮かべていた。


「残念だったな、エリカ。だから言ったろう。余計なことをするなと」


足を止めた。ブルーノの身体に目がいく。注視する、というほどのことでもない。見れば分かる。


【右足第一趾——関節部に腫脹の兆候。炎症反応:初期】

【肝臓周辺——肥大の傾向。血流に濁り】


この力は前世にはなかった。この世界で目覚めた時、前世の記憶と一緒についてきた。人の身体を見れば異常が浮かぶ。便利ではある。ただし、見えるのは「何がおかしいか」だけ。「なぜおかしいか」は、こちらの知識で判断する。


ブルーノの右足。関節の腫脹。肝臓の肥大。この体型、この顔色、この生活。前世の知識と合わせれば、答えは出る。


「ブルーノ先生」


「何だ」


「そのまま太り続けると、近いうちに大変なことになりますよ。冗談じゃなくて。風が吹いただけで激痛が走る。立てなくなりますよ」


ブルーノの顔が赤くなった。怒りだ。


「黙れ、罪人の——」


「忠告です。せいぜい美味しいお酒や食事を、今のうちに楽しんでください。歩けなくなる前に」


歩き出した。レナートの薬のことも。ブルーノの足のことも。言った。伝わらなくても。


講堂の扉が閉まる音が、背中で鳴った。





馬車は出なかった。追放された平民の医者にそんな待遇はない。革鞄ひとつ。道具と着替えと記録帳。北に向かった。南は王都に近い。東は海。西は国境で物騒だと聞いた。消去法だった。


道を歩いていると、すれ違う人間の身体がいちいち目に入る。荷馬車を引く男の腰の歪み。宿場町の女の手の腫れ。


(見えても、通り過ぎる他人にどうこうできるわけじゃない)


三日目の午後。城壁の街が見えた。ブライテン。北部の地方都市。門が大きい。中に入ると、思ったより人が多かった。市場が開いている。荷車と商人の声。


宛てはない。肩書きもない。


歩いていると、広場の端で子供の声がした。


「大丈夫だってば。痛くないよ」


石塀の下。男の子が座っていた。五つか六つ。膝に擦り傷。母親らしい女がしきりに体を触って確かめている。元気な声だ。顔色も悪くない。


通り過ぎようとして、足が止まった。胸。何か引っかかった。


注視する。


【右胸部——拡張不全。左右差あり】


左は普通に動いている。右が浅い。外傷なし。


しゃがんだ。


「ねえ。さっきどこから落ちたの」


「……だれ?」


「医者。ちょっとだけ教えて」


母親が寄ってきた。当然だ。


「あの、すみません、何か——」


「お母さん、どのくらいの高さから落ちましたか」


「塀の上から……大人の背丈くらい。でもすぐ立ち上がって——」


「落ちた時、どっち側からぶつかった?」


「横。こっち」


子供が右の脇腹を指した。服をめくる許可を取って、確認する。打撲の痕がうっすら。この程度なら普通は湿布で終わる。


手を当てた。左胸は呼吸でしっかり動く。右胸はほとんど動かない。


(気胸。肋骨にヒビが入って肺に穴。本人は元気だと思ってる)


「お母さん。この子の胸に手を当ててみて。まず左。次に右」


母親が従った。左を当てた。次に右。


顔色が変わった。


「動いてない……右だけ……」


「肋骨にヒビが入って、肺に穴が空いてます。空気が漏れて肺が膨らめなくなってる」


「嘘。だってこの子、元気に——」


「穴が小さいうちは自覚がないんです。でも空気は漏れ続けてます」


「治せるんですか」


「今なら」


鞄から針を出した。


「横にしてください。暴れないように」


母親が子供を寝かせる。子供は不安そうにこちらを見ている。


「ねえ、何するの。ぼく痛くないよ」


「うん。でもね、あなたの身体はそう言ってないの」


右の肋骨の間。位置を確かめて、刺した。


——シュッ。


空気が抜けた。子供がびくっとした。一秒、二秒。右の胸が動き始めた。


「……あ」


「息、できる」


呼吸が変わった。さっきまでの顔と違う。苦しかったのだ。自分でも気づかないまま。楽になって初めて分かる顔。


母親が声を出さずに泣いた。子供は困った顔で母親を見ている。


針を抜いて、傷口を処置した。


「しばらく走らないで。深呼吸を一日三回。痛みが増したらすぐ医者に」


母親が手を掴んだ。


「先生、お名前——」


「エリカ」


「主人の友人がこの街で医者をしていまして、もしよければ——」


答えようとした時、通りの向こうから声が上がった。


「人が倒れてるぞ!」


「誰か——医者を!」


鞄を掴んで、走った。





通りに人だかりができていた。かき分けると、男が一人、道の真ん中に倒れていた。若い。二十代半ば。黒髪。質のいい服。従者らしい中年の男が傍にしゃがんで声をかけている。


「旦那様——!」


その隣に、もう一人。白髪交じりの初老の男が薬箱を広げていた。


「熱がある。解熱の薬湯を飲ませろ」


従者が椀を持ち上げ、倒れた男の口元に運ぼうとしている。


注視した。


【心拍——不規則。頻脈】

【腹部——胃壁に強い炎症。腸管蠕動異常】

【末梢血流——著しく低下】


(熱じゃない。胃の中で何かが暴れてる)


薬箱が見えた。解熱の調合。胃に負担がかかる組み合わせだ。


「待って」


従者の手が止まった。医者が振り向いた。


「何だ。お前は」


「その薬湯、止めてください。胃が荒れてます。飲ませたら悪化する」


「何を根拠に。熱があるのだ、解熱が先だろう」


「熱は結果です。原因は胃にある。顔色、汗、脈の速さ。熱のせいじゃない」


「若い女が見ただけで診断か。私は三十年——」


「その三十年で、この症状を見たことがありますか」


医者が口をつぐんだ。倒れた男の呼吸がさらに浅くなる。


「いつから具合が悪いですか」


従者に聞いた。


「今朝から……朝食の後に。昼過ぎに急に——」


「あなたも同じものを?」


「はい。私は何とも」


「この方だけが食べたもの、何かありませんか」


「……宿の主人が珍しい果実酒だと。旦那様だけがお召し上がりに」


(そこだ)


「その果実酒、後で確保してください。今は先にやることがある」


倒れた男の腹に触れる。固い。胃のあたりが張っている。


「聞こえますか」


「……ああ」


「吐き気は」


「……ある」


「吐いてもらいます。楽になるから」


塩を水に溶かした。


「おい、何をする気だ」


街の医者が声を上げた。無視した。


「少しずつ飲んで。一気にいかなくていい」


男が塩水を口に含んだ。一口。二口。身体が震えた。吐いた。胃の中身が地面に広がる。液体の色が暗い。普通じゃない。


「もう一度。出し切って」


また吐いた。


「水を」


少し飲ませる。呼吸がわずかに深くなる。まだ足りない。吸収された分が残っている。


「炭はありますか。木炭。細かく砕いたもの」


「炭だと! 何を飲ませる気だ!」


「毒を吸い着けるんです」


「聞いたこともない!」


「知らないことと、間違っていることは違います」


従者が走った。近くの店から炭をもらってくる。砕いて、水に混ぜる。黒い水。


「飲めますか」


男が薄く目を開けた。黒い水を見た。


「……何だ、それは」


「薬です」


「……味は」


「最悪です」


男の口の端がわずかに動いた。飲んだ。顔をしかめた。半分ほど飲んだところで、呼吸が変わった。


【心拍——安定傾向】

【腹部——炎症反応微減】


「横にして。右を下に」


従者が男を横たえた。蒼白だった顔に血の色が戻ってくる。周りで見ていた人間にもそれが分かったらしい。街の医者は薬箱を抱えたまま黙っていた。


「しばらくは水だけ。固形物は明日まで食べさせないで」


地面の吐瀉物を見る。暗い色の液体に、果肉の欠片が混じっていた。


「これと果実酒、保管しておいてください。後で確認します」


従者が深く頭を下げた。


「ありがとうございます。先生、お名前を」


「エリカ」


「エリカ先生。恩に着ます」


男の顔をもう一度見た。目は閉じている。呼吸は安定している。


安心して鞄を閉じようとした時——首筋が目に入った。襟元から覗く鎖骨のあたり。褐色の沈着。日焼けではない。不規則な、まだらの色。


注視した。


【副腎——著しい機能低下】


手が止まった。


それ以上は見なかった。今はそれどころじゃない。


立ち上がって、子供の母親の方へ戻る。歩きながら、さっきの首筋が頭の隅に残っていた。


(気のせいだと、いいんだけど)


気のせいじゃないのは分かっていた。





母親——マルタという名らしかった——に連れられて、裏通りを歩いた。


「先生のところ、ここからすぐなんです。リーナ先生っていって、若いけどいい子で」


「リーナ先生」


「ベッカー先生のお弟子さんで。先生が身体を悪くされてから、一人で」


(一人で診療所を)


木の看板。文字がかすれている。「ベッカー診療所」。扉が半開きだった。中に入る。


棚に薬瓶。整理されていない。机の上に包帯が出しっぱなし。


そして床に、女が一人、しゃがみ込んでいた。粉をぶちまけたらしく、手で集めている。


「あーっ、もう! これ三日分なのに!」


栗色の髪を雑にまとめている。白衣ではなくエプロン。袖がまくられて、腕に擦り傷がいくつか。


マルタが声をかけた。


「リーナ先生、お客さん」


「え! 患者さん!? ちょっ、待って今片付ける——」


「患者じゃなくて。紹介したい方が」


リーナが顔を上げた。粉まみれの手。額にも粉がついている。


「……どなた?」


「エリカ。医者です」


「お医者さん!?」


立ち上がる勢いで、膝を机の角にぶつけた。


「いったー!」


(……大丈夫か、この診療所)


マルタが帰った後、欠けた椀で安い茶を出された。リーナがベッカー先生について話す間、薬棚を眺めていた。種類はある。整理されていないだけ。手の届く範囲にある薬で、応急処置のほとんどはできる。


「ベッカー先生が倒れたのが半年前で、それからずっと一人で。薬代も持ち出しで——あ、これ聞かないでください」


笑っている。目は笑っていなかった。一瞬だけ。すぐ笑顔に戻した。


「でも! やめるわけにいかないし!」


(情熱だけで回してる。身体も家計も限界が近いだろうに)


「泊まるところを探してるんだけど」


「うちに!」


即答だった。


「奥に部屋あるんです! ベッカー先生が使ってた! 家賃いいんで!」


「いや、さすがに——」


「手伝ってくれるなら全然! むしろ助かります! いてください!」


前のめりだった。


(断る理由を探す方が難しいな)


「……しばらく、でいいなら」


「やったあ!!」


声が診療所の外まで響いた。たぶん通りの向こうまで。





午後、めまいの患者が来た。


五十がらみのレンガ職人。リーナが応対する。


「どうしました?」


「めまいがひどくてよ。寝返り打つたびにくらっとくる。立ってりゃ平気なんだが」


リーナが額に手を当てる。熱はない。顔色も悪くない。棚に向かって、薬草を選び始めた。


「血の巡りが悪いのかも! 頭に血を送る薬草を煎じますね!」


(違う)


奥から見ていた。口を出すつもりはなかった。


でも。


「リーナさん。その人、頭を動かした時だけめまいがするって言いましたよね」


「はい」


「血の巡りなら立っても座ってもめまいが出ます」


リーナが止まった。


「少し診させてください」


注視する。


【内耳右側——耳石器に位置ずれ】


「ベッドに腰掛けて。——これから頭を右に向けてもらいます。ゆっくり」


頭を右へ。


「そのまま、後ろに倒れて。頭は私が支えます」


倒した。男の目がぐるぐる動く。


「うおっ——回る、回ってる——!」


「そのまま。動かないで」


三十秒。目の動きが収まる。


「次、左に。ゆっくり」


「おい、何してんだ——」


「もう少しです」


左に向かせる。また目が回る。待つ。収まる。


「身体ごと左を向いて。横向きに」


従う。


「最後。ゆっくり起き上がって」


男が起き上がった。


「…………あれ?」


「どうですか」


「回ってねえ。何した!?」


「耳の中に小さい石みたいなものがあって、平衡感覚を保ってます。それがずれると、頭を動かすたびに目が回る。今、頭の向きを変えて石を元の位置に戻しただけ」


男が自分の耳を触った。リーナと同じ顔をしていた。


「三日間ずっとこれで寝込んでたのに……」


「放っておいてもそのうち治ります。石が自然に戻るか、身体が慣れるかで。ただその間ずっと働けないでしょう」


男が頭を下げて帰っていった。


リーナがじっとこちらを見ている。


「エリカさん」


「なに」


「すごいです」


「別に。知ってただけ」


「知ってるってことがすごいんです! 私、ベッカー先生に二年ついて、めまいの患者さん何人も診て、全員に血の巡りの薬出してました。治らない人もいて、なんでだろうって——」


「全員が同じ原因とは限らない。血の巡りのめまいもあるし、耳のめまいもある。見分けるのは、症状がいつ出るか。動いた時だけか、ずっとか。それだけ」


「それだけって……」


「知ってるか知らないかの差。あなたは知らなかっただけ。覚えればいい」


リーナが黙った。それから、ぶんぶんと首を縦に振った。


「覚えます! 絶対覚えます!」





夕方、扉が叩かれた。立っていたのは、昼間、通りで倒れた男の従者だった。


「失礼いたします。本日、主を助けていただいた者ですが——」


「フリッツと申します。主が、どうしてもお礼をと」


風呂敷を差し出した。干し肉と果物。銀貨が数枚。


「受け取れません」


「主がそうおっしゃると思っておりました。その場合は置いて帰れと言われております」


(押し問答しても勝てなさそうだな、この人)


リーナが横から覗き込んだ。


「わ! いいお肉!」


「……あなたの方が、具合はどうですか」


「おかげさまで。今朝には粥を召し上がれるまでに」


「水分はしっかり。固いものはもう二、三日控えて」


「承知いたしました」


言葉遣いが丁寧だ。従者にしては教養がある。


(聞きたいことがある)


あの首筋。褐色の沈着。副腎の異常。


「あの方——」


「はい」


「……いえ。何でもありません」


聞けなかった。たまたま通りで助けた相手だ。名前も素性も知らない人間に「他にも病気がありますよね」と踏み込む根拠がない。


フリッツがこちらを見ていた。穏やかな目。何かを測っている目でもあった。


「先生。この街には長くいらっしゃるのですか」


「……まだ分かりません」


「います!」


横からリーナが割り込んだ。


「いてもらいます! うちの先生なんで!」


(いつから「うち」になった)


フリッツの目がわずかに和らいだ。


「それは心強い。主もこの街におりますので。何かあれば」


頭を下げて、出ていった。


(何かあれば、か。何かはある。あの首筋に)


「エリカさん! 今夜これ焼いていいですか!」


リーナが干し肉を掲げていた。


「あなたの分は好きにしなさい」


「エリカさんの分もですよ! 二人分!」


椅子に座った。窓から夕日が入る。薬瓶の並ぶ棚。散らかった机。安い茶。包帯の匂い。三日前までいた場所とは、何もかも違う。


「焼き加減どうします!」


「……任せる」


「じゃあ私好みで! こんがり!」


(うるさいな)


嫌ではなかった。





ブライテンに来てから、十日ほど経った。診療所には毎日、誰かが来た。咳の老婆。指を切った漁師。腹を壊した子供。重い病気はない。だが一つ一つに、知識の差が出る。


合間に道具を揃え始めた。蒸留酒。メス。鉗子。鍛冶屋に図面を持ち込んで、首を傾げられながら作ってもらう。蒸留酒は市場で一番度数の高いものを買い占めた。


仕上がったメスを蒸留酒に浸していたら、リーナが目を丸くした。


「いいお酒なのにもったいなくないですか?」


「器具を清潔にするため」


「洗えばよくないですか?」


「水で洗っただけじゃ落ちないものがある」


「何がです?」


「目に見えない、小さな——」


言いかけて、やめた。細菌の概念がこの世界にはない。


「……いいから。刃物を使う前は必ずこれに浸すこと。煮沸でもいい。約束して」


「はい! 分かりました! 理由は分かんないですけど!」


(理由は分からなくていい。やってくれれば)


そのまま十一日目の朝が来た。診療所の前に、白髪交じりの初老の男が立っていた。薬箱を持っている。あの日、通りでクラウスに解熱の薬湯を飲ませようとしていた医者だ。


「お前か」


「エリカです」


「私はグスタフ。この街で三十年医者をやっている。この街で医療行為を行うには、医師組合の承認が要る」


(来たか。いつかは来ると思っていた)


「承認の手続きがあるなら踏みます」


「審査には推薦人が二名要る。この街の医師の」


(つまりこの男の承認が要る、という仕組みか)


グスタフの顔を見た。推薦する気がないのは明らかだった。


「私の患者が三人、あの後この診療所に来ている。勝手に診たな」


「勝手にも何も、来たから診ただけですけど」


「それが問題だと言っている」


声が大きくなった。通りに人が集まり始めている。


「身元も分からん女が、無資格で——」


「グスタフ先生」


リーナが前に出た。声が震えていた。でも前に出た。


「エリカさんは私が——」


「黙れ、小娘。お前もベッカーの承認で辛うじてやっている身だろう」


リーナが黙った。手が握られていた。


(私一人の問題ならいいけど、リーナを巻き込むのは——)


「何を騒いでいる」


声が割り込んだ。低い声。静かだが、通った。


人だかりの向こうに、黒髪の男が立っていた。質のいい外套。傍にフリッツ。


倒れていた男だった。顔色は万全ではない。だが目は真っ直ぐグスタフを見ていた。


「十日前、通りで倒れた男だ。この医者に命を救われた。覚えているか」


グスタフの顔が強張った。


「あの時、先生の薬湯を飲ませていたら私は今ここにいない。そうだな」


「……それは」


「承認が必要なら、私が推薦人になろう。それで手続き上の問題はないはずだ」


フリッツが一歩前に出た。それだけで空気が変わった。何も言わない。ただ立っている。だが従者の立ち方ではなかった。主人の盾として、自然に位置を取っている。


(この二人、何者だ)


グスタフは何も言えなくなっていた。


「……手続きを踏むなら、文句は言わん」


背を向けて去っていった。リーナが大きく息を吐いた。


「こ、怖かった……。でもあの人すごい。何者ですか?」


知らない。私も聞きたい。


男がこちらを見た。


「大事なかったか」


「助かりました。お名前、伺っていませんでした」


「クラウスだ。それ以上は、今は」


(隠してる。やはり)


「私からも、お礼を。あなたを助けてくれた借りがある」


口の端がわずかに動いた。皮肉とも笑みとも取れる顔。


リーナが「お茶でも淹れますね!」と奥に引っ込んだ。


「フリッツ、推薦の書式を——」


言いかけて、止まった。顔から色が引いた。


一瞬だった。さっきまで普通に立っていた人間の足元が揺れた。


「——殿」


フリッツが声を落として支えた。殿。聞こえた。


クラウスの手が壁に触れた。額に汗が浮いている。


(血圧が落ちてる。急激に)


注視した。


【副腎——著しい機能低下。コルチゾール分泌ほぼ停止】

【血圧——急速な低下。末梢循環不全】


(やっぱり。あの時見たのと同じだ)


「大丈夫だ。少し立ちくらみが——」


「大丈夫じゃありません」


近づいて脈を取る。速い。弱い。


「座って。リーナ、塩と水」


「はい!」


塩水を作って、少しずつ飲ませた。顔色がわずかに戻る。だがこれは応急処置でしかない。フリッツが傍に膝をついていた。顔が白い。主人より従者の方がよほど動揺している。


「よくあることなんですか」


フリッツがクラウスを見た。クラウスが目を閉じた。答えないつもりだ。


「先生」


フリッツの声が低くなった。


「お願いです。主を——診ていただけませんか」


クラウスが目を開けた。


「フリッツ」


「お許しください。ですが——」


「今ここでする話じゃない」


そうだ。通りの真ん中だ。


「場所を変えましょう。あなたの家で」


「……あんたに診せる義理はない」


「義理はない。でも今帰したら、家で倒れます」


クラウスが黙った。


(この人、自分の身体のことをある程度分かってる。分かった上で、誰にも診せていない)


首元を見た。外套の襟が高い。あの色素沈着は隠れている。やはり隠している。自分の症状を、意図的に。


「……好きにしろ」


立ち上がった。フリッツが支える。リーナに振り返った。


「午後の患者、任せていい?」


「はいっ! 任せてください! ……たぶん!」


(たぶん、が正直すぎる)


鞄を掴んだ。





屋敷は、住人の性格そのままだった。必要なものはある。不要なものがない。家具は少ないが質がいい。壁に絵も紋章もない。窓が多くて、風通しがいい。


椅子に座らせて、症状を聞いた。


「いつから具合が悪くなりやすくなりました」


「……昔からだ」


「昔から、は答えになってません。いつ頃から悪化しました」


クラウスがわずかに目を細めた。


「……三年前。ここに来た頃から、頻度が上がった」


「食欲は」


「ない」


「体重は」


「減っている。フリッツがうるさい」


フリッツが口を挟んだ。


「この二年で一石近く。食事は残されることの方が多く——」


「聞いてない」


「聞いてます。続けてください、フリッツさん」


クラウスが不愉快そうな顔をした。


「朝が特に辛そうで。起き上がるのに時間がかかります。倦怠感がひどい日は一日寝台から出られないことも」


「塩辛いものを好みますか」


「はい。以前はそうでもなかったのですが、最近は漬物や干し肉ばかり」


(副腎が落ちるとナトリウムが保てなくなる。身体が本能的に塩を求める。合う)


「立ちくらみの頻度は」


「週に二、三度は」


クラウスが舌打ちした。


「フリッツ。お前は私の医者か」


「いいえ。ですが——」


「全部喋るな」


「全部聞きたいので、全部喋ってください」


クラウスがこちらを見た。


「……ずいぶん遠慮がないな」


「遠慮してたら患者は死にます」


黙った。


「肌を見せてもらえますか。上を脱いで」


「……どこまで見る気だ」


「必要なだけ」


外套を脱いだ。シャツも。痩せていた。肋骨の浮き方で分かる。筋肉量が少ない。食べていない身体だ。


そして、首筋。鎖骨から首にかけて、まだらの褐色。肘の内側。膝の裏。同じ色素沈着。口腔粘膜にも暗いまだら。


(全部、一つの答えを指してる)


腹部に触れた。柔らかい。圧痛はない。手首を取って脈を測る。安静時でも弱い。血圧が慢性的に低い。


注視した。


【副腎——萎縮。機能ほぼ停止】


手を離した。クラウスがシャツに手をかけながら、こちらを見ていた。


「それで」


「分かりました。何が起きているか」


「……聞こう」


「あなたの身体の中で、ある器官がほとんど動いていません。背中の奥、腎臓の上にある小さな臓器。そこが作るべきものを作れなくなっている。倦怠感も、食欲不振も、立ちくらみも、体重の減少も、塩への渇望も、肌の色素沈着も。一つ一つは別の病気に見えるけど、原因はひとつです」


「……一つ」


「一つです」


クラウスが黙った。それから、軽い調子で言った。


「分かったところで、治せるのか」


「正直に言います。今の私には、治す手段がありません」


「そうか」


あっさりしていた。予想していた、という顔。


「ただし」


「ただし?」


「これは病気です。原因が分かっている。適切な処置があれば、症状を抑えられる」


クラウスの目がわずかに動いた。


「……処置が、あるのか」


「あります。今の私の手元にないだけです」


間があった。フリッツが息を詰めていた。


「——呪いではないのか」


声が変わっていた。さっきまでの軽さが消えていた。


「呪いではありません」


「王都の医師は誰も原因が分からなかった。匙を投げられた。周りの人間は——」


「呪いじゃない。病気です。理屈のある不具合です。名前もあります」


クラウスが何も言わなかった。


見ていた。首元でも、表情でもなく、膝の上に置かれた手。震えていた。力を入れて止めようとしている。止まらない。


「——すまない。少し」


立ち上がろうとした。足元がふらついた。フリッツが支えた。


「今日は横になってください。塩水を多めに。明日また来ます」


「……来るのか」


「来ます。治す手段が見つかるまで、今できることをやりに」


クラウスは背を向けたまま、何も言わなかった。


フリッツが玄関先で深く頭を下げた。


「先生。——ありがとうございます」


「まだ何もしてません」


「いいえ。あの方が、あの言葉を聞けたことが」


フリッツの目が赤かった。


(呪い、か。三年間、そう思って生きてきたのか)





翌朝。塩の袋を鞄に詰めて、クラウスの屋敷へ届けた。一週間分。


「毎食、少し多めに。汁物にも。足りなくなったらまた持ってきます」


フリッツが受け取った。居間でクラウスは椅子に座っていた。昨日よりは顔色がいい。塩水が効いている。


脈を取る。


「昨日の立ちくらみは」


「一度。夕方に」


「フリッツさん」


奥から声が返ってきた。


「大げさではございませんので、先にそれだけ申し上げておきます」


クラウスが天井を見た。


「聞いてないのに答えるな」


「殿がまた『大したことない』とおっしゃるのが目に見えておりましたので」


(息が合ってるのか合ってないのか分からない二人だな)


「しばらく毎日来ます」


「毎日か」


「嫌ですか」


「……好きにしろ」


帰り道、薬草屋に寄った。リーナを連れて。


「あそこの店主、愛想悪いんですよね……。若い女だと足元見てくるし」


「ちょうどいい」


「ちょうどいい?」


店に入ると、髭の濃い男が出てきた。腕を組んだまま、こちらを値踏みする目。リーナを見て、それから私を見る。


「……あんたか。グスタフ先生と揉めてた——」


途中で口をつぐみ、棚を拭き始めた。


(噂はもう街中に広がってるか)


「グスタフ先生がどうかしました?」


「何でもねえ。何が要る」


「いくつか。解熱用の薬草を」


「そこの棚だ。一束八銅貨」


リーナが小さく息を吸った。


「リーナ、いつもいくらだった?」


「……五銅貨です」


「仕入れが上がってんだ。嫌なら他を当たりな」


「他にこの街で薬草を扱ってる店、ありますか」


男が鼻を鳴らした。ない、と知っている顔だ。


棚の束を一つ手に取った。匂いを嗅ぎ、葉を一枚むしって指で揉み、茎の断面を見た。


「ひとつ聞いていいですか。この薬草、乾燥が甘くないですか」


「……十分乾かしてある」


「茎の中にまだ水分が残ってます。煎じた時に成分の出方が変わるんですけど」


男の目が細くなった。


「細かいことを言うな」


「そうですか。それと、これ」


隣の粉末の瓶を取る。蓋を開けて、指先に少量取った。舌に乗せた。


「おい、勝手に——」


「これ、二種類混ざってますよね。味と粒の大きさが違う。片方はほぼ薬効がない」


男の手が止まった。


「……言いがかりだ」


「言いがかりだといいんですけど。グスタフ先生から、薬の効きが悪いって言われたこと、ありません?」


男の顔が変わった。図星だ。


「リーナ。グスタフ先生のところに分けてもらえないか聞きに行きましょうか。先日、医療行為の承認についてお認めいただいたし」


「は、はい。認めてくださいました」


リーナが裏返った声で合わせてくる。状況は分かっていないが、合わせてはくれる。


男の目が泳いだ。粗悪品の話がグスタフに行く。それがどういう結果になるか、計算している顔。


「ちゃんとしたものを適正な値段で売ってもらえれば、わざわざそんなことしなくていいんですけど」


長い沈黙。


「……何が要るんだ」


「全部見せてください。奥にあるものも」


「奥だと?」


「棚に出せないもの。仕入れたけど売れ残ってるもの。全部」


男が渋々、奥の棚を開けた。雑に箱に詰められた薬草の束。一つずつ手に取って分類する。


棚の隅。布に包まれた束が押し込まれていた。手に取って、布を開く。茶色い根。甘い匂い。


(——あった)


「これは」


「そいつは売り物じゃねえ。処分し損ねてたんだ」


「毒草ですよね」


「だから処分し損ねたっつって——」


「私が適切に処分しておきましょうか。誰かが知らずに使ったら大変ですから」


「……は?」


「他国の商人から仕入れた時は普通の薬草だって聞いた、とでも?」


男の顔が白くなった。


「宮廷では使用を忌避すべしとされていました。量を間違えると人が死にます。役人さんに帳簿と一緒に確認してもらいましょうか」


「持ってけ」


早かった。


「持ってっていい。処分、頼む。役人は——勘弁してくれ」


布に包み直して、鞄に入れた。


「じゃあ、先ほどの薬草の件ですけど」


「適正価格で出す。出すから」


会計を済ませると、当初の半額以下になっていた。


店を出て、リーナがしばらく黙って歩いていた。珍しい。


「どうしたの」


「……今後エリカさんに逆らうのはやめようと思います」


「あら。逆らうつもりだったの」


「冗談です! 冗談ですよ!」


(半分本気の顔だったけどね)


「ねえ、あの布のやつ——」


「今度教える。今はまだ」


リーナはそれ以上聞かなかった。


診療所に戻って、薬草を棚に並べた。布に包まれた根は、奥に。


甘草。この世界では毒。


前世と濃度が同じかどうかは分からない。品種が違うかもしれない。前世の知識だけでは処方は組めない。少量から試すしかない。そして、あの人に「これを飲め」と言わなければならない。毒と呼ばれているものを。


窓の外が暗くなり始めていた。リーナが夕食の支度をしている。


扉が叩かれた。激しく。何度も。


リーナより先に動いた。開けた。クラウスの屋敷で見かけた使用人が立っていた。息が切れている。


「エリカ先生——フリッツ様が——」


「何があった」


「街道で賊に。血が、止まらないんです」


鞄を掴んだ。


「リーナ、湯を沸かして。蒸留酒と布、持てるだけ持ってきて」


「はい!」


走った。





屋敷に着いた時、玄関の床に血が点々と続いていた。


居間に運び込まれていた。寝台の上にフリッツ。白いシャツが左腹部から赤黒く染まっている。顔面蒼白。呼吸が浅い。


クラウスが傍に立っていた。顔から表情が消えている。


使用人が二人、布を押し当てていた。血が止まらない。


「どけて」


布をめくる。左腹部。刺創。深い。


注視した。


【腹腔内——脾臓に裂傷。出血継続】

【腸管——損傷なし】


(脾臓だ。何もしなければ失血死する)


脈は速く、弱い。時間がない。


「蒸留酒と布は」


「あります!」


リーナが息を切らして到着していた。


「机を空けて、明かりを集めて」


机が運ばれ、蝋燭が並べられた。鞄からメス、鉗子、針と糸。すべて蒸留酒に浸す。


「フリッツさんを机に乗せて。仰向け」


フリッツが運ばれた。意識はない。傷口の周囲に蒸留酒をかけた。


「腹を切ります」


部屋が凍った。


使用人の一人が前に出た。


「何を——正気ですか!」


もう一人が続いた。


「フリッツ様を殺す気か! グスタフ先生を呼べ!」


「グスタフ先生では助けられません。この出血は外からは止められない」


「だからって——」


「エリカ」


クラウスの声だった。静かだった。


「腹を切れば、助かるのか」


目を見た。


「助けます」


「……下がれ」


「しかし——」


「下がれと言っている」


使用人が下がった。メスを持った。


「リーナ、ここに。鉗子を持って待機して」


「は——はい」


傷口から刃を入れた。切り広げる。腹腔が開く。血だった。暗い赤が溢れてくる。


「布。吸わせて」


手を出した。返ってこない。


振り向くと、リーナが立っていた。鉗子を握ったまま、動かない。目が開いているのに何も見ていない。顔が白い。手が震えている。


(——ああ、そうだよね)


知識として知っていることと、目の前で人間の腹が開くことは違う。


「リーナ」


「だ、大丈夫です、私——」


声が震えていた。唇に色がない。膝がガクガクしている。身体が全部「大丈夫じゃない」と言っていた。


「下がって」


「でも——」


「今のあなたの手は使えない」


きつい声が出た。リーナが後ずさり、壁際でしゃがみ込んだ。


(前世の最初のオペ。私もああだった。怒鳴ってくれる指導医が今はいない。一人でやる)


左手で腹腔内の血を布で拭った。視界を確保する。


【脾臓下極——裂傷。長さ約三寸】


右手のメスを置いて、鉗子を取った。出血している血管を挟む。血が止まる。


針を持つ。脾臓の裂傷を縫う。一針。二針。手はぶれなかった。前世で何百回とやった動き。身体が覚えている。三針目で、ほぼ止まった。


腹腔の血を吸い取って、新しい出血がないことを確認する。腹壁を縫う。層ごとに。筋膜、皮下、皮膚。蒸留酒をかけて、清潔な布で覆った。


最後の糸を切った時、手が重かった。


脈を取る。まだ弱い。だが速さが落ち着いている。


「……終わりました」


部屋が静かだった。クラウスは椅子に座っていた。いつ座ったのか分からない。組んだ手の上に顎を乗せて、こちらを見ていた。表情が読めなかった。


使用人にフリッツの搬送と看護を指示してから、壁際を見た。リーナがまだしゃがんでいる。膝を抱えていた。


隣にしゃがんだ。


「リーナ」


顔を上げた。目が赤い。泣いていた。


「すみません、私——使い物にならなくて——」


「当たり前でしょう。あんなの初めて見たんだから」


「でも、エリカさんが一人で——」


「私も最初はそうだったよ。人の腹を初めて見た時、手が動かなくなって、器具を握ったまま泣いてた」


「エリカさんが……?」


「立ってるだけで精一杯だった。だから、あなたは正常」


リーナの肩が少し下がった。


「ただし。次は動いてもらう。今日見たこと、手の動き、順番、どこを切って何を縫ったか、覚えてる限りでいい。覚えてる?」


「……覚えてます。全部見てました」


「見てたの。固まりながら」


「はい。怖かったけど、目は離せなくて」


(——大丈夫だ、この子は)


「上出来。明日、私が何をやったか説明する。全部」


「はい!」


声に力が戻っていた。





リーナを先に帰した。フリッツの寝台の脇で脈を見ていた。安定してきている。峠は越えた。


クラウスが入ってきた。外套を脱いでいた。痩せた身体のまま、寝台の傍に立つ。


「……十五の時からそばにいる」


独り言のようだった。


「王宮の誰も寄りつかなくなった後も、こいつだけが残った」


「目を覚ましますよ」


「ああ。——あんたが来なければ死んでいた」


「たまたま近くにいただけです」


「たまたまが多いな、あんたは」


こちらを見た。ただの、疲れた顔だった。


「礼を言う。ありがとう」


「いいです。寝てください、あなたも限界でしょう」


「俺は——」


立っていた。立っていたはずだった。


声の途中で、足が消えた。膝が折れる。身体が傾く。


「クラウス——!」


名前を呼んでいた。受け止める前に床に崩れた。支えた時にはもう、手の中でぐったりしていた。


脈。速い。弱い。これは出血じゃない。


副腎だ。


数日のストレス。フリッツが刺された報せ。手術の間ずっと立っていた緊張。副腎がとっくに限界を超えていたのを、気力で保たせていた。


「塩水。誰か、塩水を——」


使用人が走った。抱えた身体が軽い。


クラウスの目が薄く開いていた。焦点が合っていない。意識が沈みかけている。


塩水が来た。飲ませた。ほとんどこぼれた。


(足りない。これじゃ足りない)


鞄が目に入った。今朝入れたままだった。布に包まれた茶色い根。


甘草。毒と呼ばれているもの。前世と濃度が違うかもしれない。試した量も少なすぎたかもしれない。それでも、今この場で他に手がない。


少量を削って、塩水に溶かした。クラウスの顔の前に持っていく。


「クラウス。聞こえますか」


「…………」


「これは毒草と呼ばれています。でも薬になる」


目が動いた。こちらを見ている。見えているかは分からない。


「——私を、信じられますか?」


長い間があった。意識が消えかけている人間が、何かを考えている時間。


「……量を間違えれば死ぬと、言ったな」


声だった。低い。掠れている。


「はい」


「間違えないと」


「間違えません」


「……なぜこれが俺に効くと分かる」


「この根は、あなたの身体に足りないものを補えます。量を間違えなければ」


答えになっていなかった。それでもクラウスは椀を見た。私の手を見た。何かを確かめている目だった。


「——死んだら化けて出るぞ」


口を開けた。


椀をそっと傾けた。半分ほど飲んで、腕から力が抜けた。椀を取った。目が閉じかけている。


「寝ていいです。今夜はそばにいます」


椅子を寝台の脇に引いた。脈を取りながら、ろうそくの揺れを見ていた。





三日目の朝。脈が、昨日より強かった。


注視する。


【副腎——微弱な反応あり。コルチゾール分泌:痕跡程度】


(動いてる。まだほんのわずかだけど、効いてる)


量を記録した。この世界の甘草は前世のものより少し濃いようだ。慎重に。


「今日の具合は」


「変わらん」


「食欲は」


「ない」


「昨日は粥を三口でしたけど」


「……四口ぐらいなら」


「増えてるじゃないですか」


「誤差だ」


七日目。クラウスが自分で起き上がった。


「自分で起きましたね」


「起きただけだ」


「昨日まで手伝ってましたけど」


注視した。


【副腎——コルチゾール分泌:低値だが安定。末梢血流改善】


「……なあ」


「はい」


「この薬は、いつまで飲む」


「ずっと、です」


クラウスがこちらを見た。


「あなたの身体の中で止まっている機能は、おそらく元には戻りません。この薬で補い続けます」


「一生か」


「はい」


クラウスが窓の外を見た。


「一生飲むのか。あのまずい水を」


「慣れます」


「慣れるのか」


「炭の水よりましだって言ってたでしょう」


「あれを基準にするな」


クラウスの手は、もう震えていなかった。





フリッツが目を覚ました。傷口の経過を確認している時だった。まぶたが動いて、目が開いた。


「……殿は」


第一声がそれだった。


「元気ですよ。隣の部屋にいます」


「……ご無事ですか」


「あなたの方が刺されてたんですけどね」


フリッツの目が潤んだ。


クラウスが入ってきた。自分の足で。フリッツの目が見開かれた。


「殿——お顔が——」


「毒を飲まされた」


「毒……!?」


「薬だ。効いてる。……らしい」


「らしいじゃなくて効いてます」


フリッツがエリカを見た。クラウスを見た。もう一度エリカを見た。両手で顔を覆った。声が漏れた。


「——申し訳ございません。私がそばにおれぬ間に——」


「泣くな。腹に響く」


「申し訳——」


「泣くなと言っている」


クラウスがフリッツの寝台の横に座った。何も言わず、そこにいた。


しばらくして、フリッツが落ち着いた。目はまだ赤い。


「先生。その薬は」


「甘草という根です。この国では毒草扱いですが、量を間違えなければ薬になる」


「それを、ずっと」


「はい。ただ、今手元にある分では長くは持ちません。流通していないので、継続的な入手先がまだ」


フリッツの目が変わった。


「心当たりがございます。腹の傷が塞ぎ次第——」


「まず傷を治してください」


「……承知いたしました」


クラウスがフリッツの手を、軽く叩いた。それだけだった。


部屋を出て、玄関先まで歩いた。クラウスが見送りに来ていた。


「またな」


「明日も来ます」


「……ああ」


ふと、視線が合った。クラウスの目が、何か言いたそうにしている気がした。


「何か?」


「いや」


何でもないと言うなら、何でもないのだろう。


屋敷を出た。陽が傾き始めていた。





診療所に戻ると、リーナが駆け寄ってきた。


「おかえりなさい! それから、これ——」


差し出されたのは、封蝋のついた書状だった。紋章。エストール侯爵家。


「さっき、旅装の人が。エリカさん宛だって」


封を切った。読んだ。


王宮を去ってから、まだひと月にもならない。


「……リーナ」


「はい」


「しばらく診療所、任せていい?」


「え——また? どこ行くんですか?」


書状を畳んだ。窓の外を見る。陽は、もう暮れかけていた。



────────────────────



その頃、王都の朝食堂で、ブルーノは靴を履こうとして眉をひそめていた。


右の親指のあたりが、わずかにきつい。


足を見た。少し赤い気もする。昨日の酒が残っているのかもしれない。


——そのまま太り続けると、近いうちに大変なことになりますよ。


あの女の声がよぎった。追放される日、大勢の前で恥をかかせてくれた。罪人の分際で。


(馬鹿馬鹿しい。太っているのと足が痛いのに何の関係がある)


靴に足を押し込んだ。この程度、靴擦れだろう。


ブルーノの日々は順調だった。エリカが抜けたぶん、担当患者が回ってきた。といっても簡単な症例ばかりだ。あの女が抱えていた面倒な患者——レナートは、ヴェルナーが引き取った。当然だろう。主席医師なのだから。


余った時間で医局の椅子に座り、昼から果実酒を傾ける。悪くない。


同期のマティアスが通りがかった。


「ブルーノ、レナート様の薬、あの処方で大丈夫なのか。エリカが半量にしろと——」


「あの女の言うことを真に受けるのか。禁忌薬草を独断で使った女だぞ。判断が正しいわけがない。ヴェルナー先生が診ているんだ。問題ない」


マティアスは何か言いたそうな顔をしていたが、頷いて去った。



十二日目の朝。右足の親指が、熱かった。靴を履く時に顔をしかめた。腫れている。触ると痛い。昨日にはなかった腫れだ。


(食い過ぎたか。少し控えるか——いや、今夜は医師団の会食だ。まあいい)


朝食を済ませて医局に向かった。歩くたびに右足が気になる。痛いというほどではない。ただ、靴の中で親指が脈を打っている。


廊下で侍医が走ってきた。


「どうした」


「レナート様が——」


顔が青い。


「ヴェルナー先生を呼べと」


「呼べばいいだろう。私に言うな」


侍医が走り去った。椅子に座った。靴の中の親指が、じくじくと熱い。


夕方になって医局がざわついた。レナートに黄疸が出た。


ヴェルナーの椅子が倒れる音がして、廊下を走る足音が遠ざかっていった。ブルーノは書類を見ていた。


黄疸。あの女が追放の日に言っていた。二週間で出る、と。


(偶然だろう)


数えたくなかったが、数えてしまった。追放の日からちょうど十四日。


マティアスがこちらを見ていた。何も言わなかった。



ヴェルナーが処方を変えた。半量に落とした。遅い。あの女は追放の日に言っていた。半量にしろ、と。十四日間、元の量で投与し続けて、言われた通りの結果が出て、それからようやく量を変えた。


——いや。自分がどうこう言う立場ではない。ヴェルナーは主席医師だ。


三日ほどで黄疸は引いた。ヴェルナーの顔に安堵が戻った。会食が再開された。ブルーノは鶏の丸焼きを二皿平らげた。酒を三杯。右足のことは忘れていた。


忘れていられた。まだ。



五日ともたなかった。


レナートの顔色が再び沈んだ。今度は黄疸ではない。腹を押さえて食事を戻した。


ヴェルナーが医局の薬棚をひっくり返していた。薬草の組み合わせを変え、量を変え、煎じ方を変え。棚の前にしゃがみ込み、瓶を並べ直しては首を振る。


ブルーノは椅子に座ったまま、それを見ていた。


(やり方が分からんのだろう。あの女の投与記録を読めばいいものを)


記録は残っている。エリカは事細かに書き残していた。だがヴェルナーはそれを見ない。見れば、自分が間違っていたと認めることになる。ブルーノだって読まない。読む理由がない。自分の患者ではないのだから。



十八日目。右足が靴に入らなくなった。


親指の付け根の関節が赤く腫れている。昨日までは「少しきつい」で済んでいた。今朝は違う。靴下を履くだけで顔が歪んだ。


(腫れてるな。ぶつけた覚えはないが——どこかで打ったか)


柔らかい方の靴に替えた。歩けないことはない。


(大したことない。打ち身だろう。明日には引く)


医局に着くと、空気が重かった。ヴェルナーがいない。レナートの病室に詰めているらしい。三日帰ってきていないと、マティアスが言った。


「黄疸は引いたが腹の痛みが治まらんらしい。薬を何種類変えても、エリカがいた時の安定が再現できないと」


「ヴェルナー先生の力量の問題だろう」


口に出してから、少し声が大きかったと思った。周囲の視線が刺さった。


「……別に、エリカのやり方が正しかったと言っているわけではない。主席医師がこの程度の症例を抑えられんのかと言っているだけだ」


マティアスは何も答えなかった。



レナートの病室の前を通りがかった。通りがかっただけだ。用があったわけではない。


扉が開いていた。ベッドの上の若い男が見えた。二十にもなっていない。頬がこけている。半月前とは別人だった。


侍女が椀を差し出している。レナートがそれを押し返した。


「いらない。効かないから」


「でも、ヴェルナー先生が——」


「エリカ先生のと違う」


侍女が口をつぐんだ。


「エリカ先生が作ってくれたやつは、飲んだら楽になった。これは飲んでも何も変わらない。……ただ苦いだけだ」


声に怒りはなかった。恨みもない。諦めた声だった。二十にもならない人間が出す声ではなかった。


「エリカ先生、いつ戻るんですか」


侍女が答えられるはずがない。


ブルーノは歩き出した。右足を引きずっていることに、自分では気づいていなかった。



エストール侯爵が宮廷に来た。廊下の空気が凍った。使用人が走り回っている。ブルーノは壁際に寄った。


侯爵の顔は、追放の日とは別人だった。あの時は堂々と腕を組んで、「去れ」と言い放った男。今は目の下に隈がある。唇が乾いている。


ヴェルナーが呼ばれた。主席医師の扉が閉まった。


壁越しに声が聞こえた。侯爵の怒声だった。一方的だった。ヴェルナーの声がない。


(当然だろう。結果が出ていないのだから)


長い沈黙のあと、聞こえた声は、もう怒声ではなかった。低く、しぼり出すような声だった。


聞き取れた言葉はひとつだけ。


「——呼び戻せ」


ブルーノは壁から背を離した。


(エリカを? あの女を?)


笑いそうになった。追放した人間を呼び戻す。侯爵が。自分で「去れ」と言った相手を。


(傑作だ。あの女がいなければ何もできんとは。宮廷医師団の面目は——)


右足に激痛が走った。


「——っ」


声が出た。壁に手をついた。


親指だった。靴の中で何かが弾けたような痛み。腫れていた関節が、限界を超えた。


まともに立てない。右足を着くと、足の先から頭のてっぺんまで痛みが駆け上がる。


(なんだこれは。打ち身じゃない。打ち身でこんな——)


壁伝いに歩いた。左足だけで。右足は床に着けるだけで脂汗が出た。


医局にたどり着いた。靴を脱いだ。右足の親指の関節が、赤黒く腫れ上がっていた。熱を持っている。触れなかった。風が当たるだけで痛い。


風が吹いただけで激痛が走る。


あの女の声が、はっきりと聞こえた。


(……馬鹿な。あんなもの、ただの捨て台詞だろう)


椅子に座ったまま動けなかった。レナートの黄疸は十四日で出た。一日もずれなかった。


自分の足は——何日だ。あの日から何日だ。数えたくなかった。数えてしまった。


二十日。


あの女は「近いうちに」と言った。近いうちに大変なことになる。


(偶然だ。偶然に決まっている)


右足が、答えるように、ずきん、と脈打った。


身体は嘘をつかない。


あの女は、確か、そう言っていた。



──────────────────────

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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※もう一つ別の文体バージョン(【余白重視版】/【描写厚め版】)もありますが、

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▼もう一方のバージョン(読み比べたい方向け)

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▼続きを読む(連載中の長編・大幅加筆あり)

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