第2話 偽りの家族と、思い出の腕輪
夜の冷気が肌を刺す中、わたくしは衛兵に乱暴に馬車へと押し込まれました。
ガタン、と無慈悲に扉が閉められ、揺れ始めた車内で独り、窓の外を流れる王都の景色を無言で見つめます。
きらびやかな夜会の灯りも、恋人たちが愛を囁き合う噴水広場も、今はまるで別世界の出来事のよう。
これからわたくしを待つのは、国外追放という名の、未来も保証もない暗闇だけ。
(ですが、不思議と心は凪いでいますわ)
むしろ、長年背負わされてきた重い鎧を、ようやく脱ぎ捨てることができたような、そんな解放感すらありました。
馬車は、見慣れたヴァレンシュタイン公爵家の壮麗な門の前で停まります。
衛兵はわたくしを荷物のように降ろすと、「明朝、日の出までに出ていかれよ。門番にはそう伝えてある」とだけ言い捨て、嵐のように去っていきました。
静まり返った屋敷。
いつもなら、わたくしの帰りを待つ使用人の一人くらいはいるものですが、今夜は誰の姿も見えません。
まるで、疫病神の帰還を恐れるかのように、屋敷全体が息を潜めているのが分かりました。
重い扉を自ら押し開けると、がらんとしたエントランスホールに、わたくしの靴音だけが虚しく響きます。
奥から現れた老執事は、わたくしを一瞥すると、感情の欠片も見せない能面のような顔で告げました。
「お嬢様。旦那様より、お部屋以外の場所には立ち入らぬように、とのことでございます。ご出発の準備が済み次第、速やかにお発ちください」
その言葉は、もはやわたくしをこの家の人間として扱ってすらいませんでした。
長年仕えてくれた彼でさえ、こうなのです。
(ええ、分かっておりますわ。もう、わたくしの居場所はどこにもないのですね)
「ありがとう、セバス。長年お世話になりました」
静かにお礼を述べると、彼はほんの少しだけ目を見開きましたが、すぐに無表情に戻り、深々と頭を下げました。
自室へと続く、長い廊下。
壁にかけられた家族の肖像画が、冷たくわたくしを見下ろしています。
父と母、そして満面の笑みを浮かべる妹のクラウディア。そこに、わたくしの姿はありません。魔力を持たぬ子が生まれたという事実を隠すため、わたくしは公式の場にほとんど出してもらえず、肖像画に描かれることさえ許されなかったのです。
自分の部屋に入ると、ひんやりとした空気がわたくしを包みました。
豪華な天蓋付きのベッドも、美しい装飾の施された机も、まるで他人の部屋のように感じられます。
旅の準備といっても、持っていくものなど、ほとんどありませんでした。
クローゼットに並ぶ豪奢なドレスも、宝石箱に眠る輝かしい宝飾品も、すべては『ヴァレンシュタイン公爵家の令嬢』という役に与えられた衣装と小道具。その役を降ろされた今、わたくしには何一つ必要のないものでした。
結局、わたくしが革の鞄に詰めたのは、数着の地味で動きやすい平民の娘が着るようなワンピースと、唯一母が亡くなる前に残してくれた、小さなスミレのブローチだけ。
その時でした。
コン、コン、と形式的なノックの音とともに、扉が乱暴に開け放たれたのは。
「セレスティア」
そこに立っていたのは、父であるヴァレンシュタイン公爵と、その腕に寄り添う妹のクラウディアでした。
父の顔には、隠しようもないほどの嫌悪が浮かんでいます。
「…お父様」
「その呼び方も今日限りだ。聞くに堪えん」
吐き捨てるような言葉に、もはや傷つきもしませんでした。
「我がヴァレンシュタイン家の顔に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ。魔力なしの出来損ないとして生まれただけでも許しがたいというのに、今度は聖女イザベラ様に呪いをかけるなど…! お前を育てたのは、わが生涯における最大の汚点だ!」
(育てられた、覚えはあまりありませんけれど)
わたくしに与えられたのは、最低限の食事と教育だけ。
家族団らんの食卓に、わたくしの席が用意されたことは一度もありませんでした。いつも部屋で、冷めた味気ないスープを一人ですすっていた記憶が、舌の上によみがえります。
「さっさとこの国から消え失せろ。二度と、我々の前にその汚れた姿を現すな」
父の隣で、クラウディアがくすくすと嘲笑うのが聞こえました。
彼女は勝ち誇ったように一歩前に出ると、憐れむような声音で言います。
「お姉様、本当にお可哀想。でも、これが現実ですのよ。エドワード殿下は、最初から魔力のないお姉様のことなど、お嫌いでしたの。殿下のお心は、いつもわたくしとイザベラ様に向いておりましたわ」
その言葉は、彼女とイザベラが結託して、わたくしを陥れたという事実を雄弁に物語っていました。
すべては、わたくしという邪魔者を排除するための、仕組まれた茶番劇。
わたくしは、静かに二人を見返しました。
そして、心の底から湧き上がる、ある感情のままに唇を開きます。
「ええ、ようやく解放されますのね。おめでとうございます、お父様、クラウディア。これからは、出来損ないの姉に悩まされることなく、お二人でヴァレンシュタイン家の輝かしい歴史を紡いでいってくださいませ」
精一杯の祝福を込めて微笑んでみせると、二人は一瞬言葉を失い、やがて顔を侮辱で真っ赤に染めました。
父は何かを言いかけましたが、それ以上わたくしと話すのも穢らわしいと判断したのか、忌々しげに舌打ちをすると、クラウディアを伴って部屋から出ていきました。
バタン、と閉められた扉の音が、最後の決別を告げていました。
一人きりになった部屋で、わたくしはベッドの脇にある小さな木箱に手を伸ばします。
ぎ、と音を立てて蓋を開けると、中にはたった一つだけ、古びた腕輪が収められていました。
それは、月光を編み込んだかのように繊細に輝く、銀色の腕輪。
長年肌に触れていた部分は滑らかに摩耗し、ひんやりとした感触が指先に伝わります。
これは、わたくしの唯一の宝物。
あれは、わたくしがまだ7歳だった頃。
魔力検査で『無能』の烙印を押され、同年代の貴族の子どもたちから「出来損ない」「ヴァレンシュタインの恥」と石を投げつけられて、庭園の隅で一人、声を殺して泣いていた日のことでした。
『――どうして、泣いているの?』
不意に、頭上から優しい声が降ってきました。
顔を上げると、そこにいたのは見知らぬ少年。
年の頃は、わたくしより少し上くらいでしょうか。夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪に、星空を閉じ込めたような深い紫の瞳が、静かにわたくしを見つめていました。
みすぼらしいわたくしの姿を見ても、彼は少しも馬鹿にするような素振りを見せません。
わたくしがしゃくりあげながら事情を話すと、彼は静かに隣に座り、こう言ってくれたのです。
『君は何も悪くない。魔力がないことが、君の価値を決めるわけじゃない』
『君の言葉は、とても綺麗だ。濁りがなくて、真っ直ぐで。いつかその言葉が、誰かを救う力になるかもしれない』
その言葉は、まるで乾いた大地に染み込む雨のように、わたくしの心を潤してくれました。
誰にも認められず、存在を否定され続けてきたわたくしにとって、それは生まれて初めて与えられた肯定の言葉でした。
彼は去り際に、この腕輪をわたくしの手首につけてくれました。
『これはお守りだ。君の本当の価値がわかる誰かが、いつか君を見つけてくれるまで、きっと君を守ってくれる。だから、顔を上げて』
名前も知らない、通りすがりの少年。
あれ以来、彼に会うことは二度とありませんでした。
けれど、彼の言葉とこの腕輪だけが、今日までわたくしの心を支え続けてくれたのです。
(わたくしの本当の価値、ですって…)
そんなもの、あるのでしょうか。
でも、もしあるのだとしたら。
この国を出て、遠いどこかで見つけることができるのでしょうか。
わたくしは腕輪を強く握りしめ、そっと手首にはめました。
ひんやりとした金属の感触が、不思議と心を温めてくれます。
夜が白み始めた頃。
わたくしはたった一つの鞄を手に、誰にも見送られることなく、ヴァレンシュタイン公爵家の重い門をくぐりました。
振り返ることは、しませんでした。
「さようなら、偽りの家族。さようなら、息の詰まる毎日」
そして、小さく、自分だけに聞こえる声で呟きます。
「こんにちは、わたくしだけの、新しい人生」
昇り始めた朝日は、まるでわたくしの旅立ちを祝福するかのように、世界を金色に染め上げていました。




